2002礼拝めっせーじ
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礼拝説教 2002-05-05『神を信じ人を愛する』(エペソ1章15〜16節)
 
(イントロ)
エペソ人
への手紙の1章の初めの部分で使徒パウロは、主イエス・キリストを信じる者が受けることのできるさまざまな祝福について語りました。神様は私たちを特別に扱ってくださり、私たちが、神の子どもとなり、神の国を受け継ぐ者となりようにと、私たちを選んでくださいました。そして、キリストと一緒に天にある全ての霊的な祝福を受けるように私たちのために素晴らしい計画を立ててくださいました。そして、聖書の神は、11節を見ると、みこころによりご計画のままをみな実現される方であると書かれています。「実現する」と訳されているギリシャ語は「エネルゲオー」という言葉です。この言葉から「エネルギー」という言葉が生まれました。つまり、神様が天と地を創造された時、神の口から言葉が出るとすべてその通りに実現したように、神には、私たちのための計画を、全て、完全に実現する力、エネルギーを持っておられるのです。

私たち
が信じている、聖書の神は、決して小さな神ではありません。使徒信条で毎週告白しているように、天地の造り主であり全能の神です。天においても地においてもすべての権威を持っておられる方です。神はすべての世界をご自身の言葉によってお造りになりました。「光あれ!」と言われると光ができました。天地を造られた神の力は昔だけに働いたのではありません。私たちの神様は昨日も、今日も、とこしえに変わることのない方です。使徒の働きの4章27、28節には次のように書かれています。「事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。」これは、主イエス・キリストが十字架に掛けられたことについて当時のクリスチャンが語っている言葉ですが、ユダヤ人のリーダーへロデとローマ帝国側のリーダーピラトが協力して主イエス・キリストを十字架につけたと言われています。当時、ユダヤ人は外国人支配者であるローマ人を非常に嫌っていました。ですから、へロデとピラトは仲が悪かったのですが、二人は、主イエス・キリストに反対するということで一致したのです。彼らは、敵と手を組むほどに、主イエス・キリストが邪魔でした。ふたりはいろいろ考えて、主イエスを処分するのには協力することが得だと判断したのです。ふたりとも必死になって、自分の立場を守り自分の権利を守ろうとして行動していました。しかし、それらもすべて、実は、神ご自身があらかじめ計画していたことが実現するために彼らは動いていたのです。このように、人間は、自分の力で歴史を作っているように考えるのですが、実際には、神様の支配の中で動いているだけなのです。主イエスは、へロデとピラトの陰謀によって十字架にかかったのではありません。主イエスは、ある時言われました。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。」人間の歴史も、背後で働かれる神によって支配されているのです。そのような権威を持っておられる神が私たちにすばらしい約束を与えてくださいました。神の約束が破られることは決してありません。エペソの教会の人々は、この手紙が書かれたころは激しい迫害を受けていました。クリスチャンとして生きることが本当に大変でした。しかし、彼らは、この絶対的な権威を持っている神様に対する信仰をしっかり持っていたのです。パウロは、エペソ人のクリスチャンたちが素晴らしい信仰を持っていることを聞いて、15節から神様に感謝の祈りを捧げています。

(1)主イエスに対する信仰
パウロ
はエペソの教会のクリスチャンたちの主イエスに対して素晴らしい信仰を持っているという評判の耳にしました。パウロはこの手紙をローマの監獄の中で書いたと考えられていますが、彼のもとへエペソの教会の知らせが届いたのでしょう。彼は、その知らせを聞いてどれほどうれしかったでしょうか。自分が苦労して建てあげたエペソ教会の人々が激しい迫害の中でも信仰を守り通していたからです。それで、パウロは思わず感謝の祈りをささげているのです。
 ここで主イエスと言われていますが、主と訳されているギリシャ語は「キュリオス」と言います。教会は英語で「チャーチ」と言いますが、これはこの「キュリオス」から造られた言葉です。また、このキュリオスという言葉は旧約聖書で神がモーセに教えられた神の名前をギリシャ語に訳す時に使われた言葉でもあります。ですから、主という言葉は軽い言葉ではありません。たんにご主人様というような意味ではなく、神がモーセに言われたように「わたしはある」という全能の神を意味しているのです。私たちクリスチャンはいつも「主イエス」という言葉を使っていますが、主という言葉の意味の重さを忘れていることはないでしょうか。もともと、「キュリオス」という言葉は権威や所有権をもつ人を表しました。ですから、もし、私たちが「イエスは主です」と告白するならば、それは、「私はサタンに所属していたのですが、今は解放されてイエス・キリストに所属しています」という非常に重い信仰告白なのです。神様が、私たちを罪の奴隷状態から解放するために、犠牲を払ってくださいました。ですから、今、私たちは、神様のものとなったのです。ある意味で、私たちはキリストの奴隷となったのです。そのようなキリストとの関係に入ることを決断することが主イエスに対する信仰だと言えます。


