2002礼拝めっせーじ
礼拝説教02/10|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-02-10『キリストの苦しみの言葉』(2コリント5章17-21節)
 

今日の聖書
の箇所はコリント人への第二の手紙ですが、イエス様が語られた4番目の言葉そのものが記録されているのはマタイの福音書です。ギリシャ語で福音とは、「喜びをもたらす知らせ」という意味を持っていましたが、最初のクリスチャンたちは、主イエスの生涯を書いた書物を「福音書」と呼びました。それは主イエスの生涯の記録であり、主イエスの教えが含まれていますが、福音書は単なる歴史の記録ではありません。福音書は人々を主イエスによる罪の赦しと、救いに導くというはっきりした目的を持った書物なのです。そのため、4つの福音書のすべてがその3分の1ぐらいを主イエスの生涯の最後の一週間のことを書いています。主イエスの十字架と復活が福音の中心だということを示しています。4つの福音書の中でも、マタイによる福音書は「ユダヤ人のために書かれた福音書」です。それで、最初に主イエス・キリストの系図が書かれているのです。ユダヤ人は系図を非常に大切に考えていたからです。そして、マタイが自分の福音書で特に強調したかったことは、ナザレのイエスこそが旧約聖書が予言していた救い主、メシヤであるということでした。主イエスは十字架で7つの言葉を言われましたが、その中にひとつだけ、旧約聖書の言葉を引用した言葉があります。マタイは、7つの言葉のうち他の言葉は記録せずに、その言葉だけを取り上げました。イエス・キリストの十字架は旧約聖書の預言の成就であることをマタイは伝えたかったのです。

さて、

主イエスが十字架につけられたのは金曜日の朝9時でした。そして主は十字架の上で午後3時まで6時間の間激しい苦しみを経験されました。朝の9時から3時間、主イエスの苦しい体は燃えるような太陽にさらされていました。そのため肉体的にも、主イエスは限界に来ていました。ところが12時になったとき、突然、太陽の光が消えました。あたりに暗闇が広がりました。十字架の回りに集まっていた人はびっくりし、恐ろしくなったに違いありません。私も、小学校一年生の時に、真昼なのに夜のように空が暗くなったことがありました。とても怖い思いをしたことを今でもはっきりと覚えています。それは竜巻か何かだったと思いますが、この時は違いました。自然界も御子イエスが苦しんでいることを人々に表していたのかもしれません。大勢の人はエルサレムの街中へ走って戻ったでしょう。イエスを十字架につけた人々の多くは、主にたいして激しい憎しみを感じて、そしてまったく不正な裁判を行っていました。中には、この出来事こそ神からの裁きに違いないと思った人もいたはずです。誰もが恐ろしくてパニックになっていました。この暗闇が3時間続いて3時になって、ようやくまた明るさが少しずつ戻り始めた時、主イエスの口から叫び声が聞こえてきました。「エリ、エリ、ラマサバクタニ!」マタイは、主の口からでた言葉をそのまま書き記しました。これはヘブル語で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味の言葉でした。神の御子イエス・キリストの口から出たこの叫び声にはどんな意味があるのでしょうか。

(1) 見捨てられた神の御子
主イエス・
キリストは、

地上の生涯で見捨てられ続けてきました。まず、主イエスはご自分の国の人々から見捨てられました。ヨハネの福音書1章には「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と書かれています。ご自分の国とはイスラエルのことです。神が選ばれた国民イスラエルです。神の民のところに主イエスは来られました。ですから、本当なら、自分の国に帰ってくる王様のように主イエスは大歓迎されるはずでしたが、実際には、主はご自分の民から拒否されました。主イエスを迎えたのは人々の嫉妬と憎しみでした。また、主はご自分の家族からも見捨てられました。主イエスの兄弟たちは信じていませんでした。彼らは主が復活された時に初めて、主イエスを信じました。また、主イエスは、ご自分が3年半生活を共にし、いろいろと教育や訓練を与えた弟子たちからさえ見捨てられました。主が十字架にかかる直前に、ペテロや弟子たちは皆、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言っていましたが、いざ、主イエスが弟子の一人ユダの裏切りによってローマの兵隊たちが主イエスを逮捕したとき、弟子たちは皆、主を見捨てて、逃げて行きました。弟子たちは嘘をついた訳ではありません。彼らは真剣に主イエスとともに死んでもいいと思っていたのですが、人間の勇気には限界があるのです。いざ主が逮捕されて裁判所に連れて行かれた時、彼らは主とともに死ぬことよりも自分のいのちを守ることを選んだのでした。このように、主イエスは、絶えず人々から見捨てられて来ましたが、そのことは主も理解しておられたし、その事実を受け入れておられました。しかし、神の御子イエス・キリストにとって、父なる神から見捨てられることは本当に耐え難い苦しみであったに違いありません。その苦しみの深さは到底私たち人間には理解できないものです。

