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礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2001-12-02『いのちの水の川』(黙示録22章1-7節) (イントロ)
旅行に出かける時、旅行の準備をしながら、その国はどんな国なのかいろいろ情報を集めます。そして実際に自分の目でその国を見ることを楽しみにします。同じように、神を信じる人々は、自分が死んだ後、最終的にどのような状態になるのか知りたいと思います。私たちが永遠を過ごす場所がどのような場所で、どのような生活をするのか少しでもいいから知りたいと思うのです。最初のユダヤ人であるアブラハムも天国について待ち望んでいました。ヘブル書の中に、アブラハムは地上ではテントで暮らしていたが、彼がいつも堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたと書かれています。私たちの地上の生活はテントの生活のようであると聖書は語ります。つまり、いつまでも続く生活ではないということです。神戸で大地震が起きた時、多くの人がテント生活をしなければなりませんでしたが、それはその人々が自分の家を失ったからです。自分の家ができるまで、一時的にテントでの不便な生活を我慢していたのです。テントの生活と家の生活はどれほど違うでしょうか。お風呂もトイレも自由に使うことができ、暖かく柔らかい布団の中で眠ることができます。私たちの地上の生活はテントの生活に似ていると聖書は教えます。不便なことがたくさんあり、本当の安らぎを感じることができません。しかし、永遠の住まいである天国は、堅い基礎の上に建てられた家のように安全で暖かで住み心地が良いのです。それが、イエス様が「わたしの父の家」と呼んだ場所なのです。天国ってどんな場所だろう。誰でも知りたいです。そこで神様はヨハネに天国に関する幻を見せられました。黙示録21章と22章にヨハネは自分が見た天国の幻を書き記しています。特に、22章には、天国の内側の様子が描かれています。 (1)いのちの水の川
御使いに連れられて新しいエルサレムの町の中に入ります。そこで彼が最初に見たものは、いのちの水の川でした。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。」(22:1-2)聖書の中には川に関することが数多く書かれています。神様が最初の人間アダムとエバのために造られたエデンの園には多くの木が生えていましたが、その園の中央を一つの川が流れていて豊かな実を実らせていたと書かれています。私たちが住む日本は豊かな水に恵まれています。山に行けばきれいな水の流れをどこにでも見つけることができます。また、毎日の生活でも、水道の栓をひねれば飲むことのできる水がいくらでも手に入れることができます。しかし、イスラエルのように砂漠が広がり、夏には非常に暑くなる国では、水がなければすぐに死んでしまいます。そこに住む人々にとっては水を手に入れることは生きるか死ぬかの大問題なのです。
の中央を流れるいのちの水の川は神と小羊の御座から流れ出しています。それは、私たちの主イエス・キリストがいのちの水であるからです。ヨハネの福音書(7章38節)でイエス様は言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」そしてヨハネは、このイエス様の言葉はクリスチャンに与えられる聖霊の働きを意味していると説明を加えています。私たちが礼拝で歌う賛美の中に「谷川の鹿のように」というのがあります。これは詩篇の42篇の「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」という御言葉をもとにして造られた賛美です。人間のたましいは神を慕い求めるように造られています。聖書は、私たち人間は神様のかたちに似せて造られたと教えます。言い換えると人間はたましいを持つ動物である、神を慕い求める魂を持っていることが他の動物と違う点なのです。つまり人間の心の中にはイエス・キリストだけが満たすことのできる渇きがあるということです。私たちは、食欲や、性欲や、物質的な欲望がすべて満たされたとしても、それだけではどうしても満たされない思いを持ちます。アウグスチヌスという人は「私たちの心は神に立ち返るまでは、決して本当の安らぎを持つことはできない」と言いました。私たちの心は、本能だけで生きる動物とは違って、神と交わることのできる心、つまり、神様だけが満たすことのできる心なのです。それは、神様によって私たちの心に永遠に対する思いが与えられているからです。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3章11節)天国の中心には、イエス・キリストの御座から流れるいのちの川が流れています。ですから、天国にいる限り、私たちの心は決して渇くことがありません。いつも、イエス様から与えられる渇くことのない水を飲むことができるからです。 (2)いのちの木
新しいエルサレムに川が流れているのを見ましたが、川の両岸に木が生えているのを見ました。それはいのちの木であると書かれています。エデンの園にも「いのちの木」が生えていました。ところが、最初の人アダムとエバが神様に対して罪を犯したため、人間は「いのちの木」から実をとって食べることができなくなりました。それは、人間が罪の支配を受けている限り、永遠のいのちを持つことは許されないからです。「いのちの木」という言葉は箴言の中にも繰り返し使われています。例えば「正しい人が結ぶ実はいのちの木である」とか「穏やかな舌はいのちの木である」などと言われています。つまり「いのちの木」というのは神様の祝福を表わしています。私たちは、罪を持っているため、「いのちの木」の祝福を受けることができなかったのですが、主イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪の罰を代わりに受けて下さったことによって、その祝福を受けることができるようになりました。「いのちの木」が天に生えているのですが、その木には「十二種の実がなり、毎月、実ができた。」と書かれています。12というのは完全数ですから、十二種の実というのはたくさんの種類の実がなることを意味しているのでしょう。また、毎月実がなるのですから、いのちの木の祝福がなくなる時はないことを表しています。私たち、主イエス・キリストを信じる者は、罪を許されました。この地上での生活では、許された罪人として生きていますから、罪からまったく解放されることはありません。しかし、この地上の生活を終えて、天国で神とともに生きる時、罪の支配は滅ぼされます。私たちは、完全に罪から洗い清められて神とともに永遠に生きるのです。私たちはいつでも自由にいのちの木から実を取って食べることができます。つまり、私たちは、あふれる祝福、絶えることのない祝福をいつも受けることができるのです。
不思議なことが書かれています。「その木の葉は諸国の民をいやした。」黙示録の21章には天国にはもはや病気はないと書かれています。」それなのに、なぜいのちの木の葉がいやすのでしょうか。「いやす」と訳されている言葉はテラペイアというのですが、英語のセラピーという言葉の元になっている言葉です。これは病気を癒すというよりも、「健康を与える」「より良いいのちを与える」と言う意味に使われます。ですから、いのちの木の葉というのは、今の、ハーブとかビタミン剤みたいなものに例えられると思います。病気をなおすためではなく、より健康になるように用いられるものだからです。天国では、私たちのいのちは、絶えず、このいのちの木の葉によって、十分なエネルギーを持ち、力強く生きることができるのです。
(3)もはや、のろわれるものは何もない
(4)もはや夜がない
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