2002礼拝めっせーじ
礼拝説教02/17|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-02-17『キリストの苦悩の言葉』(ヨハネ19章28-30)
 (イントロ)

イエス
は十字架につけられて6時間経過しました。手と足に釘を打たれて十字架にかけられた主イエスの体は重く下がってきます。釘を打たれた主イエスの手と足の傷が裂けて激しい痛みを与えていました。また傷口からたくさんの血が流れました。そして傷のために激しい熱が出て、主の口はからからになっていました。唇は膨れています。主は特に、12時から3時まで、父なる神から見捨てられた状態で、私たち人間のすべての罪を背負って、罰の苦しみを経験していました。その間主の口からは一言も言葉は出てきません。私たち人間が罪を赦されて自由に生きることができるようにと、主は最後の最後まで苦しみを受けてくださったのです。罪を犯さなかったという点を除いて、完全に私たちと同じ姿になられた神の御子イエス・キリストは肉体的にもう限界に達していました。

あるお医者さん

が、この時の主イエスの体の状態について次のように説明しています。両腕は6時間も体を支えて疲れきっており、筋肉が痙攣を起こし、ずきんずきんと痛みが走ります。痙攣のために体を持ち上げることができず呼吸が十分にできません。何とか空気を吸うことができても吐き出すことができないのです。この結果、肺と血管の中に二酸化炭素がたまります。そしてけいれんは部分的に収まります。それで、時折、主イエスは体を持ち上げることができ、息を吐き出し、新しい酸素を吸い込みます。体を持ち上げるたびに荒削りの十字架の木に背中がこすれて、すでに鞭打たれて傷だらけの背中の肉が裂けます。心臓の中に血清がたまり心臓は圧迫されて、濃いどろどろになった重い血液を体に送るために、心臓はどきんどきんと激しく鼓動します。そして肺は何とか酸素を取り入れようと必死に働いています。ユダヤの強烈な太陽の光にさらされた主イエスの体は脱水状態になり、体が脳に信号を送ります。そのときに主イエスの口から「わたしは渇く」という言葉が出てきたのです。

(1) 主イエスは真の人であった
私たちの
主は、

神であり同時に人間であられました。罪は犯されませんでしたが、肉体的には私たちとまったく同じ姿になられました。ヘブル書2章には次のように書かれています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(2章14-15節)そのため、神の子としての働きをされた時、私たちと同じように疲れを感じましたし、喉が渇くこともありました。主イエスがサマリヤへ行かれた時、旅に疲れて主は井戸の近くに座りました。そして水を汲みに来た女性に話し掛けて「わたしに水をください。」と言われました。主イエスは、神の力と栄光を捨てて、低い姿をとって私たちと同じようになり、弱さを体験してくださいました。だからこそ、主イエスは私たちの弱さも十分に理解してくださり、わたしたちに同情してくださると書かれているのです。」へブル人への手紙2章14節から読んでみましょう。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」主は私たちと同じ肉体を持って十字架の苦しみを受けられたのは、私たちを死の恐怖から解放するためであると書かれています。主の十字架の上で私たちの罪の罰を身代わりとなって受けてくださったことで、私たちが罪の裁きから解放されました。しかし、それだけではありません。主イエスは私たちを死の恐怖から解放してくださるのです。誰にとっても死はもっとも恐ろしいことです。しかし、主イエスは十字架で死も滅ぼしてくださいました。主イエスを信じる者には永遠のいのちが約束されています。その約束を保証するために、主は十字架にかかってから三日目に死から復活されました。復活とは、主イエスが死を滅ぼした勝利の宣言なのです。聖書の約束は、神を信じる者は神の子供となって、永遠に神とともに生きるということです。その復活を行うためには、まず死を経験しなければなりません。ですから、神にとって大きな苦しみは、私たちにとっては永遠の希望を保証するものなのです。

ですから

28節には「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って」と書かれています。12時から3時まで、太陽が光りを失って全地が暗くなっていた時に、主イエスにとって一番恐ろしい苦しみ、すなわち、永遠に一つであった父なる神から見捨てられるという苦しみを経験されました。そして旧約聖書の預言の成就として主は「わたしは渇く」と言われました。この時、主の唇はかわききり、主の舌は、上あごにくっついていました。それほどの苦しみだったのです。主イエスはルカの福音書16章で神を信じないで死んだ人の死んだ後のことについて話されたことがありました。ある金持ちの男は神を信じない冷酷な人間でした。家の前に生活に困った乞食ラザロがいたのですが、決して助けようとしませんでした。その彼が死んで、彼のたましいはハデスと呼ばれる場所に移されました。ラザロが苦しんでいると、パラダイスにアブラハムがいるのが見えたので彼は叫びました。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」聖書は、神を信じないで死ぬ者はハデスに移されるとはっきり語っています。そこは本当に苦しい所であり、神様の愛も慰めも受けることのできない場所です。主イエスはハデスの苦しみを実際に経験されたのでした。

29節

を見ると次のように書かれています。「そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。」そしてイエスは酸いぶどう酒を受けられたと書かれています。このぶどう酒は、十字架の処刑の見張りをしていたローマの兵士たちが時折飲むためにそこにおかれていたものだと思われます。このぶどう酒は、ローマの兵士が犯罪人の苦しみを和らげるために飲ませようとしたぶどう酒とは別のものです。そのぶどう酒についてはマルコの福音書には「没薬をまぜたぶどう酒」と書かれています。そのぶどう酒は主イエスは飲みませんでした。それは、まだ十字架の苦しみが完了していなかったからです。主はすべての苦しみをはっきりした意識の中で受けることを決心しておられたからです。しかし、主はすべてのことが完了したことを知って「わたしは渇く」と言われました。そして主の口はもう完全に渇き切っていました。

ローマの兵士

はこのぶどう酒をスポンジに含ませて「ヒソプ」という植物の枝につけて主の口に近づけました。スポンジをヒソプの枝につけたということには意味があります。旧約聖書の出来事で私たちにとって一番大切なものは「出エジプト」です。今から3000年以上前、神の民であるイスラエルの人々はエジプトに住んでいましたが、エジプト人の奴隷になって自由がなく激しい労働をさせられて本当に苦しい毎日を過ごしていました。余りの苦しさに彼らは神に助けを求めました。すると神様はモーセという指導者を選びイスラエルの民がエジプトから出て行けるようにしてくださいました。もちろんエジプトの支配者パロは、ピラミッドを建てるなど、激しい労働にユダヤ人を使っていましたから、出て行くことを許可しません。それで、モーセは神様の力を受けてさまざまな災いを引き起こしてパロが許可するように働きかけます。出エジプト記には10の災いが書かれていますが、その最後が過ぎ越しという出来事でした。神の霊がエジプトの家庭で最初に生まれたもの、人間も動物もすべて殺すという災いでした。ただ同じエジプトに住んでいたユダヤ人は全員いのちが守られました。パロの子供も死にました。この時にユダヤ人の家には、神の裁きから守られるしるしとして、家の入り口に羊の血が塗られていました。その血を入り口に塗るときに、彼らはヒソプの枝を使って塗ったのです。この過ぎ越しという出来事は、十字架をあらわすものでした。過ぎ越しの時に人々を神の裁きから守ったのが戸口にヒソプの枝で塗られた子羊の血であったのと同じように、私たちを神の裁きから守るのは十字架で流された主イエスの血なのです。十字架のイエスにヒソプの枝で酸っぱいぶどう酒が渡されたことは、イエスこそ、私たちに永遠のいのちを約束する方であることを暗示しています。

もう一度

28節を読みましょう。「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って」と書かれています。主は、私たちの罪をゆるための働き、あがないの働きを完了されたことを知りました。主は6時間の間苦しみを受け続けてくださいました。その間は、のどの渇きを訴えることをなさいませんでした。しかし、あがないの働きは完了したのです。この後すぐに、主は叫びます。「すべては完了した。」主の宣教の働きは、サタンの誘惑を受けることから始まりました。40日間何も食べずに主イエスは空腹を体験されました。そして、その働きの終わりは、恐ろしいほどの渇きを味わってくださいました。これは、すべて私たちが、永遠のいのちの希望を持って生きることができるためでした。十字架は神様の偉大な愛が実践された場所でした。最後にローマ人への手紙5章8節の言葉を読みましょう。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」罪びとを最後まで赦そうとされた主イエスの愛が実践されたのが十字架でした。神様は人間の罪深い考えや行いを嫌います。しかし、そのような神様が嫌う罪を考え行う私たち一人一人を愛しておられます。私たちが絶望的なほどに罪の中に生きているとしても、それでも主イエスの愛は変わりません。私たちがどんなに反抗しても主の愛は変わりません。私たちが地上で生きている限り、主イエスは私たちを愛しておられます。キリストの愛が終わるのは、私たちが地上の死を迎える時です。死んだ後には主イエスの愛は届かないのです。神を信じなかった者は永遠に神の愛から引き離されてしまいます。ですから、神の愛は、今、この地上で生きる時に受け取らなければなりません。数年前にローマ法王がローマにある監獄を訪問しました。ローマ法王が行くのは90年ぶりのことだったそうです。そのとき、法王は囚人たちに言ったそうです。「あなたたちがわたしの所に来ることができないので私があなたがたのところに来ました。主イエス・キリストも同じように私たちを救い出すためにこの世に来てくださいました。イエスの愛が途絶えることは決してありません。」主イエスは、あなたを救い出すためにこの世に来られ、そしてあの激しい苦しみを渇きを私たちの身代わりに味わわれたのです。

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