2002礼拝めっせーじ

礼拝説教08/04|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-08-04『聖書に見る真の友情』(1サムエル20章35ー42節)
 (これまでの背景)

今日は、
ダビデの生涯シリーズの3回目になります。ダビデは今から3000年前のイスラエルの王様で、彼の時代はイスラエルの国が最も栄えた時でした。彼はイスラエルの英雄であると同時に、私たちの主イエス・キリストはこのダビデの家系から生まれることが旧約聖書には預言されていました。彼は常に敵と戦う人生を歩んでいましたが、どんな時もダビデは神様を信頼していました。彼の人生に働かれた神様は、今も生きておられ、私たちの人生にも働いてくださる方です。今日もダビデの生き方から彼の信仰の姿勢を学びたいと思います。

ダビデは
イスラエルの2代目の王様です。それも、初代の国王サウルがまだ王様として地位を守っていたときに、彼はひそかに預言者サムエルによって国王に選ばれました。彼がまだ10代の時です。彼は王様に選ばれた後も、羊飼いとして働いていましたが、彼はペリシテ人との戦争で、敵の代表戦士であるゴリアテを川で拾った小さな石ひとつで殺すというすばらしい活躍を見せました。相手は3メートル近い巨人です。ダビデはまだ少年のような若者でした。しかし、彼は「これは主の戦いである。私は人間的な武器をもって戦うのではなく、神さまの助けを受けて戦うのだ。」と全能の神様を完全に信頼してゴリアテを倒すことができたのです。そしてこれによって、イスラエル軍は非常に強いペリシテ軍を完全に滅ぼすことができました。サウル王はダビデの勝利を非常によろこびました。18章の1節から5節を見ると、サウル王はダビデを自分の部下に選んで、ダビデを家に帰らせませんでした。そして、ダビデは、サウル王が遣わすどの戦いでも勝利をおさめたので、彼は軍のリーダーにまでなりました。まだ20代になったばかりの若いダビデは、一気に、国民の誰からも愛されるヒーローになったのです。サウル王にはヨナタンという名前の息子がいました。彼は、ダビデを心から愛しました。1節には自分と同じほどにダビデを愛したと書かれています。そしてヨナタンはダビデと友情の契約を結びました。イスラエルでは一生の友情を誓うための儀式があるようです。ヨナタンはサウル王の息子ですから王子です。彼は、普通に考えるとサウルの後を継いで国王になるべき人間ですが、彼は羊飼いから選び出されたばかりのダビデと一生の友情を誓いました。そして彼は自分が着ていた上着やよろいかぶと、剣、弓、帯、など何もかもダビデに与えました。イスラエルや中東では、高い地位にある人が一度着たものをもらうということは最高の名誉でした。
ダビデは、
どの戦いに出て行っても勝利を収めました。18章の14節を見ると、ダビデがいつも勝利を収めたのは主が彼とともにおられたからであると書かれています。イスラエルの人々もいつも戦争に勝つダビデの熱烈なファンになりました。ある時、ダビデが戦争から戻ってくると、人々は通りに出てきて喜びいっぱいに歌ったり踊ったりして彼を迎えました。その時、人々は「サウルは千人を倒し、ダビデは1万人を倒した」と繰り返して叫びました。この言葉を聞いたサウルは非常に怒り、その日からサウルはダビデに嫉妬心を抱き、彼を疑いの目で見るようになりました。嫉妬心というのは小さな罪のように思いますが、他の人に嫉妬心を持ち続けると、次第に(あの人がいなければいい)と思うようになり、さらに持ち続けると(あの人を殺してしまおう)と殺人につながるのです。罪は、どんな罪でも、最初は小さく害がないように思えますが、すぐに大きくなり恐ろしい結果を引き出す力を持っています。18章の29節を見ると「サウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。」と書かれており、19章に入ると、ついに、サウル王は自分の息子ヨナタンにダビデを殺す計画を告げました。この時は、息子ヨナタンから説得されてサウル王は、ダビデを殺さないと誓うのですが、彼の誓いはすぐに破られてしまいます。ダビデが、再び、ペリシテ人と戦い大勝利を獲得すると、サウルはダビデへの嫉妬心が燃え上がりました。竪琴を引きながら歌を歌うのが上手なダビデは、精神的にうつ病のような状態になることが多いサウル王の心を癒すために、よく王の前で竪琴を弾いていました。サウルは突然ダビデへの憎しみを抑えることができなくなって、そばにあった槍をダビデに投げつけました。ダビデはすばやく身を避けたので、サウルの槍は壁にささりました。そして、これ以上サウル王の近くにいると本当に殺されると思い、ダビデはサウルの家から逃げ出し、ナヨテという町に逃げました。

