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2002礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2002-03-03『キリストの勝利の言葉』(ヨハネ19章28-30節)
(イントロ) 先週の火曜日に福田健次兄の葬儀をこの教会で行いました。福田兄は北本団地に住んでおられましたが、今年の1月に肝臓ガンの末期であると医者から宣告され、そして2月23日の朝、天に召されました。私たちの教会員ではありませんが、今回、この教会で葬儀を行った経緯を少しお話ししたいと思います。
2日は体調が良かったそうですが、急に悪化し、2月21には意識不明に陥りました。そして22日の金曜日に福田さん親子が教会を尋ねて来られました。わたしは、ちょうどケズイックから戻った所でした。すぐに病院に行ってお祷りをしましたが、すでに意識はありませんでした。葬儀をこの教会でしてほしいとのご家族の願いでしたので、わたしはできるだけのことをしようと思いました。23,24日と東京のケズイックの奉仕があったのですが、主が最善をなしてくださると信じました。福田さんは23日の午前7時前に召天しました。67年の生涯でした。葬儀は26日に決まりましたので、わたしは、安心して東京で奉仕をすることができました。
お会いしたお兄さん夫婦も、これは本当に主の御業だと驚いておられました。留守のはずの土肥牧師がおられたことも、福田さんの家の近くにこの教会があったことも、すべてのことが神様の導きでした。お兄さんはイエス様が話されたぶどう園の例え話を思い出したと言われました。マタイの福音書20章の1節から16節に語られている例え話です。イスラエルではぶどうを収穫するのは9月で、そのすぐ後に雨期がやってきます。雨が降る前にぶどうを取り入れないと腐ってしまうので、収穫の時は人手が必要で、1日に1時間しか働けない人でも歓迎されたのです。この例え話では、ぶどう園の主人が人を雇ってぶどうの刈り入れをしました。働いた人の中には朝6時から働いた人もいましたし、お昼から働いた人もいました。また、最後の1時間だけ働いた人もいました。ところが仕事が終わった時に、すべての雇い人は同じ金額を受け取ったのです。それは1日の賃金としてふさわしい金額でした。それで朝の6時から働いた人はぶどう園の主人に文句を言ったのですが、主人は次のように答えました。「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」ここでぶどう園の主人は神様を表わしています。そして雇い人は私たちのことです。神様は、すべての人に同じ恵みを与えたいと願っておられるのです。神の救いに早く入る人もいれば、遅く入る人もいます。しかし、すべての人は神様の前に同じように尊いのです。実は、信仰によって受ける罪の赦しと永遠のいのちは、私たちの働きによって手に入れることのできるものではありません。すべて神様が一方的に与えてくださるものです。それが神の恵みです。そして、神様は、ぶどう園の主人と同じように、最後に救いに入る人にも同じ恵みを与えたいと思われるのです。福田さんは、その恵みを受けて、人生の最後に神を信じましたが、今は、神様の約束のとおり、パラダイスにおいて神と共に安らかに、いっさいの痛みや苦しみから解放されて永遠の休息を味わっておられるのです。これこそ神様の御業です。
のように、私たちが肉体の死を迎えた後も永遠の希望を持つことができるのは、私たちがどのような行いをしかたによって決まるのではなく、人となられた神、主イエス・キリストが十字架の上でなしとげて下さった働きがあったからなのです。1月から主イエス・キリストが十字架の上で語られた7つの言葉を一つ一つ見てきましたが、今日の言葉はそのクライマックスになる言葉です。ヨハネの福音書の19章28節から30節まで、もう一度読みましょう。前にも言いましたように、主イエスは金曜日の朝9時に十字架につけられました。そして正午から午後3時まで太陽が光を失い、全地は暗闇に包まれました。そして午後3時ごろになって再び太陽が光を放ち始めました。それは、ちょうど新しい一日、新しい時代の始まりを告げるような感じでした。その時、酸いぶどう酒を受けたイエスの口から素晴らしい言葉が語られたのです。「完了した」という言葉でした。これはギリシャ語で一つの言葉で「テテレスタイ」という言葉でした。テテレスタイというのは「完了した」、「成就した」という意味を持つ言葉です。このマタイの福音書では大きな声を叫んだと書かれているだけですが、十字架の近くに立っていたヨハネは主イエスの言葉をはっきりと聞いていました。死を迎える時、私たちの多くは、自分の人生を振り返って、やろうと思っていたのにやり残したことが多いことに気がつくのではないでしょうか。しかし、主イエスは違っていました。「やるべきことをすべてやった」と宣言されたのです。これは勝利の言葉です。オリンピックの競技で選手が一位でゴールするとガッツポーズをして「やったー」と叫ぶでしょう。あの叫びと同じ言葉なのです。 (1) 完成の言葉「完了した」
