礼拝説教
2002-03-31『復活の喜び』(1コリント15章55-58)
(イントロ)
が世界で一番成功した弁護士としてイギリス人のラックホーという名前の弁護士を選んでいます。この人は245回殺人事件の裁判をして、245回全部、無罪判決に導いた人だそうです。彼には、誰もまねすることのできない能力を持っていたはずです。そしてたくさんの証拠を一つ一つ詳しく調べて、裁判で勝ち続けたのだと思います。そのラックホーという弁護士が、イエス・キリストの復活が事実かどうかを確かめるために、弁護士としての専門的な能力を使って詳しく調べました。そして、最後に、彼は次のような結論を下しました。「イエス・キリストの復活が事実であることを示す証拠が非常に多くて、もはや疑う余地は全くありません。」私たちのような一般人にとっては、主イエス・キリストの復活、つまり死んだ人がよみがえるというようなことは信じられません。それは2000年前の人にとっても同じです。ある時、パウロがアテネの街で多くの人に福音を語りました。最初は真剣に聞いていたアテネの人々も、パウロがキリストの復活の話を始めたとたんに、「そんな話は聞く価値がない」と言って、人々は家に帰ってしまいました。ところが、このラックホーさんは、イエス・キリストの復活について書いてあることを弁護士が事件を調べるように調べた結果、彼は主イエス・キリストの復活が確かな事実であることを確信しました。
読みました第1コリントの15章には、イエス・キリストの復活のことが詳しく書かれています。14節でパウロは次のように言いました。「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」主イエス・キリストの十字架の死と復活がなければ、クリスチャンの信仰は全く無意味です。罪が赦されたという確信も持てませんし、肉体が死んでも私のいのちは神と共に永遠に生きるという約束も持つことができないからです。そうなると、毎週みなさんに聖書からメッセージを語っている私は、みなさんを嘘の約束でだましていることになるのです。クリスチャンが世界で一番惨めな人間だということになります。ですから、私たちは、主イエスの復活の確信を持つことがどうしても必要なのです。あの世界一の弁護士は、自分の経験と能力を使って詳しく調べた結果、キリストの復活が事実だと確信し、そしてキリストを信じる人になりました。私たちも主の復活の事実を確かめたいと思います。
の復活は人類の歴史の中で最も大きな事件ですが、普通の考えでは簡単にその事実を信じることはできません。しかし、イエスというお方が存在したこと、そのイエスが十字架にかけられて死んだこと、アリマタヤのヨセフという人が持っていた墓に葬られたこと、そして三日目の朝、つまり日曜日の朝、その墓が空っぽだったということは、一般的に認められていることです。聖書にも、他の歴史書にも、イエス・キリストの死体が見つかったということを示す記述はありません。1世紀のクリスチャンは激しい迫害を受けました。人々から罵られたり、反対されたりしましたが、イエス・キリストの復活のことで迫害されたり反対されたことはありません。ユダヤ教の指導者たちはクリスチャンの信仰が広がらないように、様々な妨害をしましたが、不思議なように主イエスの復活については黙っています。
イエスの死体が見つからなかったことに関して三つの意見があります。一つは、主イエスが完全には死んでいなかったこと、もう一つは、弟子たちがイエスの死体を盗んだという考え、そして、人々が主イエスの復活を強く願っていたのでイエスの幻を見たのだという考えです。まず、主イエスが確かに死んだということについて考えましょう。ある人は、主イエスが十字架の上で気絶していたが、墓に入れられて、涼しい空気に触れて元気を取り戻したのではないかと言います。木曜日の夜から金曜日の朝にかけて一晩中、主イエスの裁判が続いていました。最後に総督のピラトが主イエスに十字架刑を宣告すると、主イエスは鞭を打たれました。少なくとも40回は鞭を打たれます。鞭の先にはとがった骨と金属の玉が縫いつけられていました。このむち打ちだけで死んだ人もたくさんいました。主イエスは鞭を打たれた時に非常な苦しみを経験しましたので、途中までは、自分で十字架を担いで歩くことができたのですが、道に倒れ込んでしまいます。むち打ちの刑はそれだけも本当に苦しいのです。主の体は10センチ以上の太い釘で十字架に打ち付けられました。そして十字架が起こされると、主の体が重くぶらさがりました。十字架にかけられた人は、最後まで苦しんで、最後は息ができなくなって死にます。ローマ政府は処刑の時間を早く終わらせるために、十字架につけられた人が体を上に上げさせることができないようにしました。そうすることで、十字架にかけられた人は息ができないため早く死にます。ローマの兵士はイエスの両側につけられていた二人の男のすねの骨を折りました。しかし、イエスの骨は折りませんでした。それはイエスがすでに死んでいたことが明らかだったからです。それで、兵士はイエスが死んでいるのを確かめるためにイエスの脇腹に槍を突き刺しました。
