2002礼拝めっせーじ
礼拝説教02/03|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-02-03『キリストの愛の言葉』(ヨハネ19章25-27節)

(1)十字架につけられた主イエス 

主イエス
はエルサレムの街の外で十字架にかけられました。それは「どくろ」と呼ばれる場所で、犯罪人はそこで処刑されていました。今日では、死刑の場面を一般の人場見ることはできません。しかし、主イエスは、大勢の人が行き来する場所で十字架にかけられました。時に、主イエスが十字架にかけられたのは「過越し」というユダヤの一番大きな祭の時でしたので、街の外をいつもよりもずっと多くの人々が通っていました。イエス様のことは、当時、人々の間でも評判になっていましたから、主が逮捕され、死刑を宣告されて、十字架にかけられるというニュースは人々に大きな衝撃を与えていたと思います。ですから、当然、大勢の人々がその場面を見ようと集っていたことでしょう。

当時、

犯罪者が処刑される場合、百人隊長と4人の兵士が立ち会いました。そして、この任務についた兵士の特権として、彼らは、その犯罪者の持ち物を分け合っていました。それで、彼らは主イエスが来ていた衣服を全部分け合いました。ユダヤ人の男性は普通5つのものを身につけていました。サンダル、ターバン、帯、下着、そして上着でした。4人の兵士が一人ずつひとつを取って、下着が残りました。それを彼らはさいころを投げて誰がもらうかを決めていたのです。その下着は23節を見ると「上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった」と書かれています。実は、このことは詩篇の22篇に預言されていました。22篇の18節に「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」と書かれているのです。また、この縫い目のない下着というのは、当時、ユダヤ教の祭司が着ていた下着と同じものでした。祭司とはキリスト教の牧師のような働きをした人ですが、最も大切な働きはイスラエルの人々の罪が赦されるように神様に祈ることでした。つまり、祭司とは人間と神様との間に入って橋渡しの働きをしていたのです。旧約聖書の時代には大祭司が年に一度イスラエルの民全体の罪の赦しを願ってお祷りをし、いけにえを捧げました。エルサレムにあった神殿には、中に幕がかけられていて、聖所と至聖所に分けられていました。至聖所には大祭司だけが一年に一度だけ入ることが許されたのです。ところが主イエスは大祭司よりもさらに優れた働きをされました。大祭司は動物のいけにえを捧げましたが、主イエスはご自分のいのちを捧げてくださいました。主イエスが十字架の上で息を引き取ったとき、神殿の中の幕が上から舌まで真っ二つに裂けました。それは、今まで人間と神様を隔てていたものがなくなったことを意味したのです。主イエスの十字架の死によって、私たちの罪が赦され、今では、私たちは直接神様に祈ることができるようになったのです。私たちは、本当は聖なる神様に直接祈れるような聖い人間ではありませんが、主イエスの十字架によって、祈ることが特別に許可されたのです。だから、いつもお祷りをするとき、私たちは「主イエス・キリストの御名によって」と祈るのです。

(2) 十字架のそばにいたヨハネの4人の女性たち
主が十字架で

ものすごい苦しみを感じている間、ローマの兵士たちはイエスの下着を面白そうに取り合っていました。彼らは主イエスの十字架にまったく無関心です。今日の私たちを表わしているようです。しかし、十字架の側には他にも大勢の人が集っていました。その中に4人の女性がいたことをヨハネは記しています。25節に「イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。」と書かれています。まず、イエスの母マリヤです。マリヤは、イエスが今目の前で苦しんでいるのを見てどのような気持ちだったでしょうか。マリヤにとって、主イエスは神の御子救い主であると同時に息子でもありました。実は、彼女は以前、このような苦しみの日が来ることを預言で知らされていました。それは、イエス様が生れた直後、ユダヤ教の教えに従ってマリヤとヨセフが幼子をかみに捧げるために神殿に出かけた時でした。神殿で彼らはシメオンという名前の老人に出会いました。この人は正しい人で、救い主を見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。そのシメオンがマリヤに言ったのです。「ご覧なさい。この子は、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」マリヤは十字架にかけられた主イエスを見ていました。主の顔にはつばがかけられていました。茨の冠をかぶらされていたために、血が流れていました。そしてイエスの手足には太い釘が打たれて血がどくどくと流れていました。母親として想像を絶するような苦しみを感じていたことでしょう。何とかイエスを助けたいと思ったことでしょう。しかし、マリヤは何も言わずにじっと立っていました。彼女は大きな声で叫ぶこともできたはずです。イエスがかけられた十字架にはイエスの頭上に罪状書きがつけられていました。そこには「ユダヤ人の王」と書かれていました。彼女は「この人はユダヤ人の王ではありません。救い主でもありません。」と叫ぶこともできたでしょうが、彼女は黙ったままでした。キリストが神であることに、彼女は嘘をつくことができなかったのです。マリヤはイエスが神の御子であり、またイエスが十字架にかからなければならなかったことを誰よりも理解していたのかもしれません。彼女はただ黙って主イエスを見ていました。

