2002礼拝めっせーじ

礼拝説教07/07|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-07-07『神と和解して生きる』(マラキ3章7-15節)
 (イントロ)

最近、
教会に来るようになった方にとって、「神を信じる」ということがどういうことなのかはっきり知りたいと思っておられると思います。私たちは、毎週、礼拝の中で「使徒信条」を告白しています。「我は、天地の造り主、全能の神を信ず」と「信じる」という言葉を繰り返して使っています。ところで、「信じる」という言葉には2つの意味があります。日本語で「〜を信じる」と言う場合、たとえば「幽霊を信じる」とか「占いを信じる」のように、あることを真実だと考えて疑わないことを意味します。多くの場合、「信じる」という行為は証拠のない非科学的なものであると低く見られます。ですから、「神を信じる」ということも低く見られることが多いのです。しかし、キリスト教で「神を信じる」という場合は、ただ単に、神様が存在することを疑わないとか、神様の言うことは真実であるということだけを意味するのではありません。使徒信条はもともとラテン語なのですが、ラテン語で「信じる」は「クレドー」と言います。クレドーから英語のクレジットという言葉が生まれました。クレジットカードのクレジットとは「信用する」「信頼する」「お金を貸す」という意味があります。それは誰かにお金を貸すのは、その人を信用し、信頼しているからなのです。ですから、聖書の神を信じるというのは、ただ「神を信じる」だけではなく、「神に信頼して生きる」という意味があるのです。

続いて、
信仰ということを考えてみましょう。日本人は、信仰は弱い人が持つものであり、理性を持っている人には信仰はできないと考える傾向があります。それは、日本人にとって信仰がよく考えて信じることではなく、思い込んで信じることだからです。「いわしの頭も信心から」という言葉が表しているように、何を信じるかよりも、ひたすら信じて生きることが良いのだと考えるのです。これは、人間から信仰の対象に対する一方的な思い入れなのです。ガンの患者さんは、「この水を飲んだらガンが治るよ」と言われると、その水に力があると思って高いお金を出して買います。その水にいやしの力があってほしいという一方的な思い入れがあるからです。水が何かを語りかけているわけではありません。ただ一方的に水にすがっているのです。ところがキリスト教の信仰はまったく違います。信仰は、まず神様の言葉から始まります。聖書は、神様が人間に語りかけてきた歴史を描いている書物です。はじめに神の言葉、神の語りかけがありました。そして、その神の言葉、神の招きに人間が応答すること、これが信仰です。いわしの頭は私たちに何も語りかけてきません。しかし、神は私たちに働きかけてくださり、また語りかけてくださっています。皆さんが、今日、この場所にいるのもけっして偶然ではなく、神様が働きかけた結果です。そして神様が語っておられるのです。神様が私たち一人一人に語りかけておられるのは「私のところに戻ってきなさい。私のところで安らぎを得なさい」という言葉です。聖書は、人間は本来神とともに生きるためにいのちを与えられているのですが、自分勝手な生き方をしたいと願う私たちは神から離れて生きていると語っています。私たちは神から遠く離れているために、本当はもっと喜びに満ちた人生であるはずなのに、いつも悩みや不安や満たされない思いに捕らわれているのです。私たちが神の言葉に応答する信仰とは、神に信頼して神に自分の人生をゆだねて生きることです。日々の生活の中で、神を信頼して生きることです。ですから、聖書の信仰とは、自分が何かを得るための信仰ではなく、神に自分をささげ、自分をゆだねる信仰です。

さて、
今日読んだマラキ書というのは旧約聖書の最後の本です。これはBC450年頃に書かれたものです。当時の中東は激動の時代でした。次々に大きな国が誕生しては滅んで行きました。イスラエルは日本の四国ぐらいの大きさしかない小さな国です。この激動の時代にイスラエルも大きな悲劇を経験しました。彼らは、自分たちは神から選ばれた特別な民であり自分たちの国は特別な国だと思っていても、彼らの国は相変わらず外国人の支配を受け続けていました。神様は彼らの先祖であり英雄でもある偉大な王様ダビデに対して、「あなたの王国は永遠に続く」と約束されました。しかし、マラキの時代、世界の状況を見るとイスラエルが独立できるなんて全く夢のようなことでした。ユダヤ人たちは少しずつ希望を失って行きました。(神様を信じていても自分たちの願いは実現しそうにない。)(本当に神様は自分たちのことを考えてくださるのだろうか。)と疑いの気持ちが生まれてきました。こうなると、人間の心は変わりやすいものです。100年余りが過ぎる間に、彼らは神への信頼を失い、神に対する希望を失って行きました。マラキはそのような時代のユダヤ人たちに向かって神のメッセージを語ったのです。信仰生活を送る時に、時々、神様が遠い存在に思えたり、本当に神がいるのだろうかという疑いの気持ちが起こることがあります。しかし、それは、神が遠くへ離れたのではなく、私たちの心が神から離れ神への信頼や愛が冷めてしまっているからなのです。旧約聖書の民数記23章19節に次のような言葉があります。「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」信仰とは、生活のすべての面で神様の約束に信頼して生きることです。しかし、当時のユダヤ人は神への信頼を失い、彼らの心は神から遠く離れていました。彼らの態度は、現代を生きる私たちクリスチャンにも当てはまるのではないでしょうか。真実な神に対していつも真実な信頼を持ちづけることが大切です。厳粛な思いで、マラキのメッセージに耳を傾けましょう。
神様は、

神から心が離れていたユダヤ人たちに「わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。」と言われました。神を信じる第一歩は神のところへ帰ることです。聖書は、罪をもって生まれた人間は滅びに向かって進んでいると教えています。マラキの時代のユダヤ人たちも以前は神に向かって進んでいたのに、いつの間にか神に背を向けて滅びに向かって進んでいました。彼らがしなければならないことは自分が進んでいく方向を変えることでした。今の私たちも神への信頼を持つためには、方向転換が必要です。人生は道のようなものですが、その途中の状態がどんなに良くても行き着く場所が滅びであれば、その道を進むべきではありません。そこには本当の祝福がありません。私たちが一生懸命生きているのに豊かな祝福を経験できないのは、神から離れて生きているからです。私たちに向かっても神様は「帰ってきなさい」と招いておられます。そして約束も与えてくださいました。「私もあなたのところへ帰ろう」神様が私の人生に入ってくださるのです。神に立ち返る人は、もはや一人で生きているのではなく、神とともに神に導かれて生きるのです。そこに本当の祝福があります。ところが当時のユダヤ人は神の言葉に対してどう答えたでしょうか。「どのようにして、私たちは帰ろうか。」これは「なぜ私たちは神のところへ帰らなければならないのか」と神様に対して文句を言っている言葉です。彼らは自分たちの心が神から離れていることを認めませんでした。自分たちは正しいのだと主張しました。

自分たちは

正しいと主張するユダヤ人に対して神様は「おまえたちは神のものを盗んでいる」と訴えました。そして「十分の一をすべて持ってきなさい。」と命じています。当時のユダヤ人たちは、神を信じて生きていても厳しい生活が続くため、神への信頼を失って行きました。神への信頼がなくなると後は自分しか頼りになりません。彼らは自分のことだけを考えて生きるようになり神様に対して果たすべき責任のこともいい加減にしていました。ユダヤ人が大切に守っている旧約聖書のいろいろな命令は「律法」と呼ばれますが、これはイエスの時代よりも1500年ほど前の指導者モーセを通してユダヤ人に与えられました。律法の一つレビ記の中(27章30節)に「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。」と書かれています。聖書が教えていることは、この地上にあるものはどんなものも私たちのものではありません。私たちのいのちも健康も財産も時間も私たちのものではなく、神様が私たちに預けてくださったものです。私たちは神様から預けてもらったものを神様が喜ぶように管理することが求められるのです。また、神様は、私たちに預けたもののうちの十分の一を要求する権威を持っておられる方です。そして神様は十分の一の捧げものを受けるのにふさわしい方です。そういうわけで、聖書は私たちが預かっているものの十分の一は神様に返すようにと命じているのです。十分の一を捧げることは和自分の生活を神に委ねるしるしです。実際の生活で神様を信頼しているしるしです。その時に、神様の力、神様の愛を体験によって知ることができます。信仰は本を読んだり議論したりして得るものではありません。神様が命じることに、神を信頼して一歩踏み出す時に体験するものです。

私が23歳

の時にカナダのモントリオールでオリンピックが開かれ、その時、クリスチャンの大会があったので参加しました。飛行機でロサンゼルスまで行き、バスでアメリカ大陸を横断しました。3週間、モントリオールで、キリスト教のチラシや聖書を配ったり、人々にキリストのことを話したりしました。この大会には世界中から1500人の若者が参加していましたが、中には参加費を払えない人もいました。ある時に、リーダーが「お金を余分に持っている人が助けてあげよう」とみんなにチャレンジを与えました。私は大会が終わったら1ヶ月アメリカを旅行する予定だったので少し余分にお金を持っていたので、困っている人々に分けてあげたのですが、少しあげすぎて自分の金がかなり少なくなりました。しかし、アメリカでは友達の家に泊まる予定だったので、心配していませんでした。大会が終わってバスでまたアメリカに戻りましたが、アメリカに入る時にまた審査があることを忘れていました。当時はその審査の時にいくらお金を持っているか尋ねられました。バスがアメリカの国境に着いた時、アメリカ人とカナダ人以外は全員おろされました。その審査で私が50ドルぐらいしか持っていないことがわかり、すぐに日本に帰りなさいと言われました。私はアメリカで友達と会う約束をしていましたし、何しろ、飛行機はロサンゼルスからで、私はその時デトロイトにいましたから、どうすることもできませんでした。私は一緒に大会に参加したひどく困ってバスに戻ると、私の前に座っていた婦人が「どうしたのですか」と尋ねました。私が訳を話すと、その婦人が「私に任せなさい」と言って、バスを降りてその審査官と交渉してくれました。その婦人がどう言ったのか分かりませんが、不思議にも私はアメリカを1ヶ月旅行する許可をもらいました。1ヶ月の間、教会で話をするように頼まれてお金をもらったりして、一ヶ月無事にアメリカを旅行して日本に帰ることができました。私が少しお金をあげすぎたことが問題を起こしたのですが、でも、私はこの経験を通して、確かに神様がおられることと神様が私の生活の中にも働いてくださることをはっきりと知ることができました。私たちは自分でできる力の範囲だけで生活をしていると神様の力を本当に体験することはできないと思います。しかし、神様を信頼して信仰の一歩を踏み出す時に、確かに神様は働いてくださいます。

ここで神様は、

十分の一をささげることで神様を試してみなさいとチャレンジしておられるのです。十分の一をささげることは今の私たちにとっても、マラキの時代のユダヤ人たちにとっても簡単なことではありません。神を信頼してはじめてできることです。しかし、ここで神様は十分の一を捧げることを通して試してみなさいと言っています。そして、私たちが神様に持っているものの十分の一を捧げる時に、神様が天の窓を開いてあふれるばかりの祝福を注ぐと約束しておられます。ある時、主イエス・キリストは「何を食べようか何を着ようかと心配しては生けない」と言われました。人生の計画を立てることは大切ですが、私たちは将来のことを心配してそれに心が縛られてしまうことがあります。しかし、神様は私たちが何を必要としているかを知っておられ、それを与えてくださる方です。ここでは、神様は私たちのために天の窓を開いてあふれるほどに祝福を与えてくださると約束しておられます。神様は真実な方です。約束したことを必ず実行される方です。そして喜んで与える人には、ますます豊かに祝福を与えてくださるのです。


ある人が

一人の女の子に箱に入ったチョコレートをあげました。女の子はチョコレートをもらうとどこかに姿を消しました。女の子が戻って来たとき、女の子の唇や手の指にチョコレートがいっぱいついていました。その人が別の女の子にもチョコレートの箱を上げました。すると、その女の子は箱を開けるとすぐに、その人のところへ持ってきて「まず、おじさんが一つとって」と言いました。その人が「いや、これは君にあげたんだよ」と言っても、「おじさんがくれたから、まず、おじさんが一つ取って」と女の子は言いました。その人の心に喜びを与えたのはどちらの女の子でしょうか。そして、どちらの女の子にその人は、もっとチョコレートをあげたいと思ったでしょうか。十分の一を捧げるとは、このように最初の一粒のチョコレートを神様に戻すようなものなのです。主はあなたが感謝して神に捧げものをするとき天の窓をいっぱいに開いて豊かな祝福を注いでくださいます。



ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。)