人は、

権威に従うことを嫌います。親や学校の教師や会社の上司など、権威を持つ人々に従うことを嫌います。ですから、このように主イエス・キリストの奴隷になることは、受け入れにくいことだと私たちは思います。しかし、私たちが権威に従うことを嫌う理由は、たいていの場合、権威を持つ人がその権威を振り回して、下にいる人を自分の権威で支配しようとするからです。神様はいっさいの権威を持っておられる方ですが、その権威を振りかざして振る舞うことをされません。主イエスは、十字架にかかる前に、弟子たちの足を洗われました。それは、弟子たちにご自分の生き方を教えるためでした。権威を持っている方が、下にいる人の前で跪いて仕えられたのです。このような主イエスの権威に従って生きる時、私たちは、自分の自己中心の心から解放されて、本当の自由を経験することができるのです。自分の地位や権力を振り回す人は自由な人ではありません。自分の地位や権威に縛られて生きているのです。徹底的に謙遜な生き方をされた主イエスに対する信仰とは、自分も主イエスの生き方に従うことを決意することです。私たちは神を礼拝していますが、この「礼拝する」という言葉も、「体をひれ伏す」という意味の言葉です。ですから、神を信仰し神を礼拝するとは、神の前にひれ伏すことなのです。主イエスはそのような礼拝を受けるにふさわしい方です。私たちは毎週日曜日に神を礼拝するために集まっていますが、多くの場合に、私たちは礼拝から何かを受けることを期待します。確かに、礼拝する場所には神様からの祝福が豊かに注がれますから、多くの祝福を受けることができます。しかし、それが礼拝の第一の意味ではありません。私たちは礼拝から何かを受けることを期待する前に、まず、神の前にひれ伏すこと、神の前に低くなることが大切です。その心こそが主イエスに対する本当の信仰なのです。

(2)すべての聖徒に対する愛
私たち
の信仰

は主イエスに対する信仰です。私たちの罪を赦すために自分から十字架にかかってくださった救い主イエス・キリストに対する信仰です。しかし、信仰が本当の信仰であるならば、それが他の人にも分かるようなかたちで表れて来ます。女の人は恋をすると美しくなると言われます。喜びと幸福に心が満ちあふれると人々の姿、表情が自然に変わるように、いのちをかけて私たちを愛してくださった神を信じるようになると、私たちの生活も自然に変わってくるはずです。エペソのクリスチャンたちの信仰はすべての聖徒に対する愛というかたちで表れました。主イエスに対する信仰は人に対する愛と切り離すことはできないものです。人に対する愛が伴わない信仰は、非常に冷たい信仰になり、人を裁く信仰になってしまいます。ヤコブの手紙の中に次のような言葉があります。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。」私たちは、自分たちの正しい行いによって罪から救われるのではありません。しかし、主イエスを信じる信仰によって罪赦され救われた者は、行い、特に、すべての聖徒、すべての人に対する愛がなかったら何の役にも立たないとヤコブは言っています。

そして

すべての聖徒に対する愛と書かれています。クリスチャンの愛は、差別をしない愛です。相手を選ばない愛です。私たちは自分を愛してくれる人だけを愛することが多いです。主イエスは言われました。「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」私たちは神から無限の愛を受けています。だから、私たちは、自分が受けた愛を周りの人々に分け与えていくことが必要なのです。水は流れが止まると汚れてしまいます。いつも流れていると、水はきれいです。人の心も同じです。愛を受けているばかりでは、私たちの心は汚れます。イスラエルにある死海という湖には生物は一匹もいません。以前テレビで見たことがありますが、死海の水の中は本当にきれいです。なぜかと言うと、ふつう、湖にはたくさんの藻が生えていますが、そのような藻が一つもないのです。とにかく生物はひとつもいないのです。死海は世界で最もひくい所にあります。海抜マイナス400メートルのところにあります。死海には水が流れ込むだけでどこにも流れ出ていくことがありません。だから水に命がないのです。私たちの心も同じです。神様から受けた愛を誰にも分け与えないでいると、その愛はいのちのないものになってしまいます。
また、

新約聖書で「愛」という言葉が使われる場合は、愛は犠牲を惜しまずに他のひとのために生きる生き方を意味します。それは誰かを好きになることとか、心が引かれるというものではありません。自分の意志、自分の決断で、その人のために生きるという生き方です。主イエスは、そのことを実践されました。私たち人間をどこまでも愛することを決心して、十字架にかかってくださいました。私たちは、お互いに愛し合っているでしょうか。すべての聖徒に対して愛することを決断しているでしょうか。すべてのクリスチャンだけでなく、私たちの周りにいるすべての人を愛する気持ちを持っているでしょうか。「私たちはすべての人を愛することはできません。まだ会ったこともない人をどうして愛することができるでしょうか。」と言う人がいるでしょう。すべての聖徒に対する愛は、まず自分のすぐそばにいる人から始まります。自分の近くにいる人を愛することができないのに、遠くの人を愛することはできません。また、目に見える人間を愛せないのに目に見えない神を愛することもできません。主は言われました。「敵を愛し、迫害する者のためにいのりなさい。」愛することが難しい人がいます。まず、祈ることから始めましょう。憎しみは人を奴隷にしてしまいます。誰かを憎んで生きる時、人は、その憎しみに縛られてまったく自由がなくなってしまいます。難しい時、祈りましょう。そして主が弟子たちの足を洗って模範を見せてくださったように、互いに愛を実践する者でありましょう。


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