礼拝説教
2002-05-12『神を知って生きる』(エペソ1章17-23節)
(1)神を知ること
エペソ教会のクリスチャンたちを心から愛していました。そして、激しい迫害の中で信仰を守っているエペソのクリスチャンたちがしっかりと信仰に立って生きるようにと毎日祈っていました。この手紙を書いている途中にも、祈りの言葉が彼のペンからあふれて来ました。17節からの祈りで、パウロが願っていることは、エペソのクリスチャンたちが、聖霊に満たされて、さらに深く神を知ることでした。信仰とは神を知る生活であるとパウロは考えていました。
の福音書17章3節で主イエスは祈りの中で次のように言われました。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ここで主イエスは、神を知ることによって、私たちは永遠の命を持つのだと言われました。ふつう、永遠のいのちと言うと「いつまでもつづく命」という意味だと考えます。しかし、主イエスが言われた「永遠のいのち」とは、ただ永久に続く、長い期間続くいのちという意味ではないのです。人のいのちの価値は長さで決まるのではありません。もちろん長く生きることができるのは祝福ですが、80年生きた人が50年生きた人よりも、素晴らしい人生だとは言えません。いのちの価値、人生の価値は長さではなくて、質によって決まるからです。聖書で「永遠のいのち」と言っているのは、永遠という言葉にふさわしい神のいのちを所有することであって、今を生きる私たちが、今いるこの場所で神のいのちの素晴らしさ、輝き、喜びを、何かのかたちで経験することなのです。それはどんないのちかと言うと、唯一まことの神、イエス・キリストを知って生きるいのちなのです。これが、キリストを信じる信仰なのです。信仰とは、何かをすることではありません。神の教えを守ること、神のために何か奉仕をすること、神のことを人々に知らせること、それらはどれも大切なことですが、それが信仰の本質ではありません。信仰とは、神を知って生きることです。ところが、多くの場合に、このことが忘れられて、信仰とは、神様のために何かをすることだと考える人が多いのです。ところで、私たちは本当に神を知っていると言えるのでしょうか。クリスチャンとして信仰生活を送っていますが、本当に神を知っていると言えるのでしょうか。主イエスがある時、ベタニヤという町に住んでいた友人の家を訪れました。それはマルタとマリヤという姉妹の家でした。もちろん主イエス一人ではありません。12人の弟子も一緒でした。喜んで彼らを迎えた姉のマルタは彼らにごちそうを食べさせたいと思って一生懸命料理を作っていたのですが、ふと見ると妹のマリヤは主イエスの前に座って、主イエスの話を真剣に聞いていました。その姿を見て、怒りを感じたマリヤは主イエスに文句を言いました。「イエス様、あなたは妹が私の手伝いをしないのを見ても何も言わないのですか。私一人でこんなに忙しくしているのに。」主イエスと弟子たちをもてなすために喜んで料理を作っていたマリヤですが、忙しくなって、心が疲れて来ると、喜びが文句に変わったのです。そんなマリヤに主イエスは優しく答えました。「マリヤ、マリヤ、あなたはいろいろなことを考えすぎています。でも、この世の中で本当に大切なことは少ない、いや実際には一つしかないのだ。マリヤはそれを選んだのだよ。」私たちは主イエスの言葉を聞かないで、何かいつもばたばたと働いていることはないでしょうか。神様は私たちがばたばたとすることを望んでいるのではありません。むしろ、「私のことをもっと知ってほしい」と思っておられるのです。
知って生きるとはどういう意味があるのでしょうか。もちろん、私たちは、神とはどういう方であるかということを知る必要があります。日本人は、信仰する神がどういう神であるかということよりも、信じるという心が大切だと考える人が多いようです。信仰心が大切だと言います。しかし、本当にそうでしょうか。日本には山や、木や、石などいろいろなものが神として礼拝されていますが、それは、そこに宿っている神の霊を恐れているからです。神を怒らせて、何か悪いことが自分の生活に起きてはいけないから礼拝をしています。すまり、神のたたりに縛られている信仰です。しかし、聖書の神はまったく違います。今読んでいるエペソ人への手紙の1章に書かれていることは、この世界を造られた神様は、計画を持っておられること、その神様の計画の中で、私たち、今ここに集まっている人は神様から選ばれたものであること、そして神を信じて生きる者には天にあるすべての霊的祝福を受けること、そして、この世で人生を終えると、天国に移されて永遠に神とともに栄光の中で暮らすことなどが約束されています。聖書が語っているのは、そのように、たたりを恐れる神ではなく、私たちにすべての良いものを与えようと考えておられる神であり、私たちを本当に大切に見てくださる神なのです。その神の姿を私たちがよく理解できるようにと、神であるのに私たちと同じ姿を取って、この世に来てくださったのが御子イエス・キリストです。
「神を知る」この「知る」という言葉はさらに深い意味があります。旧約聖書では、「知る」という言葉を夫と妻が肉体の関係を持って一つになることを意味する場合に使われています。アダムはエバを知ったとは、アダムはエバと一つの肉体になったことを意味しています。肉体が一つになるということは、人間が経験する最も深い関係であって、そこにはただ肉体の行い以上に、二人の心と精神が愛によって結ばれているということが前提になっています。私たちが神を知るのは、単に神についての知識を持つことだけではありません。結婚した夫婦は、ふつうは、同じ家に住み、同じ時間に食事をし、生活を一緒にしています。そのような生活を通して、さらに相手のことがよく分かって来ます。結婚前に、つきあっている間には隠すことができた欠点も、生活を共にするとすべてが相手に分かってしまいます。そのように、相手の良いところも悪いところも全部分かるのは、生活を一緒にしているからです。夫婦の場合は一緒に時間を過ごしていろいろ話をすることによって相手のことを知るようになります。神様を知る場合も同じです。一緒に時間を過ごし神様と話すことがないと神様のことは分かりません。今のクリスチャンにとって神と話をすることとは、聖書を読むことであり、お祈りをすることです。聖書には神様がどういう方で、何を考え、何を願っているかということが書かれています。聖書を読むのは、神様がどう考え、どう感じているのかを知るためです。聖書を読む時に、神様に祈りつつ読むのが良いでしょう。「神様、今日、私にあなたが語りたいことは何ですか。」という祈りです。聖書は、客観的な事柄として読むこともありますが、第一には自分に神様が語り掛けている言葉として読むことが大切なのです。旧約聖書の時代には、まだ、聖書もなく主イエス・キリストもおられませんでした。ですから、神様が、必要な時に、選ばれた人にメッセージを伝えていました。しかし、今、私たちには聖書があります。今も、神様は私たちに語り掛けておられますが、ほとんどの場合は、聖書に書かれたメッセージを通して私たちに語りかけられます。ですから、そのような神の語り掛けとして読むことが大切です。
(2)心の目が開かれる
さらに続けてエペソの教会のクリスチャンのために祈っています。18節から19節に掛けて書かれています。心の目が開かれるようにという祈りです。私たちが神を知るようになると、心の目が開かれます。そして心の目が開かれる時に見えるものがあるのです。ここでパウロは3つのものについて語っています。まず、18節にあるように、希望です。「神の召しによって与えられる希望」です。クリスチャンが持つことのできる希望は、将来は良くなるだろうというようなぼんやりした感じではありません。クリスチャンになるように召された時に示された確かな希望です。ローマ人への手紙8章30節には「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と書かれています。この栄光をお与えになったということは、私たちが、将来、復活されたキリストと同じように栄光に輝いた者になるということであって、私たちはやがて、自分の罪やこの世の悪から完全に解放されて、天国において栄光に輝いた人生を送るようになることを述べているのです。これは、この世の終わりにキリストが再びこの世に来られる時に実現することなのですが、30節の言葉では未来のことにもかかわらず、栄光をお与えになったと過去形が使われています。それは、その栄光に輝くことが絶対に確実なことだからです。私たちは、自分の人生は最終的に必ず栄光に満ちたものになるという確実な希望を持っているのです。
18節の終わりに「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」という言葉が書かれています。パウロはこの手紙の中で「富んでいる」という言葉を繰り返し使っています。これは将来の希望が確実であることと同時に、パウロは繰り返して、クリスチャンが将来受けるべき祝福は非常に富んだもの、豊かなものであることを述べているのです。そして三番目に19節で、パウロは「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」と言いました。将来の希望が確実であることも、また、将来私たちが受ける祝福が豊かであることも、それは、神様が約束をすべて実行する偉大な力を持っておられる方だからです。その力がもっともはっきりと表れたのは、主イエスの復活に表れました。十字架が神の愛を表すものだとすれば、復活は神の力を表すものです。そして、パウロは、そのような偉大な力は、私たち信じる者に働く力であると述べています。主イエスを十字架の死から復活させた力を神様は私たちのために働かせてくださるのです。パウロは別の手紙でこう言っています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」神様はいつでも神を信じる者の味方です。神の力はつねに働いており消えたり止まったりすることはありません。ですから、そして私たちを守り導いておられます。私たちは、何をも恐れる必要はありません。このような偉大な神の力が私たちのために働いているからです。私たちが集まる教会とは、そのような偉大な神の力が満ちあふれているところです。神様は、私たちのような弱さを持った者たちを集めて、そこに神の力をあふれさせてくださいます。私たちは、人を恐れるのではなく、この偉大な神の力を受けて、この世の生涯を最後まで、教会の仲間たちと励まし合いながら歩んでいくことが、大切なのです。
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