もし主イエスが十字架で死ななかったとしたらどうなるのでしょうか。墓の中で目を覚まして、自分を包んでいた布を脱ぎ捨てなければなりませんが、これはただの布ではありません。体が腐らないようにとたくさんの薬が塗られていました。それから、彼は起きあがって墓の入り口を塞いでいた重い岩を転がさなければなりません。そして外には見張りをしていたローマの兵士がいました。これらすべてをどうやって行うことできるでしょうか。しかも、それら全部成功したとしても、主イエスの状態は重いけがをした人と同じです。そんな姿の主イエスが弟子たちの前に現れた時、弟子たちはどう思ったでしょうか。主イエスが捕まった時に逃げていった弟子たち、その後もユダヤ人から殺されることを恐れて戸を閉めて集まっていた弟子たちです。彼らは、鞭と十字架と槍の傷を受けてふらふらの主イエスを見て、「主はよみがえりました。」「主は死にうち勝ちました」と大胆に宣言することができたでしょうか。
弟子たちが主イエスの死体を盗んだと考える人がいます。ユダヤ教の指導者も、ローマの兵士も、主イエスの死体を盗むはずがありません。ですから、もし、誰かが盗むとしたら弟子たち以外に考えられません。キリストの敵であった人々もイエスの墓が空っぽだったことを認めています。ユダヤ教の指導者たちはローマの兵士に金を渡して「自分たちが眠っている間に弟子たちがイエスの死体を盗んで行った」と言うように頼んでいます。でも、変ですよね。どうして眠っているのに弟子たちが盗んだって分かるのでしょうか。ともかく、弟子たちはイエスの墓は空っぽだと宣言するし、イエスに敵である者たちはそれに反論することができませんでした。弟子たちのことを考えても、主イエスの死体を盗んでも何の利益もありません。かえって、彼らに対する迫害が強くなるだけです。
の考えは、主の復活を強く願っていた人々が、主イエスの幻を見たとする考えです。しかし、ある心理学者の話では、このような幻というは夢と同じようなもので、非常に個人的なものだそうです。パウロは1コリント15章で、主イエスが同時に500人以上の人の前にも現れたと書いています。500人以上の人が同じ時に同じ幻を見るのは、死んだ人が生き返る以上に大きな奇跡なのです。第一、弟子たちは主イエスが復活することを理解していませんでした。彼らは主イエスが死んだので、これから自分たちがどうなるのか強い不安を感じていました。また主イエスは弟子たちと食事をしています。
主イエスが復活したことは、確かな事実で、その復活が人々を変えたのです。おそれに満ちた弟子たちが大胆な伝道者に変わりました。弟子たちのほとんどが自分の信仰のために殺されました。しかし誰も主イエスが神の御子であり、十字架の後に死から復活したことを否定しませんでした。もし、弟子たちが主イエスの死体を盗んでいたら、嘘だと分かっていることのために命を捨てることができるでしょうか。主イエスの死体を隠していることを知っていながら、大胆に「主は復活した」と宣言していのちを落とすことができるでしょうか。今、イスラエルでパレスチナ人による自爆テロが続いています。爆弾を体につけてバスに乗ったり、レストランに入って、自分のいのちを捨ててユダヤ人を殺しています。なぜ、彼らは、あのようなことができるのでしょうか。それは、イスラム原理主義者たちは心から信じているのです。自分たちがイスラムのためにアラーの神のために人を殺すなら、その瞬間に天国に行けると真剣に信じているからです。人は、真剣に信じているなら、いのちを捨てることもできるのです。純粋に信じるという点では、イエスの弟子たちも同じでした。
十字架にかかったのは金曜日でした。この日をアメリカやカナダではGood Fridayと呼びます。主イエスが十字架で苦しまれたのに、Good
Friday, 素晴らしい金曜日と呼ぶのは、三日目の日曜日に主イエスが復活されたから、Goodだと呼ぶのです。主が十字架で死なれた後、弟子たちは、ユダヤ人から殺されると思って恐れて隠れていました。弟子たちはイースターの日に復活の主イエスに出会うまで、彼らの心は苦しみと不安でいっぱいでした。金曜日はGood
Friday,であり、日曜日はEasterです。しかし、その間の土曜日には特別な名前はありません。私たち、今を生きるクリスチャンたちは、ある意味で、名前のない土曜日を過ごしていると言えます。十字架で私たちのすべての罪は赦されました。永遠のいのちの約束を受けることができました。しかし、私たちが将来受ける栄光、天国で神とともに永遠に生きる時は、まだ来ていません。私たちは、その永遠の栄光の時が来るのを待っているのです。この地上を去るとき、私たちは滅ぶのではありません。霧のように消えるのではありません。体のない幽霊になっていつまでも飛び回るのでもありません。悩みと不安に満ちたこの世界を離れて、永遠の平安、永遠の喜びがあふれる神様のみもとへと移されるのです。その時を待っている土曜日を生きているのです。しかし、必ず、復活の時がやってきます。私たちの神は、死んだ神ではありません。今も、肉の目には見えませんが、確かに生きて働いておられます。復活の主は言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」私たちは主イエスが死に勝利されたことを確信することができます。だから、私たちが主イエスのために行うことは決して無駄にはならないことを知ることができます。旧約時代に栄華を極めたソロモンは旧約聖書の中で38回繰り返して、「すべては空しい」と叫びました。しかし、私たちはパウロとともに、主のために生きることが無駄でないことを確信できるのです。
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