2002礼拝めっせーじ
礼拝説教03/24|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-03-24『キリストの確信の言葉』(ルカ23章46節-49節)
 

1月から
学んできました主イエスが十字架の上で語られた7つの言葉も、今日の箇所が最後の言葉となりました。それは「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」という言葉です。ルカの福音書は主イエスが最後の言葉を語る時の状況を次のように書いています。「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。」主イエスが十字架で激しい苦しみを味わっていた時、全地を暗闇が覆っていました。そして非常に不思議なことが起こりました。エルサレムの街にあった神殿の中にかかっていたカーテンが真っ二つに裂けたのです。エルサレムにある神殿の中はそのカーテンによって二つの部屋に分けられていました。入り口に近い部屋は聖所と呼ばれ祭司だけが入ることを許されました。そしてその奥は至聖所と呼ばれ、祭司のトップ、大祭司が一年に一度だけ入ることが許された部屋でした。そこは神様がおられる場所だと考えられていました。ですから、このカーテンは聖なる神様と罪を持つ人間とを引き離すものでした。そのカーテンが裂けたことは、主イエスの十字架の苦しみのおかげで、人間のすべての罪が赦されだれもが大胆に神に近づくことができるようになったことを意味していると思われます。このときから、神様はカーテンの陰、人が近づけない場所におられるのではなく、私たち一人一人の中に住んでくださるようになったのです。

さて、
「父よ」という呼びかけで始まっている主イエスの言葉は、神のひとり子として父なる神に向かって語られた言葉です。イエス・キリストがもしも神のひとり子として私たちの所に来られなかったら、私たちには神様の愛がどのように深いものか分かりませんでした。聖書の中でもっとも有名なみ言葉はヨハネの3章16節だと思いますが、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世の人々を愛された。」という言葉で始まります。神様は、ひとり子を犠牲にするほどに私たちを愛してくださったというのです。もし、この言葉が、「神は実に、ひとりの天使をお与えになったほどに、世の人々を愛された。」というものだったらどうでしょうか。それはちょうど、大金持ちが1枚のコインを貧しい乞食に投げてやるようなものです。その金持ちにとって1枚のコインは何でもないことです。犠牲を払うという感じは全然ありません。しかし、聖書ははっきりと語ります。「父親が自分の大切な、大切なひとり息子を犠牲にするほどまでに、私たちを愛してくださった」のだと語っています。一方では主イエスの十字架の言葉は自分を十字架につけた人々のために祈る祈りの言葉で始まりました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないでいるのです。」主イエスは罪人を救うために自分から命を捨てられました。自分からいのちを捨てることで、主イエスは私たちに対する愛を明らかに示されました。神が父なる神と御子という関係を表してくださったことによって私たちは神様の無限の愛を知ることができたのです。
 ところで「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」という主イエスの言葉は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。

(1) 父なる神への絶対的な信頼
主イエスは、

最後の言葉を言う少し前に「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」苦しみに満ちた言葉を言われました。主イエスは、いつも、父なる神と一つであると言われました。幼い子どもにとって親のそばにいることほど安心なことはありませんが、御子イエス・キリストは父なる神と一つであることを最も大切なことと考えていました。しかし、主イエスは、私たちの罪を身代わりに背負って罪の罰として十字架にかかりましたから、神の裁きを受けなければなりませんでした。父なる神と御子イエス・キリストの関係は変わることがないのですが、父と子の間の親しい交わりが切れてしまったのです。聖書を見ると、お昼の12時から3時まで太陽は光を失い、全地が真っ暗になりました。その時、主イエス・キリストは最も大切な父なる神との交わりから引き離されてしまったのです。父なる神から離れるという苦しみは、御子イエス・キリストにとっては私たちには想像できないほどの苦しみであったはずです。しかし、その苦しみを主はすべて味わって、太陽も光を少しずつ取り戻しました。その時、主イエスの祈りの言葉が響いたのです。「父よ。」それは一時的に切れていた父と御子との交わりが復活したことを表しています。御子イエス・キリストは十字架の苦しみを味わいましたが、父と子の関係は変わらないことを確信しておられました。


主イエス
・キリスト

を信じたクリスチャンも、御子キリストと同じように、神の子どもとなる特権を与えられました。私たちは神の家族の一員になったのです。この状態は永遠に変わることがありません。いったん、神を信じた人は、永遠に絶対的な力を持つ神様と親子の関係を結んだのです。パウロはローマ人への手紙の中で自分の確信について語っています。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」私たちを神の愛から、神様との愛の関係から引き離すことのできるものは何一つありません。しかし、私たちの生活、行いの中に罪が入り込むと、父なる神との交わりが壊れてしまいます。神様は罪を嫌う方ですから、罪のあるところにはおられないのです。私たちがイエス様が十字架で受けてくださった苦しみに感謝して、罪を悔い改めて祈る時、その罪は赦され、私たちは再び神様を見上げて、「アバ父よ。」と神様に向かって呼びかけることができるのです。

(2)父なる神に従う御子イエス
主イエス
・キリスト

は「父よ。我が霊を御手にゆだねます。」と言われましたが、詩篇31篇5節に書かれている言葉です。「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。」この御言葉はユダヤ人の母親が子どもによく教えた言葉だそうです。毎日この言葉を祈りにしなさいと教えたそうです。主イエスは、この十字架で死ぬ時だけでなく、毎日、この言葉を父なる神に向かって言っていたのではないでしょうか。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」これは、生活のすべての面で父なる神に従いますという姿勢を表す言葉です。主イエスは人々を教える時にも、いつも父なる神の教えを教えました。ですからヨハネの福音書10章で、主イエスは「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」と言われたのです。福音書を見ると、主イエスは、教えるときも、奇跡を行う時も、人々をいやす時も、いつも父なる神に従っておられました。イエスは、ある時に友人のラザロが死んだことを聞きました。そしてラザロの墓の前に立って主イエスは父なる神に祈りました。「「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」これは主イエスの宣言です。奇跡を行う力は父なる神によって天から与えられるのだという宣言です。主イエスは、ご自分と父なる神が一つであることを知っておられて、その父なる神の御心に従って生活されました。自分の中に父なる神の力が注がれていることを知っておられたのです。ですから、十字架で死を迎えたときも、主イエスは大きな声で叫んで言われました。「今日も、私は自分の魂を、父なる神よ、あなたにゆだねます。」これは決して、あきらめの言葉ではありません。確信と平安に満ちた言葉です。主イエスが言われたことは、「父なる神様、私の魂は決して地獄に捨てられるのではないことを知っています。あなたが私の霊を受け取り、あなたのそばに導かれることを知っています。」という宣言なのです。詩篇の16篇に次のような言葉があります。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」この詩篇を書いた人はいつも生活の中で主を自分の前に置きました。だからこそ、いつも彼の心は喜び平安に満ちていたのです。私たちは、生活の中で、どこに主を置いているでしょうか。自分の前でしょうか。自分の後ろでしょうか、自分の上でしょうか、下でしょうか。後ろに神を置く人は、いつも自分が先頭に立って生活しています。上においても下においても神様は私たちの目に見えない所に置かれています。神様を前に置く人生とは何でしょうか。それは主の導きに従って生きる人生です。神様を前に置くときに、神様は私たちに進むべき道を示してくださいます。それは決して無意味な道ではなく、神様が確かな場所に向かって私たちを導いておられるのです。それが困難な道であるか、簡単な道であるかは大事なことではありません。道に関して大事なことは、その道がどこに通じているかということです。神様を前に置く人生は、確かな道を進む人生です。あなたは身分がどこに向かって進んでいるのか分かっていますか。行き先を知らずに歩き続けることほど危険なことはありません。

(3)御子の権威を表す言葉
第三に

「父よ。我が霊を御手にゆだねます」という言葉は主イエスの権威を表す言葉です。主イエスは、神の子としての働きを始めると、ユダヤ教の指導者たちが怒ってイエスを殺そうとすることが何度もありました。ある時は群衆が主イエスを丘の崖っぷちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとすることもありましたが、主イエスは彼らの真ん中を通り抜けて行きました。主イエスは、人の姿をとって私たちの間に住んでくださいましたが、全能の神です。人は決して主イエスのいのちを奪うことはできません。主の十字架の時が来るまでは、誰もイエスをとらえることができませんでした。しかし、主イエスは自分がいのちを捨てる時が来たことを知って、弟子たちに言われたのです。「人の子が栄光を受ける時が来ました。」種イエス・キリストは弟子のひとりユダの裏切りによって捕らえられ、そして殺されたお方ではありません。私たちが死を迎える時は、体が弱り、最後の息をはいて死にます。そのとき、人は死を止めることはできません。人間は死に支配されているからです。しかし、主イエスはちがいます。自分の死ぬときが来たので、その瞬間に自分からご自分の霊を父なる神にお渡しになったのです。主イエスは言われました。「だれも私からいのちを取った者はいません。わたしが自分から捨てるのです。」主イエスは自分の死を受け入れたのではなく、自分から進んでいのちを犠牲にしてくださったのです。それは私たちが新しく生きる者となるためでした。

この イエスの

死に似た死に方をした人がいました。アウシュビッツの収容所でのできごとです。ひとりの囚人が脱走しました。それで罰として同じ建物にいた囚人が全員外に出されました。彼らの中の一人が選ばれて殺されるのです。一人のポーランド人が選ばれました。その男は叫びました。「私の妻よ。子どもたちよ。さようなら。」そのとき、別の囚人がナチスの将校に近づきました。「妻と子どもがいるこの人の代わりに私を殺してください。私はカトリックの神父なので家族はいません。」コルベ神父という人物でした。この人が代わりに殺されたので、選ばれたポーランド人は生きることができたのです。主イエスキリストは、私たちが罪を許されて、神の子どもとして新しく生きるようにと、ご自分が身代わりになっていのちを落とされたのです。それはあなたが神の子どもとして本当の平安と、希望を持って生きるためだったのです。



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