2002礼拝めっせーじ
礼拝説教04/14|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-04-14『恵みの中で生きる』(エペソ1章1〜7)
 
(イントロ)
今年は、
エペソ人への手紙を通して学びたいと思います。エペソは、現在のトルコにある都市で、今から2000年前は、港町として非常に栄えていました。また、エペソにはアルテミスという神の巨大な神殿があって、多くの人々が訪れる町でもありました。パウロはこの町に教会を建てて、一度エルサレムに戻りますが、再びエペソに行って、そこで3年間暮らします。パウロは宣教の働きをするとき、一つの町に信仰者のグループができ、教会ができるとすぐに別の町へ移りました。3年というのはパウロにとって非常に長い期間なのです。その間にパウロはエペソ教会の人々の関係を深めて行きました。このパウロの手紙は、エペソの教会だけに書かれた手紙ではなく、エペソの近くにあった別の教会にも回覧版のように回して読まれた手紙だと考えられています。エペソの近くにはコロサイ教会やラオデキヤ教会などがありました。パウロはこの手紙を通してエペソの地域で厳しい迫害の中で信仰生活を送っているクリスチャンたちを何とかして励ましたいと思っていました。パウロの愛する仲間たちに書き送られた手紙です。そして今日のタイトルは「恵みの中で生きる」ですが、「恵み」について考えたいと思います。

(1)聖書に言われている恵みとは何か
「恵み」
とは何でしょうか。パウロはこの手紙のはじめにあいさつの言葉を書いています。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(2節)パウロはエペソのクリスチャンに「恵み」と「平安」があるようにと挨拶をしています。パウロはクリスチャンにとって最も必要なもの、大切なものは神様から与えられる「恵み」と「平安」であると述べているのです。聖書が教える「恵み」とは神様が私たち一人一人にもらう資格のないようすばらしいものを一方的に与えてくださるものを意味します。人は、神を信じて神と共に生きるように造られた者ですが、今は神から離れ、自分勝手な生き方をしています。すべての人間は、心の奥底では、結局のところ自分が一番大切という自己中心で生きています。すべてがうまく行っているときはいいのですが、自分の思うように行かなくなると、誰か他の人の責任にして文句を言います。自分が他の人を傷つけていることに気がつかないで、他人から受けた傷のことで怒ります。他の人と比べて生きていて、少し自分が恵まれると自慢して、他の人が幸せそうにしていると、ひどく落ち込んでみじめになってしまう。そんなわがままな人間ですから、神から哀れみや祝福を受けるような資格がありません。しかしそのような者に目をとめて、憐れみを感じ、愛を与えてくださる神様は「恵み」の神なのです。

神様が

私たちに恵みとして与えてくださるもの、それを私たちは祝福と呼びます。それが私たちの本当の幸福の基なのです。私たちの人生の中には、自分の努力で得られるものと、人間の努力だけでは得られないものがあります。たとえば、この世で成功すること、財産を増やすこと、権力を持つことなどは自分の努力で得ることができます。しかし、心の平安とか愛に満たされることとか、いつも心から喜びがわき上がることなどは人間の努力で得られるものではありません。それらは神様が「恵み」として「祝福」として私たちに与えてくださるものなのです。パウロはそのような神から与えられる「平安」がエペソのクリスチャンにもあるようにとお祈りをしているのです。神様は、私たちにそのような神だけが与えることのできるすべての霊的な祝福を私たちに与えてくださるとは何と素晴らしいことでないでしょうか。

