2002礼拝めっせーじ

礼拝説教06/02|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-06-02『現実を変える神の恵み』(エペソ21-7節)
 (1)神から離れて生きる人生

パウロ
は2章1節で「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」と書いています。これはエペソの教会のメンバーに宛てて書かれた手紙ですが、パウロはクリスチャンになる前の彼らは死んでいたとはっきり言っています。この言葉は「あなたがたは死ぬかも知れない」という意味ではありません。「神を信じない人は、今、実際に、死んでいる」という意味で言っているのです。パウロは、犯罪を犯した人や退廃的な生き方をしている一部の人について語っているのではありません。すべての人が、神から離れて生きるならば、その魂は死んだ状態にあると述べています。聖書によると私たち人間は神のかたちに似せて作られています。それは外見ももちろんですが、私たちの心が神と交わることができるように作られているのです。すべての生き物の中で私たち人間だけが神のことを思うことができ、神に祈ることもできます。どんなにすぐれた知能を持っている動物であっても、豊かな感情を持っている動物でも、神に祈ることはしません。そのようには作られていないからです。しかし、そのように作られている人間であっても、神から離れてしまうと死んでしまうのです。どのように死んでしまうのでしょうか。パウロは自分の罪過と罪によって死ぬと言っています。罪過と訳されていることばは「正しい道、進むべき道から離れる」という意味を持つ言葉です。人は神の教えに従うよりも自分の好きな道を進みたい、自分のやりたいことをしたいと願う気持ちがあります。人が自分の好きなことをするのは当たり前だと私たちは考えますが、実は、ここに落とし穴があって、このように自分の考えや感情を第一にして生きていると私たちは自分の考え・感情・欲望に縛られてしまうのです。やってはいけないことだと頭では分かっていてもやめらないことがあります。そんな場合、自分のやりたいように出来ないと自分をコントロールできなくなります。また逆にしなければならないことが分かっているのにそれが出来ない場合もあります。誰かとぶつかってしまった時、自分が一歩譲れば解決するのに、自分のメンツや感情からどうしても一歩が譲れない。人間は本当に不自由な者です。そんな生き方を聖書は「罪」と呼ぶのですが、この言葉は「的をはずす」という意味を持っています。神から離れた人間は的外れな人生を生きるのです。神様は、私たちを完全な人間として作られました。神様は私たちをご自身の栄光のために作られたとイザヤ書に書かれています。ですから、本来、私たちは、神様の栄光となるように生きるべきなのですが、自己中心な生き方をしているために神様の栄光を受けられなくなっています。聖書は、私たち人間が直面する問題はこの罪であると断言しています。それが問題の根にあるのです。

から離れて罪の中に生きる人間を支配するものをパウロは3つ挙げています。第一に2節で神から離れた人間は「この世の流れに従い」と述べています。この世とは、私たちが住んでいる世界のことですが、私たちはこの世の価値観、考え方、またこの世の人々の評判に左右されて生きています。私たちは周りの人々と比べて生きることが多いですね。今はどうか分かりませんが、昔、団地で、一つの家がピアノを買えば、みんなピアノを買うようなことがありました。また、最初に日産のサニーが出た時に、たしか1000CCだったと思いますが、その直ぐ後にトヨタがカローラを作って1100CC、100cc大きなエンジンで作りました。そして宣伝の言葉が「となりの車が小さく見えます」という言葉でした。この世の流れに縛られている人間の心に訴える言葉です。私たちはまた、周りの人々の評判を気にします。名声を得たいと思います。でもフランシス・ベーコンという人は名声ということについてこんなことを言っています。「人の評判は川みたいなものだ。軽いものふくれあがったものを浮かび上がらせて、重みのあるもの、堅いものを沈めてしまう。」この世の流れに従って生きることはむなしいもので、本当の意味での自分の人生ではなく、いつも他人を意識した人生を生きることになります。

