|
礼拝めっせーじ
|
| 礼拝説教12/09|礼拝メッセージ集2001|礼拝メッセージ集2000|聖日礼拝| |
礼拝説教
2001-12-09『時は近づき時は去る』(黙示録22章8-17節) (イントロ)
世界の情勢は相変わらず私たちに不安を与えています。アフガニスタンでの戦争が終わりに近づいていますが、今後アフガニスタンに安定した平和な状態が続くように、私たちは祈る責任があります。色々な民族が混じっている国にとって一つにまとまることは本当に難しいようです。また、イスラエルとパレスチナの衝突が続いています。無駄な争いが続かないように祈ることも必要です。このような状況を見て、多くの人が世の終わりが近いだろうと考えています。そして将来に対する希望が持てない状態です。これから自分たちが住む世界がどうなるか分からないからです。しかし、聖書は、何千年も前から、この世界に終わりが来ることを預言しており、そのために、いつも気を引き締めて生きるように勧めています。これまで私たちは黙示録を学んできました。黙示録の中に、世界の将来の姿が預言されていますが、かなり恐ろしい預言も多くあります。神様がこの世の悪・罪を裁かれることが預言されています。しかし、どのような恐ろしい出来事が起きるとしても、すべてのことは神様の支配の中にあり、神様の計画の中にあるということを知れば、私たちは不安を感じる必要がなくなります。そして、黙示録の最後のところには、この世の終わりは、主イエス・キリストを信じる者にとっては、天国に移されることであるとはっきり記されています。天国に移されるまでの時間は、すべて途中経過なのです。途中がどんなに大変なものであっても、最終的に落ち着くところが素晴らしい所であることを知っているならば、私たちは、この世界がどんな状況になっても希望を持つことができます。黙示録は、あくまでも、希望の書物です。天国というのは、ただ私たちにとっての老人ホームのような場所、人生の最後に落ち着く場所と言うだけの意味ではありません。私たちの新しい人生が、天国で再び始まるのです。これまでの生活とはまったく違う、まったく新しい、一切の悲しみや、苦しみや痛みから解放された生活を始めるのです。ヘブル人への手紙の中に旧約聖書の信仰者についてかかれていますが、その中に次のような言葉があります。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」彼らは約束の天国を夢見ていました。彼らはその約束を死ぬ前に手に入れることはできませんでしたが、いつも天国を目指して喜びの人生を生きました。そして、地上の生活では、いつもこの世界は一時的であり、地上の生活は旅人のようなものだと信仰告白していました。ですから、天国を目指すというのは、「ああ、天国行きが決まってよかった」とほっとすることではなく、その目標を目指して、いつも喜びと希望をもって信仰を告白する生活を生きること、つまり人々に自分の信仰を証しする生活だと思います。 (1)預言の言葉を守る生活
「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」と言われました。主ご自身の口から「わたしはすぐに来る」という言葉が語られました。この「すぐに」という言葉は「すばやく、遅れることなく」という意味ですが、ヨハネが黙示録を書いた時からすでに2000年たっているので、人間的に見ると、主イエスはすぐには来られませんでした。しかし、ここでは主が必ず再びこの世に来られるということ、絶対にこの約束は破られないということを言っています。ですから、主イエスは弟子たちに対しても「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」と言われたのです。主が再び来られる時がいつであるのか、誰も知りません。しかし、主は思いがけない時に来るので、いつも、私たちは目を覚まして信仰生活をしなければなりません。私たちは、主イエスキリストの十字架によって、罪を許され神様の子どもとされましたが、罪が完全になくなったわけではありません。今も、古い自分、古い自我が残っています。私たちが目を覚まして信仰生活をするというのは、いつも自分の心を点検して生活することだと思います。信仰生活を続ける時に、いつの間にか古い自分が再び現れることがあります。古い自分は、自分の利益、自分の名誉を求めます。自分を守り、自分の願い考えを主張します。そして、そのような時、私たちは満たされない気持ちで心がいっぱいになってしまうのです。自分のこと、この世の生活のことばかり考えて、神様のこと、主イエスのこと、主が再び来られることなどについて考えようとしなくなります。そして、信仰を持った時は教会生活、家庭での信仰生活が熱心だったのに、神様のことよりも自分のことばかり考えるようになります。これが眠ったクリスチャンです。主は、そのようなクリスチャンに「目を覚ましなさい。用心していなさい。」と警告しておられます。主イエスは言われました。「預言の言葉を堅く守るものは祝福を受けます。」私たちは、いつも、主イエスに対して態度を変えることなく、忠実に従うことが必要です。主に仕えて生きるという決断が必要です。その時、私たちは約束として神様から多くの祝福を得ることができます。この世の利益、この世の名誉はいつか必ず消えてしまいます。しかし、神様から与えられる祝福は永遠に消えることがありません。私たちは、いつも、自分の信仰が眠った信仰なのか、目を覚ました信仰なのかチェックすることが必要です。 (2)清い生活
「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。」という言葉があります。自分の着物を洗うとはどういう意味でしょうか。黙示録の7章14節では、ヨハネは神の民が白い着物を着ている情景を見ます。そして、御使いがヨハネに説明しました。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」彼らは、以前は罪で汚れていました。しかし、主イエスが十字架にかかって彼らの罪の罰を身代わりに受けて血を流してくださいました。彼らは、主イエスの血で自分の着物を洗って、罪の許し、罪からの救いを受け取りました。ここで、「着物を白くした」という言葉は、過去のある時に一回だけ着物を白くしたということを現す言葉です。しかし、22章の14節に書かれている「自分の着物を洗う」という言葉は、繰り返して行うことを意味する言葉が使われています。つまり、14節の言葉は、クリスチャンに対する警告の言葉です。「毎日毎日、自分を点検して汚れたところがないか調べなさい。汚れがあれば、それを悔い改めて、主イエスの血によって洗ってもらいなさい。そしていつも清い人でいなさい。」という勧めの言葉です。私たちは繰り返して、救いを受ける必要はありません。私たちが、自分の罪を悔い改めて、主イエスを信じる時、私たちはその瞬間に、すべての罪が許されて、神の子供となる特権を得ることができます。それはただ一度だけの出来事です。救いは一度で十分です。しかし、私たちは、いつも自分を点検して、自分の着物を洗って、主イエスの教えに忠実に従い続けることが必要です。それが、主が再び来られる時に対する必要な準備なのです。
15節には「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。」と書かれています。ユダヤ人にとって、犬はかわいいペットではありませんでした。彼らにとって、犬は町のごみをあさって、盗み食いをする不潔な動物でした。彼らは、自分の着物を白く洗わなかった人々です。彼らは天国に入ることは許されません。イエス・キリストが十字架で流された血は、私たちのすべての罪を許す力があります。それは、例えて言えばせっけんみたいなものです。それで洗えば着物は白くなります。しかし、人はその石鹸を使って着物を洗わなければなりません。いくら石鹸があっても、洗わなければ、着物は白くなりません。汚れたままです。主イエス・キリストはすべての人の罪を許すために十字架で血を流されましたが、私たちは、それを受け取らなければなりません。この世界は、神様に属する人々と、神様に属さない人々の二つのグループに分かれています。しかし、これは神様が不公平だと言う意味ではありません。17節にあるように、神様はすべての人々を招いておられます。「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」神様の前に自分の罪を認めて、信仰によって、主イエス・キリストを救い主として受け入れるならば、すべての人は罪を許され、救いを受けることができるのです。それが黙示録のメッセージです。しかし、それを受け取るか受け取らないか、一人一人が選らばなければなりません。人は、自分の人生の中でいつも選んでいます。その選びの結果が当然来るのです。神様に属さない人は永遠に恐怖に満ちた時を迎えますが、キリストを信じることによって神に属する者となった人々は栄光と喜びに満ちた永遠の時を過ごすことになります。 (3)イエスキリストの再臨を期待する生活
の22章で、つまり聖書の最後の章で、主イエスは3回「わたしはすぐに来る」と言われました。主イエスはヨハネが黙示録を書いた時、彼が一番待ち望んでいたことは主が再び現れることでした。ですから彼は「主よ。来てください。」と叫びました。しかし、彼の希望は彼が生きていた時代には実現しませんでした。今、様々な問題に満ちた世界、争いと憎しみに満ちた世界に生きる私たちにとっても、私たちも主が早く来てくださることを願います。必ず、主イエスは再びこの世に来られます。それがいつなのかは分かりませんが、主は必ず約束を果たす方です。しかし、たとえ主イエスが見える姿で私たちの前に現れないとしても、主の約束は「世の終わりまでいつもわたしたちとともにいてくださる」ということです。それがわたしたちの慰めです。聖書の最後は「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。」という言葉で終っています。神に属するすべて人々に、主イエスの恵みが約束されています。この世界で何が起きるとしても、この世の悪がすべて滅ぼされる時が来ます。主イエスを待ち望む私たちには永遠の喜び、永遠の恵みが約束されているのですから、忍耐をもって信仰生活を歩み続けて行きましょう。
ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |