2002礼拝めっせーじ

礼拝説教07/14|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-07-14『心を見られる主』(1サムエル16章1ー13節)
 (イントロ)

イスラエル
の国旗は白と青の二色でできています。青い線が二本引かれていて、その間に三角を二つ重ねてできた6角形の星が描かれています。この星は「ダビデの星」と呼ばれます。ダビデの星はユダヤ人のシンボルで、第二次世界大戦の時にユダヤ人を迫害したドイツのナチスは、ユダヤ人にこのダビデの星をいつもつけるように命令しました。イスラエルの国旗にダビデの星が描かれている理由は何でしょうか。それはイスラエルの人々にとってダビデは永遠のヒーローだからです。ダビデはイエス・キリストよりも1000年前に生きた人物で、イスラエル王国の2番目の王様で、このダビデとその次の王ソロモンの時に、イスラエル王国は最も栄え、領土が広がりました。聖書の中に、アブラハム、モーセなど有名な指導者がたくさんいますが、ダビデは最も人々に愛された人物だと思います。彼は旧約聖書の詩篇150のほとんどを書いた人でもあります。かれは非常に優れた詩人であり、またハープを弾きながら歌を歌うのが上手でした。今から3000年も前に書かれた詩篇は今もなお読む人々に感動や慰めを与えています。私自身もダビデの詩篇の言葉に何度も励ましを受けました。また、病気の人をお見舞いに行くときにもよく詩篇の言葉を読みます。ダビデはそれほどに偉大な人物です。彼はもともと羊飼いの少年でした。そこから今も人々の心を引きつける偉大な人物へと成長していきました。このダビデの生き方から、私たちが学ぶことが数多くあると思います。7月から9月までの間、ダビデの生涯を読んで行きます。

当時の
イスラエルはどのような状況だったでしょうか。そのころ、イスラエルを指導したのは士師と呼ばれる人々でした。最後の士師はサムエルという人物でした。彼は立派な人物でイスラエルをよく指導しましたが、彼が年を取って引退する頃、イスラエルの東側からアンモン人と呼ばれる人たちが侵入してきました。すると、イスラエルの人々は、他の国と同じように強い王様が欲しいと訴えるようになり、サウルという人が一代目の国王に選ばれました。サムエルはユダヤの指導者として新しい王に油を注ぎ、イスラエルの人々の前で彼がこれから国を治めると宣言しました。ところが、サウルは、神の戒めを続けて破り王としてふさわしくない人物であることが明らかになります。サムエルがサウルに「あなたはなぜ神の言葉に従わないのか」と非難したとき、最初サウルは自分の行いを正当かしようとしました。しかし、サムエルはきっぱりと「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」サウルに告げました。このとき、ようやくサウルが自分の罪を認めました。1サムエルの15章24-25節にサウルの言葉が書かれています。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」サウルがいつも気にしていたことは人々の評判でした。自分が国民からどう思われているのか、自分のイメージを守ろうと必死でした。彼はサムエルに「私と一緒に帰ってくださし。わたしは主を礼拝します。」と言っています。これは、サウルが自分が罪を犯したことを人々に知られないように考えていることを示しています。サムエルと一緒にもどって、いつもと同じように神の祭壇で礼拝すれば、人々は彼が神の命令に逆らったことを知ることはないというサウルの計算でした。しかし、サムエルには預言者としての力が与えられていましたから、サウルの考えていることはサムエルには全部分かっていました。ですからサムエルはサウル王に向かって「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」と答えました。

(1) 人は途方にくれるが神はつねに働いておられる。
サムエル
はサウル王には厳しい言葉を語っていますが、彼にとってサウル王が神によって退けられることは大きな悲しみでした。イスラエルの国が王の支配による新しい時代に入ったばかりであるのに、サウルが退けられたことはサムエルに大きな不安を与えました。周囲の国々はつねにイスラエルの動きを見張っていて、チャンスがあれば侵入しようとしています。「神様はイスラエルの民をどうするつもりなのだろうか。」サムエルには分かりませんでした。国そのものが見捨てられたように感じました。神様の計画がすべて崩れたように見えました。サムエルはがっくりきて立ち上がることができず悲しみに沈んでいました。私たちも、大きな事件や悲しい出来事が起きると悲しみのあまり神様が遠くにおられるようで、また神様は何もしてくださらないように思えて、パニックになることがあります。私たちはすぐにパニックになりますが、神様は、私たちの知らないところでいつも働いておられます。16章1節で神はそんなサムエルに新しい使命を与えました。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」
神様は、