(2)神に選ばれた恵み
パウロは

3節で、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」と述べています。私たちは、自分があの時にキリストを信じたとか、あの時から教会に通い始めたと考えますが、聖書は、それよりもずっと前に神が私たちを選んでおられたのだと教えています。しかも、その時が、「世界の基の置かれる前」と言われています。つまり、この世界の歴史が始まる前にすでに神は私たちを選んでおられたのです。私たちが、何かを選ぶときに、あまり深く考えないで選んでしまうこともあります。しかし、永遠の神、全知全能の神が選ぶ選びは確かな選びです。そして、神の選びはキリストのうちに選ばれています。本当は私たちは神様から選んでもらえるような人間ではありません。神に反抗し、神に逆らって生きてきた私たちです。神の敵として生きてきた私たちですが、キリストが十字架にかかって私たちの身代わりとなって神のさばきを受けてくださいました。そのおかげで、神から選ばれることが可能となったのです。私たちが、とくに素晴らしいものを持っていたから神に選ばれたのではありません。イスラエルの民が選ばれたのも、彼らが優れた民だったからではありません。申命記の7章6−8節でモーセは次のように語っています。「あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」

そして、

その選びの目的は、私たちが神の前に聖く傷のない者とするためでした。私たち、一人一人の人間は、神のかたちに造られました。すべて造られたものには目的があります。神様の御心は、私たちは聖く傷のない者として生きるために造られたのですが、私たちは神の御心を無視して自分のしたいように、自分の欲望のままに生きる者となってしまいました。誰もがそのような状態なので、この世で生きる時にいろいろ苦しいことや悲しいことを経験するのです。聖書は、この世のすべての問題の根本的な原因は私たちのわがままな心であるとはっきり述べています。「自分がしたいように生きる」というのは決して自由な生き方ではなく、自分の欲望にコントロールされて生きなければなりません。自分の欲望、願いが満たされないと平安がないのです。しかし、神様は私たちをそのような状態から解放する道を与えてくださいました。私たちが神の目的にかなった生き方をする道を、神様が開いてくださったのです。そして、その道に入るように神が私たちを選んでくださいました。

(3)神の子どもとされる恵み
パウロは、

神様によって選ばれた恵みについて語りましたが、続いて5節で次のように語っています。「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」神様のご計画、神様の御心は決して変わることがありません。神様は、私たちが自己中心な生き方から解放されるために選んでくださっただけではなく、私たちをご自分の子どもにしようと決心されました。そのために、神様はまず、わがままな生き方をする私たちを赦すという恵みを与えてくださいました。7節には「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」と書かれています。「神の豊かな恵みによる」と書かれていますが、この「よる」という言葉は、詳しく言うと、「豊かな恵みを全部つかって」という意味になります。神様が私たちの、自己中心な心、罪の心を赦してくださるのは、たくさんある恵みの中の一部の恵みによってではなく、神は私たちの罪を赦すために、すべての恵みを用いてくださったのです。私たちがお金を必要としている人に、たとえば、1億円持っている中から1万円をあげたとしても、それは特別な行いではありません。1億円持っている人にとっては、1万円というのは大きな金額ではありません。犠牲的な行いとは言えません。しかし、1億円持っている人が、自分の財産すべてを誰かにあげるとしたら、それは特別な行いです。そのように、神様は、私たちを赦すために、神様が持っておられる豊かな恵みを全部使い果たしてくだしました。つまり、軽い気持ちで赦されたのではなく、すべてを犠牲にした赦しなのです。そこに、私たちに対する神の愛の深さが表れています。

そのような

決意を持って、神は私たちをご自分の子どもに迎え入れてくださいました。当時のローマ帝国の法律では、養子に迎えられた子どもは、実の子どもと全く同じ権利と特権を認めていました。たとえ、養子に迎えられた子どもが、奴隷の子どもであったとしても、養子に迎えられた家族の中では、他の子どもと全く同じように扱われ、財産を受け取る権利が与えられていました。イエス・キリストを神と信じる者はすべて神のこどもとなる権利を与えられたのです。これまでの人生がどんな人生であっても、神が全力をかけて私たちの罪を赦して、私たちをご自分の子どもとして迎えてくださったので、クリスチャンは神の子どもという素晴らしい立場にある人間として生きて行くのです。そして、神様が私たちに与える霊的な祝福をすべて受け取る権利を認められているのです。


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