彼は、
ある日、
ひそかにナヨテから抜け出してヨナタンのところへ来ました。そしてダビデはヨナタンに「私はあなたのお父さんから命を狙われていると思いますが、あなたからお父さんの気持ちを確かめてほしいのです。」と頼みました。ヨナタンはダビデのためなら何でもすると約束しました。当時、イスラエルでは月の初めにお祭りをしていました。イスラエルの暦では、毎月の初めは新月でした。つまり、空に月が見えない日です。周りの国々では満月の時にお祭りをするのですが、イスラエルでは神の代わりに月を礼拝してはいけないという意味で毎月空に月が見えない日にお祭りをして神様にささげものをしていました。ダビデはサウルの軍隊のリーダーとして祭りの食事をサウル王といっしょにしなければなりませんでした。それで、この機会をダビデは利用しました。「ヨナタン、新月の祭りの食事を欠席して、三日目の夕方まで私は野原に隠れています。もしサウル王が私が欠席している理由を尋ねたら、『ダビデは自分の町ベツレヘムに急いで行きたいと頼みました。ベツレヘムでダビデの親戚全体のためにいけにえを捧げるのです。』と答えてください。もし、サウル王が「わかった」と言えば、私は安全です。しかし、もちサウル王が激しく怒ったなら、あなたのお父さんは確かに私を殺そうとしているということです。」ヨナタンはダビデに「さあ、野原にでましょう。」と言って、二人で野原にでました。そして言いました。「祭りの食事の時に父の気持ちを探ります。あなたが危険な場合は、必ずあなたに連絡します。ですから、将来、たとえ私が死んでも、あなたの恵みを私の家族に与えてください。」このようにしてダビデとヨナタンはもう一度友情の契約を結びました。さらにヨナタンは言いました。「あなたは三日後、あの大きな石の近くに隠れていてください。私は、あなたに知らせるために3本の矢を放ちます。私が一人の子供に矢を取りに行かせるので、そのときに、私が子供に『矢は、おまえのこちら側にあるそれを取って来なさい』と言う時は、あなたは安全です。出てきてください。しかし、もし私が『矢はお前の向こう側にある』と言ったら、あなたは逃げてください。その時、主があなたを守ってくださいます。」
さて、

新月の祭りの食事の時が来ました。ダビデは欠席していましたが、サウル王は、ダビデに何かが起こったのだろうと思って何もたずねませんでした。しかし、その次の日もダビデが食事に来なかったので、サウルは息子のヨナタンに尋ねました。「どうしてダビデは昨日も今日も食事に来ないのだ。」するとヨナタンはダビデと打ち合わせていた通りに、「『ベツレヘムに行かせてください。親戚が集まって神へのささげものをしますので。』としきりに頼みました。だからダビデは食事に来ないのです。」この言葉を聞いてサウル王は息子ヨナタンに対して激しく怒りました。「お前はいったい誰の子供だ。お前はダビデと仲良くして、国王であるお前の父親に恥をかかせるのか。いいか。ダビデが生きている限り、お前がわたしの後を継いで王になることは難しくなるのだ。分かっているのか。今、ダビデをここへ連れて来い。」ヨナタンがサウルに「なぜ、ダビデを殺さなければならないのですか。」と言うと、サウルは息子ヨナタンに向かって槍を投げつけました。ヨナタンはサウルが本気でダビデを殺そうとしていることを悟りました。その日、父への怒りに燃えたヨナタンはテーブルに並べられた豪華な食事にまったく手をつけませんでした。