サムエルが悲しみに沈んでいるときに、すでにサウルの後継者を選んでいました。ところがサムエルはまだパニックのままです。政治的に見れば、依然としてイスラエルの王はサウルです。サウルはサムエルから「神があなたを王位から退けた」と言われているので、サムエルを見張っていたはずです。ですから、サムエルは神様の命令に恐れを感じました。サムエルにばれたら殺されると思ったからです。すると神様は「「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」神様はどんな時も、自分が何をするのかということをはっきりと知っておられるのです。ただ、私たちはそれが分からずパニックに陥ってしまいます。人間が失敗したり神に逆らった時でも、神様の計画が崩れることは絶対にありません。私たちの人生が思いがけないことで計画が狂ってしまったときでも神様の私たちに対する計画は全然変わりません。イザヤ書の65章24節に「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」という神様の言葉が書かれています。神様の約束の言葉です。「あなたの口が言葉を出す前に、私はすでにあなたに答えることができるのだ。あなたがまだ話している間に、私はあなたの祈りを聞き、私が計画していることを行うのだ。」という約束です。神様はサムエルに「イスラエルを本当に支配するのは、この私だ。私の言葉に従いなさい。」と命じておられるのです。私たちにとっていつでもベストなことは神の言葉に従って生きることです。なぜなら、神様はいつも私たちに最もよいものを与えようと考えておられるからです。それで、サムエルは神様の言葉に従って立ち上がり、神様の指示通りベツレヘムに向かいました。

(2) 人は外側を見るが神は心を見る
サムエル

はベツレヘムに行きました。そして神様が言われた通りに、エッサイとその息子たちに会いました。最初にエッサイの長男エリアブがサムエルの前に現れました。その時、サムエルは思いました。「神様が選んだのはこの息子に違いない。」おそらくエリアブは背が高く、ハンサムで王様のような風格を持っていたのでしょう。実は、1代目の王であるサウルも非常に背の高い男でした。やはり人々を支配する王様は背が高い方が似合っているでしょう。フランスの国王ルイ14世は非常に背が低かったので、ハイヒールを履いて大きなかつらをかぶっていました。また、ソ連の独裁者スターリンも私ぐらいの背丈だったそうです。そのため、彼は肖像画を描かせる時にいつも下から見た絵を描かせたそうです。少しでも自分が大きく見えるためでした。そのように、私たちは外見によって人を判断しやすいのです。それで神様はサムエルに言いました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」エリアブは外見は立派だったのですが、その心が王になるにはふさわしく無かったのです。彼の性格は、17章を読めば分かるのですが、怒りっぽく神を信頼せず、特に末の弟のダビデを軽蔑していました。父親エッサイは続いて6人の息子を連れて来ましたが、誰も神様に選ばれませんでした。

(3)人は忘れるが神は覚えておられる
そこで、

サムエルはおかしいと思って父エッサイに尋ねました。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイには息子が8人いたのですが、彼は末の息子ダビデのことをすっかり忘れていました。ダビデはまだ幼く、体も十分に成長していなかったので、父は彼を連れてきていませんでした。この時、ダビデは外で羊の世話をしていました。彼は家族が何をしているのかも知らず、ただ一生懸命自分に与えられた仕事をしていました。突然、向こうの方から一人の人がダビデの所に走ってきました。「ダビデ、お父さんがお呼びだ。」ダビデはその使いの者と一緒に家族とサムエルがいる場所に行きました。ダビデは血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだったと書いてあります。その時、神がサムエルに語りました。「この者に油を注げ。」サムエルはダビデに近づくと用意していた油を彼の頭に注ぎました。そしてユダヤの歴史家ヨセフスが書いた本によると、サムエルはダビデの頭に油を注ぎながら、そっと彼の耳元でささやきました。「やがて、おまえはサウルに代わってこの国の王になるのだ。」

エッサイ

と同じく、私たちは目に見えるもので人を評価してしまいます。私たちが誰かのことを考える時に、「あの人は金持ちだ」とか「あの人は一流会社に勤めている」とか「あの人は大学を出ている」などと、その人について目で見えることしか知りません。それらはすべて、その人の外側にあるものです。ところが神様が私たちを見るときは、ダビデの場合のように年齢とか体格とか学歴とかそのようなもので判断するのではありません。7節にあるように「主は心を見る」のです。1サムエル13章には「主はご自分の心にかなう人を求める」と書かれています。神は現在の国王サウルに失望し悲しみに暮れていたサムエルに「わたしはエッサイの息子たちの中に王を見つけた。」と言われました。神様はダビデの生き様をじっと観察していて彼こそが自分の心にかなう人間であることを知ったのです。神様は絶えず、私たちの生活を見ておられます。私たちは自分の表面を飾って周囲の人々を驚かせたり、実際よりもよいイメージを見せたりすることができます。しかし、神の目をごまかすことは絶対にできません。旧約聖書のミカ書6章8節にこう書かれています。「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」神様が私たちに求めているのは特別な信仰ではありません。特別な力でも特別な賢さでもありません。また、特別な美しさでもありません。ダビデのように、誠実を愛してへりくだって神とともに歩むことです。私たちは一人一人神様によって選ばれています。だから、今日、この場所に集まって神を礼拝しているのです。私のような者を神様は選んでくださいました。それは私たちが特別に選ばれるような資格を持っていたからではありません。本当に不思議なことですが、神様はあえて私たちを選んでくださいました。この神様の選びに感謝して、神様の期待にかなった人生を歩みましょう。



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