は、肉体的には苦しみの極限にいましたが、心は解放されていたと思います。主イエスにとっては、この言葉は完成を意味する言葉だからです。28節を見ると、主イエスは「すべてのことが完了したのを知った」と書かれています。旧約聖書には主イエスに関する言葉がたくさん書かれています。主イエスの誕生、その生涯、そして十字架の死についても、約束の言葉や預言の言葉がたくさん書かれています。旧約聖書に記されたイエスに関係するすべての言葉が、この時に実現し、完成に至ったのです。しかし、イエスの弟子たちには十字架の意味が分からず、主イエスが繰り返し十字架と復活のことを話されたにもかかわらず、彼らは悟ることができませんでした。主イエスは、復活された後弟子たちに次のように言われました。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」(ルカ24章44節)主の叫びは聖書の言葉が成就したことを表わしています。主イエスは、十字架にかかるために自分が人となってこの世に生れたことを知っておられました。そしてついにその働きを完成されたのです。主が、十字架の苦しみを全部味わってくださったことによって、私たちは神の前に、裁きを受ける必要がなくなりました。神と人間の間にあった隔ての壁がすべて消え去ったのです。私たちの心の中の罪の問題が完全に解決されました。完了したという言葉、ギリシャ語の「テテレスタイ」は、昔、ローマ帝国では税金を支払ったときに受け取る領収書に書かれた言葉だったそうです。本当は、私たちが受けなければならない苦しみを主イエスキリストが身代わりとなって支払ってくださいました。この支払いが完全に終わったので、私たちは、いわば、借金を全部ただにしてもらったように、罪のさばきを受けなくてすむようになったのです。
「完了した」はまた勝利の言葉でもあります。十字架にかかる直前に、主イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」この世は、神を信じない世界です。人は皆自分のことだけを考えて生きています。自分が神によって創られた者であり、神によっていのちが与えられたことも知らずに、すべて自分の感情を満たすことが第一という世界です。この福音書を書いたヨハネは、この世とは「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢である」と、彼が書いた手紙の中で定義しています。これは神への信仰とは逆向きの生き方を表わしています。しかし、そのような世に対して主イエスは「わたしはすでに世に勝った」と言われました。主イエスが「世に勝った」と言われたのはどういう意味なのでしょうか。この世は自己中心の心である罪が支配する世界です。すべての人が自分のことを第一に考えているために、この世では様々なトラブルがあり衝突があります。そして聖書は、罪を持った人間は神の裁きを受けなければならないと教えています。しかし、主イエス・キリストが十字架で受けた苦しみは私たちの身代わりとなって神の裁きを受けることでした。主イエスは、十字架の苦しみを受けた後、罪と死の力に勝利したことを示すために復活されました。主イエスの十字架の死と復活は、人間の罪が支配するこの世に対する勝利を宣言するものです。そのことを主イエスは十字架にかかる前にすでに預言しておられるのです。イエスの弟子たちは、キリストが復活して天に帰られた後大きな迫害を受けます。しかし、彼らは、このイエスの言葉を信じました。この世の中でどんな困難があっても復活された主イエスがいつも自分たちを守ってくれることと、たとえ肉体のいのちを失っても、天において永遠に神と共に生きる約束がはることを知っていたので、彼らは恐れることがありませんでした。そして、彼らの働きによってキリスト教は、ものすごい勢いでローマ帝国の隅々にまで広がって行きました。主イエスが十字架で働きを完了してくださったことが弟子たちに勇気を与えたのです。わたしたちも、自分がどんなに弱くても、わたしたちは一人で生きているのではなく、この世に勝利されたイエスが私たちの味方になってくださることを忘れてはなりません。十字架で死んだ主イエスは、敵にいのちを奪われた殉教者ではありません。自分からいのちを捨てて身代わりの死を遂げられた勝利者でした。 (3) チャレンジの言葉「完了した」
という言葉は私たちに人間に向って語られたチャレンジの言葉でもあります。主イエスは、十字架の死によって私たちの罪を赦し、神の裁きから解放されるとともに、わたしたちに栄光を与えてくださいました。この世界で罪を赦された者として生きるだけではなく、栄光、すなわち永遠のいのちをも保証されたのです。これは神御自身が保証しておられることですから、確信を持つことができます。私たちは、そのような特権を与えられた者として、神からこのような素晴らしい恵みを受けたのですから、これからの人生は自分のため、自分の利益のために生きるのではなく、キリストのために生きることが神の喜ばれる生き方です。わたしたちは、今もなお、この世に生きています。しかし、この世の流れに流されて生きるのではなく、私を愛し、私のためにご自分のいのちをも捨ててくださった方のために生き、この方のことを人々に知らせて生きる者でありたいと思います。
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