翌日、

朝早く、ヨナタンは子供を連れて野原に出ました。そして、子供に言いました。「私が、今から矢を射るので、それを拾ってここへ持って来なさい。」子供が走って行くとヨナタンは、その子供よりも遠いところへ矢を放ちました。そして子供に向かって叫びました。「矢はお前の向こう側にあるぞ。早く走りなさい。とまってはいけない。急ぐんだ。」ダビデはヨナタンの言葉の意味が分かりました。子供が矢を拾ってヨナタンのところに来るとヨナタンは子供に「この矢を持って先に町へ持って行きなさい。」子供が町に向かって走って行った後、ダビデは隠れていた場所から出て来ました。そしてヨナタンの前にひれ伏して3回礼をしました。二人は抱き合って、激しく泣きました。特にダビデは激しく泣きました。この後、二人は一度少し出会う時がありますが、その後は二度と会うことがありませんでした。ヨナタンが先に死にますが、ダビデは一生、彼から受けた友情を忘れませんでした。彼は、後に、正式にイスラエルの王になりますが、彼はヨナタンの息子を自分の家に迎えて一生彼の面倒を見るのです。二人の友情は本当にすばらしいです。しかも二人の言葉を見ると、主という言葉が何度も出てきます。20章の18節では、ヨナタンはダビデに次のように言いました。「私があなたと交わした言葉については、主があなたとの間の永遠の証人です。」ヨナタンは王の息子ですから、ダビデは彼にとってはライバルです。しかし、彼は自分の立場や自分の権利よりもダビデとの友情を大切にしました。ダビデは、この後もサウルに命を狙われて、逃亡生活が続きますが、ヨナタンの友情によって精神的にも支えられたのではないでしょうか。

今日のテーマ

は友情です。友情というのはとても美しい言葉ですが、真実の友を持つことは難しいことです。人間は生まれつき罪を持っているので、どうしても他の人のことよりも自分のことを考え、自分のことを大切にするからです。今日の週報に載せましたが、箴言の17章17節が友情について語っています。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」アメリカのあるインディアンの言葉では「友達」という言葉は「私の悲しみを一緒に背負ってくれる人」と表現するのだそうです。苦しみや悲しみをすべてともに背負ってくれる人こそ本当の友と言えますが、現実問題、なかなかそのような友人を見つけることができません。しかし、私たちには、永遠の友となってくださる方がいます。主イエス・キリストです。イエス様はヨハネの福音書15章で次のように言われました。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」ここで、主は「しもべ」と「友」を区別しています。「しもべ」は主人と親しい関係を持っていますが、普通、「しもべ」は主人から言われたことをそのまま行うだけです。主人がその行いの目的や意味をしもべに話すことはあまりありません。ただ命令を与えるだけです。しかし「友」の場合は違います。昔、バビロンやペルシャの王様の宮殿には「王の友」と呼ばれる人がいました。彼らはいつも王様と一緒に生活をし、一日の初めに王の寝室に入ることも許されていました。王は政治家や軍人たちと話をする前にまず自分の友と話をしました。王の友とは王と非常の親しい関係を持ち、いつでも王の所に行く権利を持っている人でした。主イエスは、わたしたちを自分の友、神の友となるようにと、私たちを招いてくださったのです。私たちは、普通の人のように、遠くから王様を眺めるのではなく、王様の隣にいることが許されているのです。箴言では、真実の友は苦しみをも分かち合うと書かれていますが、主イエスは、私たちの罪を許し、私たちが神とともに新しく生きていけるようにと、自分から進んで十字架の苦しみを受けてくださいました。神様は私たちにとって本当に親しい友となってくださるのです。真実の神、真実の友です。神様の真実は絶対に変わることはありません。私たちは、友なる主イエスといつも交わりつつ、主からの力と導きを受けて歩んで行きましょう。


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