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2002礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2002-04-28『道を開かれる主』(1コリント2:1−9) 小西優子師(主の道)
そして、神様が私たちに備えられているご計画と私たちの歩みも天と地ほどに離れてしまったのです。どんなに知恵を尽くして建てられたビルも決して天には到達できないように、どんなに私たちが努力し、最高の知恵を求めて歩んでも、神様の道とは天と地ほどもはなれているのです。……イザヤ55章8−9節を読んでみましょう。
1−5節で、神の民イスラエルに対し神様はこう語っておられます。「彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、…わたしの霊によらず、…エジプトに下っていこうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。」また、15−16節には、イスラエルの民は、エジプトに頼ることをやめて神に立ち返って信頼しなさいと言われたのに、「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」と言ったとあります。エジプトとは、聖書でこの世のことを指す時に使われます。馬は、人間の力を象徴する表現に使われます。神様は『この世の知恵や保護に頼ることをやめなさい。自分の力を武器とせずに、神に立ち返りなさい』と言われ、また、『わたしの指示を仰ぎなさい。』といわれているのです。そして、18節では、主ご自身が、私たちを恵むために待っておられると書いてあります。 (1)神様がひとりひとりに備えておられる道は違う。
日本人や日本の学校の特徴として、この様な指摘を受けたことがあります。それは、何か一つの答えや基準を示してもらわないと安心しないと言うことです。そして、人と同じでないと不安になったり、基準にはずれている人のことが気になるというのです。「あの意見もいいけれど、この意見もいい」とか、「このやり方がベストで、あれは愚かに見えるが、あの人にとっては、そうしたほうがベストなんだろう」とは、なかなか思えないのです。私たちの人生に関して、皆が同じマニュアルをもらっていれば、楽だろうと思います。しかし、神様はコピーのようにして、私たちひとりひとりをお作りになった訳ではないのです。そして、この世界にひとりとして同じ能力や性格を持った人はいないということは、ひとりひとりの使命、そしてそのために与えられる賜物や神様の方法も皆違っていて当然ではないでしょうか。
……目でみたことがない……新しいというのは、今までに体験したことが無い、ということです。聖書では、非常におもしろいことに、神様は、道を開かれる時に、二度と全く同じ方法をとっておられません。例えば、紅海を渡るときとヨルダン川を渡るときは違います。なぜでしょうか。もしいつも同じならば、人は簡単にその方法や知恵に頼ってしまって、生ける神様ご自身に頼らなくなります。そして、いつのまにかアダムとエバのように神様ご自身から離れてしまうのです。 自分で神様に祈って、神様からの答えや御言葉をもらう前に、簡単に今までこうしてきたから、と自分の思いで決めて進んで行くことも多いのではないでしょうか。また、神様は、私たちの信仰も同じ所にとどまらず、さらに大きく成長してほしいと願っておられるのではないでしょうか。いつも神様のなさる新しい御業を期待するということではないでしょうか。 (3)神様の道はこの世から見ると愚かな道
くださるものは、この世の霊では分からないとかいてあります。
弟子たちはどうでしょうか。失敗ばかりしていたこの弟子たちは、大体、主の役に立つのでしょうか。 フィリップ・ヤンシーというクリスチャンの作家が、「誰も書かなかったイエス」という本の中でこのようなことを言っています。神の御子が、一晩も徹夜して祈って選ばれた弟子たちにしては、あまりにもお粗末で欠けだらけの人たちばかりだ。一体、主イエスは何を考えておられたのだろう、と。ヤンシーでなくても、役に立ちそうな弟子は30分もあれば選べます。まず、性格の良い、穏やかで誰にでも好かれる人、それから頭が良くてよく気のつく人もいいでしょう、もちろん聖書の知識が豊富で、話にも説得力のある人、そうそう、たくさん献金する人や社会的に力があり、信用のある人も忘れてはいけません。そう思いませんか。