二つ目は
3節に書かれているように「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なう」生き方です。聖書で「肉」という言葉が使われる時は、生まれた時から私たちが持っているすべての性質を意味します。それは自己中心の心であり、私たちはその性質に縛られています。その肉の性質はちょうど風のウィルスのようなものです。風のウィルスが体の中に入ると様々な症状が現れます。頭が痛くなったり、のどが痛くなったり、熱や籍がでます。私たちは、薬を飲んで風邪を治そうとしますが、普通、私たちは頭が痛いときは頭痛薬を飲み、咳がでると咳止めを飲み、熱が高くなると解熱剤を飲みます。薬を飲むとその症状はしばらく消えますが、ウィルスが残っていると、また同じ症状が現れます。一番良いのはウィルスを殺すことです。肉の性質も同じです。それが心の中にあるために、私たちの態度が怒りや、ねたみや憎しみなど、いろいろなすがたで現れます。私たちは、そのような表に現れた自分の態度を変えようとしますが、それは一時的に収まっても、また現れて来ます。心の奥底に肉の性質があるからです。

主イエス・キリスト

は、3つ目はパウロが2節で「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」と呼んでいるものです。聖書はこの霊をサタンとも呼んでいます。神は霊的なお方です。肉の目では見えません。しかし、この世を支配している別の霊があります。悪霊です。このギリシャ語は「支配する者」という意味を持っています。人の心を縛る悪霊が確かに存在します。今も、人間は占いが好きです。困った時、迷った時、霊媒師のところに行ったりします。聖書は霊には2種類あることを教えています。それは、神と、それ以外のすべての霊です。神以外のすべての霊は悪霊です。人を恐怖で縛るものです。先祖のたたりやのろい、占い師の言葉に縛られている日本人が多いです。それらはすべて悪霊の働きです。しかし、神を知る時、私たちは不思議な喜びと平安を感じます。それは、神の霊は愛と慎みの霊だからです。このように人間は外からはこの世の価値観や人の評判にしばられ、内側からは自己中心の性質、つまり肉の性質に縛られ、また自分の力を越える悪霊の働きによって縛られています。これが私たちが直面している暗い現実、神から離れた人間の現実です。

ペンテコステ

の日に起きた出来事は旧約聖書に預言されていたことだと説明しました。ペテロは旧約聖書の中のヨエルという預言者が800年前に預言した言葉を引用しました。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(2章28-29節)ここで、ヨエルは「その後」と言っていますが、預言者である彼は、後の日に、旧約の時代とは違った時代が来ることを見ていました。旧約の時代は神が、選ばれた特別の人々にだけメッセージや幻を与えていました。しかし、終わりの時代には、全ての人に神の霊が注がれることが約束されています。それは男性にも女性にも与えられ、若い人にも年老いた人にも与えられます。そして聖霊を受けた人々は神からメッセージを受け、また幻、ビジョンを受けると書かれています。この預言のことを主イエスは十字架にかかる前に弟子たちに約束されました。助け主が与えられることを約束されました。主イエスは、その助け主が聖霊であり、聖霊が私たちのために様々な助けを与えると言われました。ヨハネの福音書14章で次のように言っておられます。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」私たちは、この世界で物質的な考え方で生きていますので、なかなか霊的なことを理解することができません。すべては科学が説明すると考えているからです。ところが、科学は、何かが起きるその現象を説明することができても、その現象にはどんな意味があるのかということは教えてくれません。どんなに科学が発達しても、私たちの心の悩みが消えることがないのはそのためです。科学は人間の体の仕組み、どのように生まれ、どのように成長し、どのように年を取り、死を迎えるのかという説明はできます。しかし、人がなぜ生きているのか、生きる意味は何かという問題には答えることができません。しかし、聖霊は、私たちに必要なことを教え、また、主イエスが語られた言葉の意味をはっきりと理解できるように導いてくれます。私たちが、本当に知らなければならない問題の答えを教えてくれるのです。

(2)暗い現実を変える神の恵み
今の

世界は本当に暗い世界です。アメリカでテロが起こり、アフガン戦争が起こりました。パレスチナでも紛争が続いていて終わりそうにありません。さらに、パキスタンとインドが戦争を起こすかも知れないような危険な状態になっています。しかも生活面でも厳しい現実があります。そして何よりも、私たち一人一人の人間は神から離れていると、いろいろなものに縛られて生きなければなりません。このような私たちに希望があるのでしょうか。あるのです。聖書の中に福音書というのがありますが、この「福音」という言葉は良いニュースという意味です。私たちの現実は暗いのですが、そこに希望の良いニュースがある、これが福音の意味です。4節に「しかし、あわれみ豊かな神は」と書かれています。聖書の中の「しかし」はほとんどの場合、現実は暗いけれど希望があるという悪い方から良い方へ移る「しかし」です。聖書によれば、私たち人間は元々良いものとして神様によって造られました。ところが、罪に陥ってしまったために、罪に縛られて生きています。だから、その罪から救い出されるという希望があるのです。この希望は人間の内側にあるのではありません。人はどんなに努力しても自分を変えることはできません。しかし、私たちを造られた神は「憐れみ豊かな神」です。私たち人間が罪に陥って、神に背を向けて生きていても、決して私たちを見捨てることはないのです。最初に言ったように「私たちは神の栄光のために」造られました。私たちのことを神様は心から喜んでくださったのです。しかし、人間は神を無視して自分の考え欲望に従って生きています。神に逆らって生きています。私たちは神を裏切ったのです。私たちは誰かに裏切られると、赦すことができません。しかし、憐れみ豊かな神は、私たち人間を滅ぼすこともできたのに、滅ぼすことをせず、罪から救い出す道を開いてくださいました。それがイエス・キリストの十字架なのです。最初の人間アダムとエバが神の決まりを破った直後から神様は人間を罪から救い出す方法を計画し、忍耐して準備をしそして今から焼く2000年前に主イエスを十字架にかけることによって、私たちのために希望の道を開いてくださったのです。神様がなぜ私たちに救いの道を開いてくださったのでしょうか。それはすべて、神様の豊かな憐れみによるのであり、また、私たちに対する大きな愛であり、神様の恵みであり、7節には慈愛であるとパウロは述べています。つまり神様は私たちに良いものを与えたいと思ってくださったからです。ベートーベンのピアノ曲の中に「月光の曲」という有名なものがあります。暗闇に月の光が輝く様子が見事に表されています。この曲はベートーベンが一人の盲目の女性に与えるために作られた曲です。この女性には月の光の美しさが見えません。月の光を受けて銀色に輝く湖の美しさも、夜空に広がる白い光も見えませんが、そんな彼女にベートーベンは音楽でその美しさを伝えました。彼女にその美しさを知ってもらうために彼は自分の才能を全部使い果たしました。神様は私たちを愛しておられ、私たちに霊的に死んだ状態から解放されるための道を開いてくださいました。

本当

ならば私たちが受けなければならない罪の罰を身代わりとなって十字架で受けてくださったことで主イエスは、私たちに対するご自身の愛をはっきりと表してくださったのです。神様が罪の束縛からどのような恵みへと変えてくださったのでしょうか。それはまず、霊的に死んだ私たちをキリストともに生きる者に変えてくださいました。神から離れて生きていた私たちは死んだ者であり、裁きを受けなければならない者でした。しかし、私たちはイエス・キリストを信じる時に、その状態から救い出されました。私たちは救い出されるために良い人間になる必要はありませんでした。神様はそのままの私たちを受け入れてくださいました。それは主イエス・キリストが私たちの代わりに罰を受けてくださったからです。キリストとともに生きるいのちは滅びに向かって生きるいのちではなく、永遠の世界に向かって行くいのちです。6節を見ると、神様は私たちをキリストにあって、ともに天の御座に着かせてくださいました。「座に着く」というのは何かを完成したことを表します。戦いに勝利を得た者がチャンピオンの座に着きます。私たちは、キリストを信じる者として、キリストとともに天の御座に着くことが許されています。私たちはこの世を生きる時に、キリストとともに生きることができます。祈りや聖書の言葉を通してキリストの力、キリストの愛、キリストの慰めを受けることができます。しかし、それだけではなく神様は、キリストを信じる者を天の御座に招いてくださったのです。私たちは、過去にどんな人生を歩んでいたとしても、神様の恵みによって新しいいのち、天の御座に招かれる人生を歩むことが許されています。あなたは神様の招きにどのように答えるでしょうか。
 

 


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