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礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2001-12-30『新しい年に向かって』(コロサイ3章12-17節) (イントロ)
(1) 教理面の大掃除
二つの面があります。それはどういう教えを自分たちは信じているかという教理の面です。もう一つはその信仰をどう生活の中で働かせるかという実践的な面です。そのため、パウロが書いた手紙は、たいてい、前半は教理的なことに関する内容であり、後半は実際的な面に関する教えを書いています。
というのはギリシャ語で「知恵」特に「霊的な知恵」という意味を持つ言葉です。コロサイ教会のある人々が、自分たちが「グノーシス」を持っているので、神様の深い教えを理解出来るのは自分たちだけだと言い始めたのです。つまり、自分たちは教会の中でも霊的に特別な賜物を持ったエリートであると主張したのです。彼らは、自分たちだけが神と本当の交わりができて霊的に完全であると教えました。それは、自分たちだけが理解できる霊的な真理があって、このグノーシスを持つ時に、人は霊的に無知なこの世界から解放されて、神と御使いとの完全な交わりを持つことが出来ると教えました。
に対してパウロはコロサイ書の2章8節で「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。」と反論しています。パウロはグノーシス主義を「空しい教えであり、人をだます教えだ」と言っています。その理由は、それが人の言い伝えだからだとパウロは言います。どんな教えでも、その教えがどこから来ているのかが大切です。その教えが神から、あるいは神の言葉聖書から来ているのか、それとも人から来ているのか、それを私たちははっきりと見分けなければなりません。パウロは2章3節で、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」とはっきりと述べています。クリスチャンにとってまず第一にしなければならないことはキリストを神の御子として信じ受け入れることです。そして、信じた後も、絶えずキリストを受け続けなければなりません。もし、私たちがキリストを信じるならば、神様の満ち満ちたすべてのものを持つのです。私たちにはキリストへの信仰だけで十分なのです。コロサイ教会では、グノーシスの人々がキリストだけでは不十分であるといって天使を礼拝することを教えていました。また、コロサイ教会にいたユダヤ人の中にはいろいろな儀式を守らなければ救われないと教えました。しかし、聖書は、私たちはイエス・キリストにあってすべてのものを持っていると教えています。キリストはわたしたちのために、律法が要求するすべてのことを成し遂げてくださいました。だから、イエス様は十字架で死ぬときに「完了した」と宣言されたのです。
、私たちは、神を求めるときに、キリスト以外に何も求める必要はありません。私たち人間は、しるしを求めるのが好きです。預言の賜物とか、いやしの賜物を求めるのが好きです。確かに神様は今もそのような賜物を人々に与えてくださると思います。しかし、それは私たちの救いの信仰の中心点ではありません。私たちの信仰の土台は、他では絶対に解決できない私たちの罪は、イエス・キリストが、私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったことによって完全に許され、解決してもらったということです。信仰は、イエス・キリストだけ、十字架だけに中心がなければいけません。カメラでもピントは一つのものに合わせます。私たちの信仰のピントもキリストだけに合っていないと、信仰がぼやけてしまうのです。
にとって問題となりやすい教えが世の終わりに関する教えです。私たちも今年黙示録を学びましたが、聖書ははっきりと世の終わりが来ることを教えています。それは間違いありません。この世界はいつまでも続くのではなく、必ず、この世界の悪が裁かれ、この世は終わりを迎えます。しかし、イエス・キリストを信じる者の魂は、確実に天国に移されます。そして天国で、永遠に神とともに喜びに満ちた時を過ごします。それは確かです。しかし、その終わりがいる来るのかということは聖書は教えていません。イエス様は世の終わりがいつ来るかということに関して次のように言われました。「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」世の終わりがいつなのか誰も知らないと言われましたが、天の御使いたちも子も知らないと言われました。神の子である主イエスが、「わたしも世の終わりがいつか知らない」と言うのは不思議です。キリストは神ですから、すべてのことを知っておられるはずですが、子なるキリストも知らないとはどういう意味でしょうか。実は、「知る」という言葉の意味はユダヤ人が使うヘブル語と西洋のギリシャ語ではかなり違うのです。ギリシャ語では、単に、「知識として知っている」という意味ですが、ヘブル語では、知識というよりも、興味・関心・愛情を意味しました。例えば、終わりの日に神の裁きの場所で、主イエスが「私はあなたを知らない」と言う場合、知識として知らないという意味ではないことは明らかです。ですから、イエス様が世の終わりの時期に関して言われたことの意味は、「世の終わりの時期や場合は、父なる神がご自分の権威によって決めておられるので、あなたには関わりのないことだ。私もあなたがたにそのことを教えるつもりはない」という意味なのです。そして、世の終わりの時期がいつかということで空しい議論をするよりもむしろ、いつ世の終わりが来てもよいように、準備をしなさい。ぼんやりとした信仰生活ではなく、目を覚ました信仰生活を送りなさいということを教えておられるのです。