マリヤの姉妹

と書かれている女性は誰でしょうか。他の福音書(マルコ15:24、マタイ27:56)を読むと、この女性はイエスの弟子ヨハネとヤコブの母サロメであることが分かります。実は、彼女は、主イエスが十字架にかけられる少し前に、イエスの所へ来て、自分の息子であるヨハネとヤコブに天国で一番良い地位を与えてほしいとお願いに行ったのでした。すると主イエスは彼女を叱りました。そのような願いは間違っていると教え、自分の行くべき道は苦難の道であると教えたのです。サロメはこのように主イエスからきびしく叱られましたが、それでも、彼女は主イエスの十字架の近くに来ていました。彼女が主イエスの叱責を受け入れ、反省し、そして以前と変わらずに主イエスを信じ、従っていたのです。マグダラのマリヤは主イエスから7つの悪霊を追い出してもらった女性です。彼女は、主イエスが自分のためにしてくれたことを生涯忘れることがなかったのでしょう。最後にクロパの妻マリヤ、これはだれのことであるのか分かりません。いずれにせよ、この福音書を書いた弟子ヨハネと4人の女性は自分の身の危険を顧みずに、十字架のすぐ近くに立って、主を見守っていました。イエスの弟子たちは、ヨハネを除いて、自分の身の危険を感じて逃げていました。ところが、このように女性たちは最後まで主イエスの近くにい続けました。いざとなると、女性のほうが信仰の面でも、度胸の面でも男性よりも強いのかもしれません。

(3)主イエスの言葉
そのとき、

主イエスは、十字架の激しい苦しみの中でしたが、母マリヤとそばに立っている「愛する弟子」とを見たと書かれていますが、「愛する弟子」とは、この福音書を書いたヨハネのことです。主イエスは母マリヤとヨハネとを見ました。主イエスにとって彼らが十字架のそばにいたことは大きな励みになったことでしょう。そして、主は母マリヤに言われました。「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」「女の方」というのは私たちには少し奇妙な感じがする言葉ですが、これはヘブル語では女性に対する尊敬を表す言葉です。しかし、マリヤに対して母と呼ばないで、「女の方」と呼ばれたのは、肉の親子として語っているのではなく、神の御子として語っておられるからです。そのことはマリヤもよく分かっていましたから、マリヤは決して主イエスに向かって「息子よ」とは呼んでいません。主は弟子ヨハネを指して「そこにあなたの息子がいます」と言われ、ヨハネに向かっては「そこに、あなたの母がいます。」と言われました。私たちは、自分が大きな苦しみを経験している時には、自分のことを考えるだけで精一杯です。しかし、主はそのようなときでも、処刑場に集まっていた人々のことを考えておられました。罪びとの赦しを願われただけではなく、自分の家族に対する深い愛と配慮を示されました。十戒の中に神が人間に与えた10の命令が書かれていますが、初めの4つは神様との関係に関する命令であり、残りの6つは人間関係における命令です。その人間関係の命令の最初のものが「あなたの父と母を敬え」という命令です。主イエスは、神の御子としての使命を果たすために、家族から離れてさまざまな働きをされましたが、十字架の死を前にして、主は愛する母親に対して深い思いやりを示されたのです。私たちも、家族に対する態度において主イエスを見習う必要があると思います。このことについてパウロも同じ教えを語っています。第1テモテの5章8節で「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」と語っています。神様は家族の関係を大切に考えておられます。ですから、パウロは、家族としてふさわしい生き方をしない者、家族を愛さない者は自分をクリスチャンと呼ぶ資格はないと断言しているのです。

ところで、

主イエスが弟子ヨハネに母マリヤの世話を頼むのは少し変な感じがします。マリヤには他に子供がいたのです。人間的に見れば主イエスの弟たちがいたのですから、普通なら彼らに母の面倒を見るように頼むはずです。マリヤの子供たちは、この時、まだ主イエスを神と信じていなかったからだと思われます。主イエスが母を任せることができたのは弟子ヨハネだけだったのです。27節に「この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」と書かれています。マリヤは弟子のヨハネとともに生活するようになりました。、主イエスが天に帰られた後、弟子たちは、イエスの命令を守って、エルサレムを離れずに一緒に集まって祈りに専念していました。使徒の働き1章14節を見ると、「主イエスの弟子、ペテロやヨハネたちは、婦人やイエスの母マリヤ、およぎイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」と書かれています。ですから、ヨハネは、主の願いを受け入れて、主イエスの母マリヤの世話をしていたことと思います。

主は、

このように、人類の罪を全部背負って十字架の苦しみを受けておられました。主イエスにとってもっとも大切な働きをしておられた間にも、主は自分の家族としての責任、マリヤの子供としての責任を果たされました。私たちは、主イエス・キリストを信じる時、主イエスの家族になります。私たちは教会では、兄弟、姉妹と呼び合います。主にある家族だからです。そして主イエスは、十字架の上から、ご自分の家族である私たちにも同じ配慮を与えてくださいます。主は息子を失う悲しみに沈むマリヤにヨハネを指して「ここにあなたの息子がいる」と言われました。この言葉はマリヤに大きな慰めとなったと思います。主は私たちにも悲しみの時、孤独な時、必要な助け手を供えてくださいます。またヨハネには使命を与えました。彼は激しい性格の持ち主でした。主イエスは、年老いたマリヤの世話をすることを通して、ヨハネが愛の人に変えられることを願っておられたのでしょう。私たちは、主にあって家族です。主が模範として行われたように、私たちも、お互いに愛を表し、配慮をし、互いに助け合うことが、神の願っておられることです。また、私たちには肉の家族がいます。その家族にも愛を表すことが大切です。私たちが自分の家族にできるもっとも大きな働きは家族を救いに導くことです。地上の生活の小さな出来事の中に愛を表していくことも、もちろん、大切です。しかし、どんなに地上でよいことをしても、その家族が、罪の赦しを救いを得なければ、永遠のいのちをともに受けることができないからです。どうぞ、家族の救いのために、真剣に祈りましょう。そして、ともに永遠のいのちの希望をもって地上生活を歩む家族を目指しましょう。

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