(2)なぜ御子イエスは父なる神から見捨てられたのか
考えてみると、

それは一言で言うと私たちの罪のためです。第二コリント5章21節の言葉を読みましょう。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」と書かれています。これは詩篇22篇1節の言葉なのですが、3節には「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」と書かれています。御子イエスは聖なる方です。神の聖さは人間の聖さとはレベルがまったく違います。完全に聖なる方が、私たちの代わりに罪となられました。罪とは醜いものです。恐ろしいものです。その罪の醜い現実をすべて御子イエス・キリストは身代わりになって背負ってくださいました。また、人類すべての罪を御子お一人で背負われました。イザヤ書53章6節に「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」という言葉があります。わたしたちは皆、自分の好き勝手な生き方をして、人生の中で迷ってしまっています。しかし、そのような私たちの罪をすべて、全部、父なる神は御子キリストに負わせたのです。ちょうど、虫眼鏡で太陽の光を集めるといろいろなものを燃やすことができるように、すべての人間の罪、悪意、偽り、腐敗すべてがイエスキリストという一人のお方に集中してその苦しみを負わせたのです。わたしたちの想像を超えた苦しみのはずです。

しかも、

御子イエス・キリストが繰り返して言われたことは「父なる神とわたしはひとつである」ということでした。主イエスは父なる神と一つという深い関係を持っていました。人間関係においても、長い間親しい交わりを持っていた人と別れることは辛いことです。交わりが長ければ長いほど別れることは辛いです。父なる神と御子イエス・キリストは永遠の昔から一つであったのですが、この十字架の苦しみの中で、イエス・キリストは人類の罪を背負ったために神との分離を味わわなければなりませんでした。父なる神は御子イエスから離れなければなりませんでした。この耐え難い苦しみの間、太陽も光りを失い、全地は暗闇で覆われました。その間、主イエスの口からは一言も言葉は出ませんでした。そして、3時ごろになって、ようやく太陽が再び姿を見せはじめた時です。主イエスはご自分が経験した苦しみを振り返って、「なぜ、あなたはわたしを見捨てたのですか。」と過去のこととして言われたのです。そして、主イエスの言葉はこれで終わった訳ではありません。この後続いて、短い間に主は三つの言葉を言われました。その一つが「全てが終わった」という言葉です。これは主が自分に与えられた使命をすべてやり終えたという勝利の叫び声です。わたしたちすべての人間に対する神様の愛と恵みと憐れみが、この時完成しました。

(3)主イエスの十字架の苦しみの意味
第二コリント

の5章18節には、キリストの働きは何かというと、「和解」の働きであると書かれています。「神は、キリストのよって私たちをご自分と和解させた。」「和解」という言葉の本来の意味は「すっかり変える」という意味でした。それは、神様と私たちとの間の関係がすっかり変わるということを表わしています。人間は自分の努力で神と和解することはできません。罪を持っている者が和解をすることはできないのです。罪のない者がしなければなりません。この真理を理解するためには、パウロが書いた短い手紙「ピレモンへの手紙」が助けになります。このパウロの手紙を受け取ったピレモンという人には、オネシモという名前の奴隷がいました。この奴隷は主人の持ち物を盗んでローマへ逃げました。このような犯罪を犯した奴隷は十字架にかけられることも多かったのですが、神様の不思議な導きで彼は、獄中でパウロと出会い、パウロの導きを受けてクリスチャンになりました。パウロは友人のピレモンに対してオネシモを赦してやってほしいと二人の間の和解の働きをしています。そしてパウロはピレモンに言いました。「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」彼はオネシモが犯した犯罪の後始末をすることを申し出ています。パウロが犠牲を払って、二人を和解させようとしています。

主イエスは、

お金で解決のできない全人類の罪を自分のいのちを犠牲にして十字架の上で完了してくださいました。私たちが神様とまったく新しい関係が持てるように、主イエスにとって一番恐ろしい苦しみ、父なる神から見捨てられるという苦しみを体験してくださったのです。主イエス・キリストは十字架の上で罪人になったのではありません。罪人ではないのですが、父なる神が、イエスを罪人として扱われました。19節にあるように、本当は違反行為の責任は私たち人間が負わなければならないのに、それを主イエスに負わせられたのです。この「負わせる」という言葉はもともと銀行で使う言葉でした。これは「貯金の口座に入れる」という意味でした。お金を銀行で預けるとコンピューターはそのお金をその人の口座にいれます。そしてそのことが通帳に記録されます。主イエスが十字架で死なれた時、私たちのすべての罪が主イエスの口座に入れられました。ですから、実際にはまったく罪を犯していないのに、神は主イエスを罪人として扱われたのです。そして主イエスを信じる者には、神様は主イエスの正しさを私たちの口座に入れてくださるので、本当は、私たちは罪人なのですが、神様は正しい者のように扱ってくださるのです。このことが実現するために、神の御子キリストは、永遠にひとつの関係であった父なる神との関係を十字架の上で引き離されたのでした。それは、すべて、私たちが神様と新しい関係を持って生きていくためです。あの絶望的な主イエスの叫びは、私たちのための叫びだったのです。あなたは、私たちのためにこの苦しみを味わってくださった主イエスにどのように応答するでしょうか。

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