2002礼拝めっせーじ

礼拝説教06/16|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-06-16『神と和解して生きる』(エペソ211-18節)
 (イントロ)

今は、
どこに行っても話題はワールドカップのことばかりです。ワールドカップが始まってから、突然サッカーファンが増えました。私の父も病気で倒れたのに、「サッカーはどうなった?」と質問していました。ワールドカップのように国と国との試合になると、当然のことですが、誰でも自分の国のチームを応援します。そして相手の国が負けることを願います。そういうわけで、試合の後はサポーター同士で乱闘になったり、最悪の場合には戦争になったこともあるそうです。誰もが自分の国が一番だと考えます。自分の国を愛するのは良いのですが、それは裏返すと自分以外の国を憎んだり、低く見る態度を意味します。聖書が教える罪とは簡単に言えば自己中心の態度ですが、私たちはいつも、自分と他の人を比べて、その違いをはっきりさせようとしたり、その違いを自慢したりする心があります。私たちは、建前としては、人間は皆平等であると言いますが、心の底では他の人よりも自分の方が偉い、価値があると考えたいのです。その自己中心の心が、国同士の争いの場合には自分の国が一番という考えになるのです。このような態度を一番強く持っている国民はユダヤ人です。ユダヤ人は自分たちと外国人をはっきり区別していました。ユダヤ人にとって、外国人は犬と同じような存在で、彼らは外国人は地獄の火を燃やし続ける燃料になるために造られた人間だと信じていたそうです。

パウロ
はエペソ教会に書き送った手紙の2章の最初の部分で、人間の救いについて述べています。人間は皆、罪人でしたが、イエス・キリストの十字架によって罪が赦される救いの道が開かれました。罪が赦されるのに必要なことはただ主イエスを信じる信仰だけで、行いによるのではないとパウロははっきり述べています。このように、救いにおいてはユダヤ人と外国人の区別はありません。私たちは、自分たちの間でランクをつけたがる傾向があります。しかし、神の前では、ユダヤ人とギリシャ人、奴隷と自由人、男と女、そのような区別はいっさいないのです。信仰を持つ前の生活がどんな生活であっても、それは関係ありません。だれも引け目を感じる必要はありませんし、また誰も自分のことを誇ることも許されていません。

ところで、
11節からはパウロは特にユダヤ人以外の人々、聖書では「異邦人」と呼んでいますが、この異邦人の救いについてくわしく教えています。それはエペソという都市がギリシャに近い場所にあって、救われてクリスチャンになった人々のほとんどがユダヤ人ではない異邦人だったからだと思います。神の前にはユダヤ人も異邦人も罪人であることに違いはないのですが、異邦人は、ある意味で、ユダヤ人よりもさらに神から遠く離れた存在であったと言えます。私たちも異邦人の一人です。神から遠く離れていました。パウロはイエス・キリストを信じる前の私たちの姿、以前神から遠く離れていた姿を描いています。その姿を本当に知るとき、今、救われていることがどんなに素晴らしいかがよく分かるからです。

(1)神から遠く離れていた私たち
パウロは神から離れている人間の姿を5つの姿で描いています。「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」
第一に

私たちはキリストから離れていました。キリストとは救い主です。神から離れている人は救い主がもたらす約束を受けることが出来ません。第二に「イスラエルの国から除外され」とあります。神から離れた人は神の御国に入ることができません。国籍を持たないということは大変なことです。もし、私たちが国籍を持たないならば、私たちはその国に住むことが許されませんし、国民が受ける権利ももらうことができません。先日、北京の韓国大使館で北朝鮮の人が二人亡命を求めて逃げ込みましたが、一人は中国の警察に連れ去られました。二人は韓国で暮らしたいと強く願ったのですが、韓国の国籍がありませんから中国政府が認めないのです。その他、国籍がないと生活の様々な面が困難になります。国籍を持っていることは当たり前のように私たちは考えますが、それは非常に素晴らしい特権なのです。第三に私たちは神様の約束の契約から離れていました。創世記の時代、神様は最初のイスラエルの民であるアブラハムと契約を結び様々な祝福を約束してくださいました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と神はアブラハムに約束されました。天と地にあるすべてのものをお造りになった全能の神から直接に祝福を約束されたアブラハムはどれほど心強かったことでしょう。第四に私たちは「この世にあって望みのない者たち」でした。そして第五は「神を持たない人」です。神を持たない人にとっては、すべてが偶然で自分が生きていることに目的も意味もありません。また、自分の将来がどのようになるのか、人間の歴史がどうなるのか分からず、そこには希望がありません。主イエスの時代には、多くの人が自殺したそうです。希望を持つことができなかったからです。死に対する解決がなかったからです。当時のローマの詩人が次のような詩を書きました。「太陽は沈むがまた昇ることができる。しかし、私のいのちの短い光は一度沈むと、その後は永遠の夜が続き、私はいつまでも眠らなければならない。」私たちも同じです。イエス・キリストを信じる前は、私たちは希望がなく、安心感も持つことが出来ず、将来のことも分からずに漠然と不安を抱いていました。しかし、そのような神から遠く離れていた者たちが、神に近づけられました。イエス・キリストが、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださったからです。

(2)キリストの血によって神に近づく
神から

遠く離れていた私たちに希望が与えられました。13節を読みましょう。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」聖書の教えは、神を信じる信者と神を信じない未信者をはっきり区別しています。それは白と黒の違いですが、教会に通っていれば黒からだんだん灰色になってそのうちに白くなるというのではありません。教会に通う人の中に「もう少し良い人間になった時に神を信じます」と言う人がいますが、クリスチャンとは良い行いをするようになった人ではありません。そのことは13節の言葉がはっきりを示しています。13節の終わりの所に「キリストの血によって近い者とされたのです」という言葉が書かれています。クリスチャンというのは、以前は神から遠く離れていたのに、神に近づけてもらった人のことです。つまり、クリスチャンになるとは、行いがどうなっているかということではなく、神様に近づいているかどうかが大切なのです。私たちはどのようにして神に近づくことができるのでしょうか。ただキリストの血によって私たちは神に近い者にしてもらうことができます。自己中心で心が汚れた私たちは絶対的にきよい神様に近づくことはできません。しかし、イエスの弟子ヨハネの手紙に教えられていることは「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」ということです。私たちは自分の行いを良くたり自分の性格を良くしたりすることで神に近づけるのではないのです。自分からは近づけません。ただ、主イエスの十字架は私の罪を赦すためであったということを信じる人は、その信仰によって神に近い者にしてもらうことができるのです。神は、神を信じる人を罪人のままで受け入れてくださるからです。キリストの罪はどんな人の罪をも清めることができます。あなたも、キリストの十字架が自分のためであったことを信じる時に、そのままで神に近い者にされ、神に受け入れられます。

(3)神と和解をしてくださるキリスト
イエス・
キリスト

が来られるまで、ユダヤ人と異邦人は互いに敵対していました。ユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた特別な民であると主張し、律法を与えられていることを誇りにしていました。彼らは律法を知らない異邦人は道徳的に程度の低い人間だと軽蔑していました。一方、異邦人は傲慢なユダヤ人に対して憎しみを抱いていました。しかしユダヤ人、異邦人だけに限らず、人間はいつも自分が正しく、他の人間が悪いと考えますから、自分と他人の間に壁を作ってしまいます。聖書は、この壁が崩れるためには、まず一人一人の人間が神との和解を経験しなければならないと教えています。2章14節に「「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」と書かれています。キリストこそが私たちの平和です。キリストはただ平和を作り出す方であるだけでなく、平和そのものになってくださったのです。そして二つのものを一つにして、隔ての壁を打ち壊してくださいました。人間の世界では、ユダヤ人と異邦人の間に壁がありましたが、ユダヤ人も異邦人もともに罪を持っているために、神との間に超えることのできない壁がありました。例えば、Aという人がBという人から金を借りたのに返さなかったら二人の間にトラブルが起きます。二人の間のトラブルを解決するためには、間に入った人がAさんに金を返すように指示をして解決をします。しかし、人間と神との間の壁は人間の力ではどうしてもうち砕くことができません。それで、神であるイエス・キリストが自分自身を犠牲にすることによってその壁をうち砕いてくださいました。そのことを通してユダヤ人も異邦人も、罪の赦しを受けて救われる道を開いてくださいました。罪の赦しと救いに関しては、いっさいの差別はありません。パウロはガラテヤ人への手紙の中でこう言っています。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」イエス・キリストの十字架は、この世界にあるあらゆる隔ての壁をくだいて私たちを救いに導き入れてくださいました。ですから教会の中にはいっさいの隔ての壁があってはならないのです。主イエスは15節に書かれているように「二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現しました。」ユダヤ人と異邦人だけに限らず、人間同士の間に人間が作り出した壁をなくして、今までとは違う新しい一人の人を作り上げてくださるのです。その新しい一人のひとこそ、主イエスの救いを受けた人々の集まりである教会です。平和運動は世界中にあります。しかし、平和運動をする人の間で争いが起きたりします。日本では原子爆弾と水素爆弾の廃絶を求めて原水爆禁止運動が広がりましたが、その運動も途中で分裂してしまいました。アメリカでは1986年に平和の行進運動というのがロサンゼルスからスタートしたのですが、その行進が出発してしばらくして、行進をするときの服装で意見が分かれて途中でストップしたそうです。しかも行進をする間も意見が分かれた人々はものも言わずに行進したそうですが、これでは平和の行進とは言えません。そのように人間の力で平和を作り出すことは不可能です。聖書はまず、私たちがキリストによって神との間の平和を作り出してもらうことが必要であることを強調しています。私は1976年にカナダのモントリオールでオリンピックが行われた時に、世界中のクリスチャンがモントリオールに集まって伝道をするプログラムがあったので参加しました。50以上の国から1500人の若者が集まりました。1500人は二つのグループに分けられました。一つのグループが町中のいろいろな場所に伝道にでかけている間、もう一つのグループは聖書の学びをしました。ある日聖書の学びをしている時に、説教者が「赦す」というテーマで説教をした後で、私たちに「赦し」を実行するようにチャレンジを与えました。「今、心の中で、憎しみを抱いている人がいるなら、その人を赦しなさい。」1976年にエジプトとイスラエルの間に戦争があったのですが、この二つの国からもクリスチャンが来ていました。自然に、彼らは立ち上がって近づき互いに赦しを求めました。そして互いに抱き合って許し合ったのです。私はその姿を見て感動しました。どんな憎しみもキリストによって乗り越えられることをこの目で見たのです。

私たち

は、自分の立場、自分の考えにこだわることが多くて、相手に譲ることがなかなかできません。しかし、私たちがキリストに近づく時に自分の本当の姿が見えてきます。キリストは罪に汚れた私を神に近づけるために自分が犠牲を払ってくださいました。神と私たちの間の平和になってくださったのです。キリストの前に立つとき、私たちは自分が自我の固まりで罪人であることを知ります。その時、自分の中の不必要なこだわりを捨てることができるのです。私たちはキリストによって新しい人に作り替えられていくからです。


 

 


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