、主の再臨の問題はキリスト教の歴史で繰り返し起きてきました。エホバの証人のグループは1914年が世の終わりだと主張していましたが、今では、その教えを変えています。日本でも戦前に間違った再臨を待ち望む運動が起きて、クリスチャンの中には仕事をしないでただイエスが再臨するのを家の屋根に登って待っていた人がいたそうです。最近では1992年に韓国で同じような運動が起こりました。韓国の「タミ宣教会」という教団が、1992年10月29日にキリストが再び現われ、選ばれたものだけが天上に引き上げられるという教義を持っていました。メンバーたちは財産を売って10月29日を待っていましたが、もちろん、その日には何も起こりませんでした。翌日、その教団は新聞に謝罪広告を出し、教団を解体したのです。このように、教理の問題は私たちの信仰生活に非常に大切です。私たちも、コロサイ教会の人々と同じように、空しい人をだます教えに流されないで、しっかりとイエス・キリストを信じ続けなければなりません。
(2) 信仰生活の実践面での教え
は私たちの生活にどのように現れるのでしょうか。イエスを主とすることは、その他のすべてのものを主としないということになります。パウロはクリスチャンになる前はユダヤ教の信者でした。彼はユダヤ教ではエリートでした。最高の教育を受けており、家系も自慢できました。しかし、彼はキリストを信じることによって、それらすべてのものはごみのようだと言いました。キリストが彼の人生の主になったからです。それで、パウロは「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」と言いました。キリストが主であっても、やっぱりこの世で力があるのは金だと心の中で信じるならば、その人はキリストを主としていません。「自分にとって嫌なことも、辛いこともであっても、主が命じることには従って行きます」という心の姿勢がキリストを主とすることなのです。古い人を脱ぎ捨てて初めて私たちは新しい人を着ることができます。
12節で「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」と書いています。私たちクリスチャンは神様に選ばれた者です。クリスチャンだけではありません。今日、教会に集まっているすべての人は神様から選ばれているのです。私たちは選ぶとき、普通は一番良いものを選びます。しかし、神様は私のような人間を宝物のように大切に見てくださり、選んでくださいました。それだけでなく聖なる者とされました。聖なる者とされるというのは、私たちがイエス・キリストを信じたときに、神様は私たちをこの世から救い出して神様との特別な関係に入れてくださったという意味です。それはちょうど結婚する時に男と女が互いに相手だけと一緒に生きるようになることと同じです。私たちはそのような特別な関係を神様から与えてもらっています。そして神の愛を受けているのです。これまで神を無視して神に逆らって生きてきたような者を神様は選び、愛してくださいます。
を受けた者は神様が望むような生き方をしたいと思うのが自然です。神様から特別に扱われた私たちには責任があります。それは新しい生き方を着ることです。12節には深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を着なさい」とあります。クリスチャンが身に付けるべきものが書かれています。私たちは、自分の信仰のたんすの中にこれらのものがなくなっていないかいつも調べることが必要です。いつまでも罪を避ける、悪を避けるという消極的な生き方をするのではなく、積極的に新しい生き方を身に着ることが大切です。それは、深い同情心であり、自愛であり、謙遜であり、柔和であり、寛容です。そして14節にあるように、それらをすべてまとめるのが、愛です。12節にあげられている様々な性質を一言でいうと、愛なのです。キリストの愛が私たちの生き方を支配するとき、私たちの生活に美しい調和があり、霊的な実を結ぶ成熟したクリスチャンになるのです。グノーシスの教えには生活の実践面は含まれていませんでした。霊的な知恵ばかりを追い求めて、キリストの性質を身につけることは大切だとは考えられていませんでした。しかし、私たち神に選ばれ、神に選ばれた者は、キリストの性質を身につけるものでなければなりません。新しい年を迎えるにあたって、私たちの信仰の教理と生活の実践を見直すことが必要です。不必要なもの、相応しくないものを脱ぎ捨て、キリストの心、一言で言えば、キリストの愛で心を満たして行きましょう。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |