2002礼拝めっせーじ
礼拝説教01/06|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-01-06『神の永遠の計画』(エペソ1章3-11節)

(イントロ) 

私たちの
教会は
来年の3月で創立20年を迎えます。群馬大学の医学部で学んでいたクリスチャン学生たちの心にビジョンを与え、北本の地にキリスト教主義の診療所を立てようという思いへと神様は導きました。そのことを考えると、私たちの教会の歴史はもっと長くなります。しかし、神様の計画の中では、私たちの北本福音キリスト教会は、実は、永遠の計画の中で決められていたことだと言えるのです。今年は、教会とは何かということについて、礼拝のメッセージの中で考えたいと思っています。教会という言葉を聞くと、私たちは普通建物を考えます。ヨーロッパには素晴らしい教会の建物がたくさんあります。しかし、教会は建物だけではありません。ギリシャ語で「エクレシア」と言うのですが、これは「呼び出された人々」「呼び集められた人々」と言う意味です。神様が、罪と悪に満ちた世界から私たちを一人一人呼び出して下さいました。そして今集まっているのがこの教会なのです。聖書の中に教会のことについて教えている個所がいくつかありますが、パウロが書いた「エペソ人への手紙」はとくに詳しく教えています。今年は、イースターの後、エペソ人への手紙から神様が教会について何を教えているのか学びたいと思います。
 今日の個所でパウロは神様を賛美していますが、神様から素晴らしいものを与えられた喜びを述べています。クリスチャンが神様からどんな素晴らしいものを受けているのか今日は、そのことを考えたいと思います。

(1)神に選ばれた恵み
エペソ人
への手紙

の1章は短い挨拶の後、3節から14節までパウロは神様の素晴らしさを称えています。特に、きのうも今日も、いつまでも変わることのない神様が永遠の計画を持っておられることが書かれています。なぜ神様が素晴らしいか、その理由がいくつか書かれていますが、その第一は、神様が永遠の計画の中で私たちを選んでくださったという点です。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(4節)私たちは、自分がいつ、どこでイエス・キリストを信じたかということを考えます。私自身の場合、1973年の4月4日水曜日の夜、自分の部屋で「イエス様、あなたの十字架はわたしの罪を許すためであったことを信じます。」という短い祈りを捧げました。ですから私にとっては、その日がクリスチャンになった日です。しかし、4節の言葉によると、実は、それよりもはるか昔、世界の基が置かれる前から神様は私を選んでくださったのです。私は大阪にある大学の1年生の時にニュージーランドからの留学生でクリスチャンだったグレアムという友人との出会いがきっかけで聖書と出会いました。彼は私が1年生の時に6ヶ月だけ私の大学で日本語を勉強し、その後東京の別の大学に移りました。私は、大学の入学式の時に、いろいろなサークルの勧誘を受けたのですが、びっくりしたことに、私が中学時代に同じクラブの先輩だった人が国際交流のサークルの勧誘をしていたのです。その先輩が自分と同じ大学に行っていることは全然知らなかったので、その先輩に誘われて国際交流のサークルに入りました。そしてその年の10月にグレアムが日本に来たのです。そのサークルに入っていなかったらグレアムと友達になることはなかったでしょう。そして、彼と出会っていなかったら、私はクリスチャンになってはいなかったでしょう。このように考えると、私は自分でクリスチャンになる決心をしましたが、そこに行くまでのプロセスを考えると、それは偶然ではなく、神様が私をクリスチャンになるように一歩一歩導いておられたのだと確信するのです。皆さんが今朝、この教会の礼拝に集っているのも同じです。私たち一人一人教会に来るようになったきっかけは違います。しかし、その背後には、いつも神様が働いておられたのです。偶然、この場所に来ている人は一人もいないのです。

3節を

見ると、神様は私たちに「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった」と書かれています。私たちが神様から選ばれたのは天国にあるすべての霊的な祝福を受けるためだったのです。私たちが誰かにプレゼントをする場合、普通は、自分にとって大切な人、自分が好きな人に贈ります。神様がなぜ私を選んでくださったのか、それは、ただ神様だけが知っていることです。しかし、私たちにとっては、本当に嬉しいことではないでしょうか。天国にある霊的な祝福というのは、私たちがどんなに努力しても、勉強しても、財産をためても、人間の力で得ることのできないものです。私たちは高い地位を手に入れることはできます。大きな家を建てることもできます。財産をためることもできるでしょう。それらのものは人間的な努力で手に入れることができますが、天にある霊的な祝福とはなんでしょうか。パウロは霊的な実について9つのことをあげています。ぶどうの実が私たちを楽しませるように、霊的な実も私たちに大きな祝福を与えます。それらの実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。どんなにお金を積んでも本当の愛を買うことはできません。本当の喜び、本当の平安を手に入れることはできません。それらのものを神様が私たちに与えるために、私たちは選ばれているとは、何と感謝なことではないでしょうか。

神様が

願っておられることは私たちが「聖く」なることですが、前にもお話したと思いますが、聖書の「聖い」という考え方は、「ただ神様のためだけに他のものから分けられている」という意味で使われます。この世の人々は皆、自分のために生きています。自分のために勉強し、仕事をし、自分が得をすることだけを考えて生活しています。しかし、クリスチャンが聖なる者となるというのは、自分のためではなく、ただキリストのために勉強し、キリストのために仕事をし、キリストのために生活をするという意味です。イエス様が教えられた聖書の中で最も大切な戒めは「まず第一に神を愛すること、そして第二に自分を愛するように隣人を愛すること」です。クリスチャンはキリストのために生活をするのですが、それは、自分を満足させるためではなく、キリストを喜ばせること、具体的には隣人の誰かのために役に立つ生活を意味します。自分の欲望から解放された目標を持って生きる時、人は本当の生きがいを感じるのだと思います。

(2)神に赦される恵み
第二に

神様から受ける素晴らしいものは「赦し」です。7節を読みましょう。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」キリスト教は、神様を探したり、生きる意味を探したり、人生の悩みを解決する方法を必死になって捜し求めるという宗教ではありません。私たちは、ただ信じれば救われるのです。すごく簡単なことです。しかし、簡単なことの背後には神様の準備がありました。私たちがただ信じれば救われるために、神様はイエス・キリストをこの世に遣わし、完全に聖いお方が十字架で人類の罪を全部背負って苦しみました。イエス・きり素とは私たちの身代わりとなって十字架の死を経験しました。これを贖いと言います。「贖い」という言葉はもともと奴隷を買うときに支払うお金のことを意味していました。昔、イスラエルでは、誰かの奴隷を自分のものにするために、その奴隷の持ち主にお金を払いました。その人が払ったお金のおかげで、その奴隷は前の持ち主の支配を受けることがなくなりました。そして新しい持ち主のところで生活をするようになります。私たちは、イエス・キリストを信じる前は、自分の心の中にある自己中心、聖書はそれを罪と呼びます。罪の奴隷になっていました。人は罪を持って生きる時、本当の自由、本当の喜び、本当の平安を持つことができません。かつてのイスラエルの王ダビデは、詩篇の中で、罪を犯した時の苦しみを語っています。詩篇の32篇の3-4節です。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」ダビデは自分の部下の妻を奪うという大きな罪を犯しました。その後、彼の心から自由と喜びは消え去り、心が奴隷状態になって苦しみました。イエス・キリストによる罪の赦しは、この心の束縛からの解放を与えるのです。主イエスは十字架につけられたときに7つの言葉を言いましたが、最初の言葉は「父なる神よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか自分でも分からないのです。」という言葉でした。十字架で示されたイエスの愛は、すべての人のすべての罪を赦す愛でした。その赦しはイエス・キリスト以外に得ることはできないのです。

(3)神の奥義を知らされる恵み
神様が

私たちに与えて下さるのはただ罪の赦しだけではありません。8-9節を読みましょう。「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」神様が、私たちから罪を取り除いてくださるとき、神様は私たちを霊的に、道徳的に、精神的に、空っぽの状態にするのではありません。私たちは自分の努力で必死になって、空っぽの心を埋める必要はないのです。神様は、恵みを私たちの上にあふれさせてくださるからです。そして私たちに知恵と思慮深さを与えてくださいます。私たちがイエス・キリストを信じる時に、あらゆる知恵と思慮深さを受けるのです。フランスの哲学者アンドレ・モロワという人は次のように言いました。「この宇宙は無関心である。誰がこれを作ったのか。我々がなぜ小さな星の上に乗って、無限大の宇宙の中をくるくる回っているのか。そんなこと、私にはわからない。そして、きっと、この世の誰にも分からないはずだ。」神の存在を認めず、神を信頼しない人には、自分が生きていることの意味、宇宙が存在する意味、永遠とは何かということは決して分かりません。しかし、主イエスは、ある時、天の父なる神に向かって叫びました。マタイの福音書の11章25節です。「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」そしてこのことが神様の御心だと言われました。

そして

「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました」と書かれていますが、この奥義と言う言葉は英語の「ミステリー」という言葉の基になった言葉が使われています。ミステリーというと普通の人には簡単には理解できない神秘的なものを考えますが、新約聖書で使われている場合はそのような意味では使われていません。奥義とは、長い間神様がはっきりと表してこなかったことを、ついに、それが神を信じる人々に明らかにされたという意味です。旧約聖書のすぐれた信仰の人々もしることの出来なかった真理を、キリストが来られたことによって明らかにされたということです。これまでは隠されていたことがキリストの十字架によって神様と人との間に結ばれた新しい約束によって明らかになったのです。例えば、私たちの教会では、月に一度礼拝の中で聖餐式を行っています。イエス・キリストの体を現すパンと血潮を現すぶどう酒を受けることによって、イエス・キリストの十字架を思い出す大切な式ですが、クリスチャンでない人にとってはまったく何のことだか理解できないでしょう。ローマの時代に、クリスチャンは人食い人種だといううわさが流れました。それは、聖餐式の中で、牧師はパンをとって「これはキリストの体です」と言います。それで、当時、クリスチャンは人間の体を食べるのだとうわさされたのです。そのように、旧約聖書の人々は知ることができなかったのですが、キリストが来られた後、今の私たちもそうですが、キリストによる神様の救いの計画が明らかになったのです。その奥義を神様は私たちに知らせてくださいました。


そして
その奥義は

人間の歴史に関係するものです。10節に「この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」と書かれています。それは、神様の永遠の計画の中で「神様のみこころの時」があるということです。そして、その時には、この世界のすべてのものはキリストによって一つにまとめられるのです。人間の罪によって混乱し、ばらばらに分裂している世界が、将来、キリストの支配によって一つにまとめられると聖書は預言しています。

私たちが

イエス・キリストを信じるとき、私たちは神様に選ばれた者であることを知ります。そして罪が赦され神様との交わりを回復します。私たちは、どんな時も神様がともにいることを知ります。それだけでなく、神様は私たちが住む世界がどのようになるのかという人間の歴史の将来も教えてくださるのです。この恵みを受ける時に、私たちは本当の希望と、本当の平安を持つことが出来ます。あなたも、この壮大な神様の計画の中に入れられています。あなたは神様の選びにどう答えるでしょうか。

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