弟子たちは、結局主人が最悪の十字架について死んでしまい、しかも、自分たちが弱くて何の力も無いということを思いしらされ、行き詰まるところまでいってしまいました。ところが、そんな人間的な知恵も力も尽きてしまった後に聖霊が下り、思いもかけない新しい道が開かれていったのです。彼らが聖霊様とともに働くときには大胆に恐れることなく語ることができ、多くのひとが主を信じました。人々は、彼らの大胆さを見て、彼らが「無学な普通の人であるのを知って驚いたが」、彼らが「イエスとともにいたのだ、というのが分かってきた」と使徒4章13節にあります。
パウロはどうでしょう。ピリピ3章によると、彼は自分ほど完璧な信仰者はいないと思っていたようです。素晴らしい知識を持ち、家庭はかなり裕福、そして、ローマの市民権をもっていたエリートで、ガマリエルという1世紀最大の学者といわれた人の門下生、しかも「落ち度なく律法を守り行い」、と言っていますから、礼拝や献金も守り、貧しい人に施し、良い行いや正しい行いといわれることは、すべて努力して行い、信仰生活を守ってきたことでしょう。ところが、パウロは、人間的に頼むところが誰よりもたくさんあり、そういうものをよりどころとしていたためにかえって損をした、と言っているのです。自分の行ってきた行いは、キリストのすばらしさに比べればちりあくたにすぎない、といっているのです。そして、この2章4−5節では、彼の宣教は、説得力のある知恵の言葉によったのでなく、聖霊の力によるのである、とあかしをしました。
には、人の目から見れば愚かとしか見えない神様の方法を信じ切った信仰者たちのことが列挙されています。みなさんは、この天気の中で仕事もしないで巨大な船を造り続ける人を見てどう思われますか、また年をとってから赤ちゃんができると信じることだけで人々からは気が狂ったと思われるのに、そのやっと与えられた子どもを、自分の手で殺して捧げるなんて……。でも、アブラハムは、神がイサクをよみがえらせることを信じたとあります。信仰がなくては神を喜ばせることはできません。私たちでさえ、自分の子どもには最善の方法で最良のものを与えようとし、そんな自分を信頼してほしいと願っているのです。
のお話をします。これは本当にあったことです。ある牧師さんが、大きな教会堂を建てるというビジョンを神様からもらいました。ところが、鉄骨の柱を立てたところで世の中が不況となり、教会員にも失業する人が増えた上に、銀行もお金を貸してくれなくなりました。工事がストップしたまま、教会は大変な窮地に立たされました。そんなある日、集会の中で一人のみすぼらしい格好をした80歳ぐらいのおばあさんが講壇のところに歩み出てきました。彼女は三つのものを持ってきました。「わたしはこれしか捧げられません。これが私の全財産ですが、これを会堂建築におささげします。私は、明日からは厚紙でご飯を食べます。」こう言って彼女の出したものは、使い古した一個の茶碗、一本のスプーン、そして箸でした。牧師はびっくりして言いました。「これは受け取れません。お気持ちだけで十分です。どうぞお持ち帰りください。」すると彼女は言いました。「これが役に立たないことは分かっています。でも、これが私の全財産なのです。イエス様ならきっと受けとってくださったでしょうに」彼女は泣きくずれてしまいました。 すると突然、一人の男性が飛び出してきました。彼も泣いていました。そしてこういったのです。「私がその三つのものを買いましょう。」彼は実業家でした。そしてどう言ったと思いますか。「一千万円で買いましょう。」といったのです。そして工事が再開され、立派な会堂が建ったのです。私たちが、ただ神様の力に信頼し、御言葉のままに生きるなら、主御自身が、そのお約束通りに、遙かに大きな道を開いてくださるのです。
さきほどの神の民イスラエルに対し、ホセア書14章3節では、このように言いなさいと書かれてあります。「私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造ったものに、わたしたちの神とは言いません。」自分の力を武器とせず、自分たちの造ってきたものを誇ったり、それに頼らないということでしょう。最後にこう告白するようにと言われています。「みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」と。イエス様も、ヨハネ14章で、わたしたちを孤児にはしないと約束されました。私たちも、全てを置いてそう告白し続けることができるように祈りましょう。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |