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2002礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2002-05-05『神を信じ人を愛する』(エペソ1章15〜16節) (イントロ)
(1)主イエスに対する信仰
ここで主イエスと言われていますが、主と訳されているギリシャ語は「キュリオス」と言います。教会は英語で「チャーチ」と言いますが、これはこの「キュリオス」から造られた言葉です。また、このキュリオスという言葉は旧約聖書で神がモーセに教えられた神の名前をギリシャ語に訳す時に使われた言葉でもあります。ですから、主という言葉は軽い言葉ではありません。たんにご主人様というような意味ではなく、神がモーセに言われたように「わたしはある」という全能の神を意味しているのです。私たちクリスチャンはいつも「主イエス」という言葉を使っていますが、主という言葉の意味の重さを忘れていることはないでしょうか。もともと、「キュリオス」という言葉は権威や所有権をもつ人を表しました。ですから、もし、私たちが「イエスは主です」と告白するならば、それは、「私はサタンに所属していたのですが、今は解放されてイエス・キリストに所属しています」という非常に重い信仰告白なのです。神様が、私たちを罪の奴隷状態から解放するために、犠牲を払ってくださいました。ですから、今、私たちは、神様のものとなったのです。ある意味で、私たちはキリストの奴隷となったのです。そのようなキリストとの関係に入ることを決断することが主イエスに対する信仰だと言えます。
権威に従うことを嫌います。親や学校の教師や会社の上司など、権威を持つ人々に従うことを嫌います。ですから、このように主イエス・キリストの奴隷になることは、受け入れにくいことだと私たちは思います。しかし、私たちが権威に従うことを嫌う理由は、たいていの場合、権威を持つ人がその権威を振り回して、下にいる人を自分の権威で支配しようとするからです。神様はいっさいの権威を持っておられる方ですが、その権威を振りかざして振る舞うことをされません。主イエスは、十字架にかかる前に、弟子たちの足を洗われました。それは、弟子たちにご自分の生き方を教えるためでした。権威を持っている方が、下にいる人の前で跪いて仕えられたのです。このような主イエスの権威に従って生きる時、私たちは、自分の自己中心の心から解放されて、本当の自由を経験することができるのです。自分の地位や権力を振り回す人は自由な人ではありません。自分の地位や権威に縛られて生きているのです。徹底的に謙遜な生き方をされた主イエスに対する信仰とは、自分も主イエスの生き方に従うことを決意することです。私たちは神を礼拝していますが、この「礼拝する」という言葉も、「体をひれ伏す」という意味の言葉です。ですから、神を信仰し神を礼拝するとは、神の前にひれ伏すことなのです。主イエスはそのような礼拝を受けるにふさわしい方です。私たちは毎週日曜日に神を礼拝するために集まっていますが、多くの場合に、私たちは礼拝から何かを受けることを期待します。確かに、礼拝する場所には神様からの祝福が豊かに注がれますから、多くの祝福を受けることができます。しかし、それが礼拝の第一の意味ではありません。私たちは礼拝から何かを受けることを期待する前に、まず、神の前にひれ伏すこと、神の前に低くなることが大切です。その心こそが主イエスに対する本当の信仰なのです。 (2)すべての聖徒に対する愛
は主イエスに対する信仰です。私たちの罪を赦すために自分から十字架にかかってくださった救い主イエス・キリストに対する信仰です。しかし、信仰が本当の信仰であるならば、それが他の人にも分かるようなかたちで表れて来ます。女の人は恋をすると美しくなると言われます。喜びと幸福に心が満ちあふれると人々の姿、表情が自然に変わるように、いのちをかけて私たちを愛してくださった神を信じるようになると、私たちの生活も自然に変わってくるはずです。エペソのクリスチャンたちの信仰はすべての聖徒に対する愛というかたちで表れました。主イエスに対する信仰は人に対する愛と切り離すことはできないものです。人に対する愛が伴わない信仰は、非常に冷たい信仰になり、人を裁く信仰になってしまいます。ヤコブの手紙の中に次のような言葉があります。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。」私たちは、自分たちの正しい行いによって罪から救われるのではありません。しかし、主イエスを信じる信仰によって罪赦され救われた者は、行い、特に、すべての聖徒、すべての人に対する愛がなかったら何の役にも立たないとヤコブは言っています。
すべての聖徒に対する愛と書かれています。クリスチャンの愛は、差別をしない愛です。相手を選ばない愛です。私たちは自分を愛してくれる人だけを愛することが多いです。主イエスは言われました。「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」私たちは神から無限の愛を受けています。だから、私たちは、自分が受けた愛を周りの人々に分け与えていくことが必要なのです。水は流れが止まると汚れてしまいます。いつも流れていると、水はきれいです。人の心も同じです。愛を受けているばかりでは、私たちの心は汚れます。イスラエルにある死海という湖には生物は一匹もいません。以前テレビで見たことがありますが、死海の水の中は本当にきれいです。なぜかと言うと、ふつう、湖にはたくさんの藻が生えていますが、そのような藻が一つもないのです。とにかく生物はひとつもいないのです。死海は世界で最もひくい所にあります。海抜マイナス400メートルのところにあります。死海には水が流れ込むだけでどこにも流れ出ていくことがありません。だから水に命がないのです。私たちの心も同じです。神様から受けた愛を誰にも分け与えないでいると、その愛はいのちのないものになってしまいます。
新約聖書で「愛」という言葉が使われる場合は、愛は犠牲を惜しまずに他のひとのために生きる生き方を意味します。それは誰かを好きになることとか、心が引かれるというものではありません。自分の意志、自分の決断で、その人のために生きるという生き方です。主イエスは、そのことを実践されました。私たち人間をどこまでも愛することを決心して、十字架にかかってくださいました。私たちは、お互いに愛し合っているでしょうか。すべての聖徒に対して愛することを決断しているでしょうか。すべてのクリスチャンだけでなく、私たちの周りにいるすべての人を愛する気持ちを持っているでしょうか。「私たちはすべての人を愛することはできません。まだ会ったこともない人をどうして愛することができるでしょうか。」と言う人がいるでしょう。すべての聖徒に対する愛は、まず自分のすぐそばにいる人から始まります。自分の近くにいる人を愛することができないのに、遠くの人を愛することはできません。また、目に見える人間を愛せないのに目に見えない神を愛することもできません。主は言われました。「敵を愛し、迫害する者のためにいのりなさい。」愛することが難しい人がいます。まず、祈ることから始めましょう。憎しみは人を奴隷にしてしまいます。誰かを憎んで生きる時、人は、その憎しみに縛られてまったく自由がなくなってしまいます。難しい時、祈りましょう。そして主が弟子たちの足を洗って模範を見せてくださったように、互いに愛を実践する者でありましょう。
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