2002礼拝めっせーじ

礼拝説教06/09|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-06-09『神の恵みによる救い』(エペソ28-10節)
 (1)人間の現実

聖書は、
私たち一人一人の人間は神様に造られた者であると教えています。しかも、神様が最初の人間を造られた時に、神様はその人間を見て非常に満足されました。私たちは神に似せて造られています。ということは、私たちは、本来、神様のように愛に満ちた立派な人間になるはずでした。しかし、私たちが神様から離れて自分の気持ち、自分の考えを第一にして生きるようになったために、他の人を困らせ、他の人を傷つけ、また自分自身も悩む者になってしまいました。そのような状態を聖書は罪と呼びます。それは本来私たちが生きる姿とは違います。的をはずした人生です。罪を持った人間は神の裁きを受けなければなりません。イエス・キリストは救い主と呼ばれますが、いったい、私たちを何から救い出してくれるのでしょうか。主イエス・キリストは罪ののろい、罪の支配から救い出して、私たちに本当の自由や喜びを与えてくれます。これを救いと言うのです。イエス・キリストを信じる目的は何でしょうか。それは救われることです。私たちがこの世界でどんなに成功しても、どんなに出世しても、人々から賞賛されても、神から離れて生きるならば、私たちは罪の中に死んでいるのです。永遠のさばきが待っています。私たちは皆罪人です。聖書は人間の中に義人一人もいないとはっきりと断言しています。イエス・キリストへの信仰はまずこの事実をはっきりと認めることが必要です。イエス・キリストを信じない人は、霊的に死んでいます。そして肉体が死んだ後には神のさばきを受けなければなりません。 

このように
言うとクリスチャンは傲慢である。他人を裁くとは何事かとおしかりを受けることが多いです。しかし、私は自分が正しい人間だから言うのではありません。自分も罪に死んでいた者ですから。エペソ人への手紙を書いたパウロも同じでした。彼はクリスチャンになる前は熱狂的なユダヤ教徒でした。彼はクリスチャンを迫害することに燃えていたのですが、神様の不思議な働きによって、彼は突然クリスチャンになりました。過去に自分がしてきたことを知っているパウロにとって、自分の罪が赦されて救われていることはただ、神様が一方的に与えてくれた恵みであることが痛いほど分かっていたのです。自分が受けた救いを一人でも多くの人に知ってもらいたくて、彼は自分の生活を捧げて世界で最初の宣教師になったのです。あなたは、自分の友達が道を歩いているときに、その人が向かっている所に、例えば、大きな穴があいていたら、黙っているでしょうか。その人が歩き続けたらその穴に落ちることが分かっている場合、黙っているでしょうか。特に、あなたがその人を本当に愛しているとすれば、黙ったままでいられるでしょうか。必ず「あぶない。止まれ!」と叫ぶはずです。穴に落ちることが分かっているからです。教会で、クリスチャンがイエス・キリストを信じてほしいと願うのは、イエス・キリストを信じない者は霊的に死んでおり、肉体が死んだら永遠の神の裁きを受けなければならないことを確信しているからなのです。信じる、信じないは、一人一人が決断することではありますが、私は、特に、今日、まだクリスチャンでない人々に本当に救いを受けてほしいと願っています。 

ほとんどの
日本人は絶対的な存在者としての神を信じていません。神道では、死んだ人間が神として祀られています。日本人の神は普通の人間と比べて少し強く、大きい方ぐらいの存在であって、天と地を造られた、全能の神ではありません。だから、自分の罪のこともいつも他の罪人である人間と比べて考えるので、「自分はそんなに悪い人間じゃない」と考えるのです。確かに、私たち人間の間では、他の人よりも正しい人、他の人よりも悪い人がいます。私たちはいつも他の人と比べて生きています。しかし、神様の前に立つとき、すべての人間は罪人なのです。一つのたとえで話しましょう。飛行機にオリンピックの水泳選手と、普通に泳げる人と、まったく泳げない人と3人が乗っていたとしましょう。その飛行機が太平洋の真ん中に墜落してしまいました。3人はアメリカ大陸に向かって泳ぎ出します。全く泳げない人は1分後には海に沈みます。普通に泳げる人は1時間ぐらい泳いで力つきてしまうでしょう。オリンピックの選手は日頃から鍛えていますから、24時間泳いで100キロぐらい泳ぐかも知れません。さすがオリンピックの選手です。しかし、彼がアメリカにたどり着く前に、彼は確実に力つきてしまいます。このように私たちの間ではどんなに正しいと思える人でも、神の正しさの基準には全く届かないのです。

(2)神の恵みによる救い
パウロ

は2章8―9節で「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と述べています。救いは私たちがどんなことをしても、自分の行いによって手に入れることは絶対にできません。救いは人間の働きではなく神様の働きです。私たちはクリスチャンになったのではなく、クリスチャンにしてもらったのです。自分が一生懸命努力したから救われるのではありません。立派なことを行ったから救われるのでもありません。自分が大きな決心をしたから救われるのでもないのです。救いの出発点は神様です。神様がまず私たちを選んでくださいました。そして、いろいろな方法で私たちを教会に導き、救いへ導いてくださったのです。イエス・キリストが神の子として働いていた時に、最も厳しく批判されたのはユダヤ教の一つのグループであったパリサイ人と呼ばれる人々でした。彼らは宗教的な熱心さや人間的な熱心さから、旧約聖書の教えを守ることに必死になって生活していました。ある時一人のパリサイ人が神殿に行って非常に立派なお祈りを捧げました。ルカの福音書18章11-12節に書かれています。「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』私は、こんなに立派なことをいろいろとやっていますと、自分の生活を自慢しています。その時、彼の隣に取税人が立っていました。取税人はいつも不正をして人々を苦しめて自分は裕福になっていました。この取税人は自分がしてきたことがどんなに悪いことか分かっていたので、まともに天に顔を向けることもできず、うつむいたまま『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』とだけ祈りました。この様子を見ていたイエス・キリストは弟子たちに言われました。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」神以外のものを誇りに思うことが神の目には罪なのです。私たちは、まず、自分が何をしても自分の力で神から救いを得ることはできないことを知らなければなりません。


私たち

が自分の行いで救われることができないとすれば、私たちはどのようにして救われるのでしょうか。パウロは「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」と言っています。「恵み」とは何を意味するのでしょうか。恵みとは、神様の私たちに対する暖かい心を意味します。特に、私たちの罪を赦す暖かい心を意味します。神様は私たちが罪の束縛から救い出されて新しく生きることを心から願っておられるのです。それで、私たちが本当は受けなければならない刑罰を自分のひとり子であるイエス・キリストに負わせたのです。私たちに何も要求しないで、全くただで(無償で)救いを与えたいと思われたのです。それは私たちに対する神の愛なのです。神様は私たちの必要を満たしたい、私たちに救いを与えたいと願ってくださいます。なんと素晴らしい神でしょうか。以前、フィリピンに一人の貧しい農夫がいました。彼は水牛を買うために一生懸命働いて少しずつお金をためていました。いよいよ水牛を買えるほどの貯金がたまったので水牛を飼いに出かけました。ところがこの老人はフィリピンのお金が新しいものに変わっていて、その老人が水牛を買おうとしたときには古いお札は使えなくなっていました。彼が一生働いて貯めたお金は紙切れになってしまったのです。この老人は近所の人に助けてもらって大統領に手紙を出しました。すると大統領から返事が来ました。「古い紙幣を交換する期間はもう終わりました。政府としてはあなたの古い紙幣を新しいものに交換することはできません。また大統領としても、交換することはできません。」と書いてありました。しかし、その手紙にはまだ続きがありました。「しかし、私はあなたがどれほど一生懸命働いて来られたかよく分かります。私は大統領としてではなく、一人の人間として自分の貯金からお金を引き出してあなたの古いお札を交換したいと思います。それで水牛が買えるように祈っています。」と書かれていたそうです。大統領には、その老人のお金を交換する義務はありませんでしたが、その老人を助けたくて自分のお金を老人の使えないお札と交換したのでした。これは老人に対する大統領の恵みです。神様は私たちを救い出したいと思ってくださって、その暖かい心から御子イエス・キリストを十字架にかけて私たちの代わりに罪の罰を負わせたのです。私たちは救いを要求する資格はないのですが、神様が私たちに救いを与えたいと願ってくださったので、救いの道が開かれているのです。

(3)信仰による救い
神様の恵み

のゆえに、救いの道が備えられました。しかし、それを自分のものにするには信仰が必要です。信仰がなければ、神様の恵みも救いも私たちに与えられません。では、信仰とは何でしょうか。単に、神様のことを知識と知っていることではありません。信仰には聖書に書かれていることが本当であると受け入れることに加えて、その神を信頼して生きる決心をすることです。本当の信仰とは信じることと信頼することです。かつてフランスにブロンディンという名前の有名なアクロバット師がいました。彼は綱渡りが得意で、何度もナイアガラの滝のうえにロープを張ってその上をわたった男です。ロンドンには彼の名前を付けた通りがあるそうです。ある時彼は一人の男をおんぶしてロープをわたりました。渡り終わると近くにいた人に彼は質問しました。「あなたをおんぶしてもう一度ロープをわたることが私にできると思いますか」と尋ねました。するとその人は「あなただったらできるでしょう」と断言しました。するとブロンディンが「じゃあ、やりましょう。さあ私の背中につかまってください。」と答えました。するとさっきの人が「お断りだ。まだ死にたくないから」と答えたとのことです。この人は本当にブロンディンを信仰していたわけではありませんでした。私もブロンディンの背中には乗らないと思います。しかし、イエス・キリストとブロンディンは全く異なります。イエス・キリストは約束されたことを絶対に破ることはありません。私たちが霊的に死んだ状態からいのちに移されるために必要なことはたった一つだけです。イエス・キリストを信じること、そして主イエスを信頼して生きて行くことです。救われるために、私たちが信頼するのは自分自身ではありません。ただ主イエス・キリストだけです。あなたは、主イエスが与えようとしている永遠の救いを受け取りませんか。主イエスを信頼して生きて行きませんか。聖書は約束しています。「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。」


 


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