礼拝説教
2002-08-11『神を待ち望む人生』(詩篇34篇)
(イントロ)
生涯は本当にいろいろなことがありました。彼はまだ羊飼いとして父親を助けていた時にサムエルという預言者から油を注がれて自分が神様からイスラエルの2代目の王様に選ばれていることを知りました。その後、ペリシテ軍との戦争に参加していた兄たちを訪れた時に、ダビデは、ペリシテ軍の代表戦士と戦うことになり、全能の神を信頼してゴリアテという巨大な男を倒しました。ダビデの力を見抜いたイスラエルの初代の王サウルは彼を自分の軍隊のリーダーに選びました。彼はどの戦争にも勝利をしたため、イスラエル国民の間でダビデの人気が一気に高まり、サウルの人気を超えるようになりました。ダビデが国民から愛されていることを見たサウル王はダビデを嫉妬するようになり、彼はダビデを殺すことを決心しました。しかしダビデは、王の息子であり、また親友でもあったヨナタンの助けを受けて、サウルの王宮からうまく逃げ出すことができました。 しかし、彼は、サウル王から逃げたことによって自分が頼りにできるものをすべて失いました。彼はサウル王の側近として恵まれた将来が約束されていましたが、サウル王から逃げたことによりその地位を失いました。そして、一生の友情を誓い合ったヨナタンともわかれなければなりませんでした。彼は自分を支えていたものを少しずつ失って行きましたが、同時に彼の神への信頼も少しづつ揺らぎ初めていました。
サウルから逃げて最初にノブという町にいた祭司アヒメレクの所に行きます。彼は非常におなかがすいていたので、祭司に頼んでパンをもらいました。そして、彼は自分自身を守ることを考えました。20章の8,9節を読みましょう。ダビデは自分を守るための武器を探していました。すると祭司は彼に答えて「あなたが殺したゴリアテの剣があります。ここには武器としてはそれしかありません。」するとダビデは「それは何よりです。私にください。」と答えています。彼が、まだ少年だった頃にゴリアテと戦った時、彼はサウル王が自分のよろいかぶとを着せようとしましたが、それを断り、彼は石投げと石だけを持ってゴリアテに近づきました。その時、ダビデは「おまえはつるぎを持ってわたしに向かって来るが、わたしはイスラエルの神の名によっておまえと戦う」と宣言しました。そして、ひとつの小さな石で巨人ゴリアテを倒すことができました。それほどに主に信頼していたダビデですが、そのダビデが、ノブの神殿に預けられていた「ゴリアテの剣」を見て、「今、私にとって、これ以上のものはない。」と言っているのです。人は、全能の神への信頼がぼやけてくると、目に見えるものに頼ろうとします。しかし、目に見えるものは本当の助けにはなりません。彼は、ノブの町に、サウル王の仲間であるドエグという男がいるのを知って、恐怖におそわれます。(サウル王に知られたらどうしよう)ダビデはあわててノブの町から逃げ出しました。次にダビデが行った町はペリシテ人の都ガテの王アキシュの所でした。サウル王が支配するユダヤにいる限り危険だと思ったダビデは、なんとペリシテ人の町、あのゴリアテの出身地へ行きました。彼はもうゴリアテと闘った時の少年ではありません。すっかり男らしく成長しているので誰にも気づかれることはないと思ったのでしょう。しかし、彼はゴリアテの剣を持っていたからでしょうか、すぐにダビデであることがばれてしまいました。ガテの王アキシュの家来たちはアキシュ王の所へ来て訴えました。「あいつは『サウルは千人を倒し、ダビデは万人を倒した』とイスラエルの連中が歌っていたダビデですよ。なぜ、あんな男を受け入れたのですか?」ダビデは、自分が疑われていることを知りました。21章の12節には「ダビデは非常に恐れた」と書かれています。「非常に」とわざわざ書かれていますから、彼の恐怖は言葉で表せないほどのものだったのです。ダビデはとっさに気が狂った振りをして町の扉にナイフで傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりしました。何と惨めなダビデの姿でしょうか。彼は、サウル軍の勇敢な兵士でした。どこに行ってもダビデは1万人を殺すだけの力を持っていました。しかし、今、恐怖に襲われたダビデはきちがいのふりをして、自分のプライドも捨てて、口からよだれを垂らしているのです。ダビデの手にはゴリアテの剣がありました。ゴリアテの剣を受け取った時は、「これに勝るものはない」と大喜びしていたダビデでしたが、ガテの町に入って、喜びは恐れに変わりました。人間的な力、目に見えるものに頼る時に、いつも不安がつきまといます。17章から20章まで、ダビデの口からは「主」という言葉が何度も繰り返して出てきましたが、21章に入ると彼の口から「主」という言葉が出なくなっています。ダビデが神に頼らず目に見えるものに頼った時から、彼の心は恐れでいっぱいになっていたのです。この出来事は神様から王になるために選ばれ油を注がれた者としてはほんとうに惨めな出来事でした。彼が不信仰によって神から離れていなければ、こんな惨めなことをする必要はなかったはずです。彼は自分の力で自分の命を守ろうとしたために、自分の名誉を傷つけるようなことをしてしまったのです。
(1)神を呼び求めるダビデ
は、この詩がいつ誰によって作られたかということがはっきり書かれています。「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去ったとき」と書かれています。アビメレクというのは「わが父なる王様」という意味のタイトルです。その王の名前がアキシュと言いました。彼はアキシュのもとを去ってアドラムという洞穴に逃げました。不信仰に陥ったダビデでしたが、ダビデを選ばれた神様はダビデをまもり続けてくださいました。これが神様の真実です。私たちに対する神様の愛は決して変わることがありません。ダビデは詩篇の中で繰り返して「主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神です。怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられる。」と宣言しています。彼は、アドラムという名の場所にあった洞穴に長い間隠れることになります。神様はすでにサウル王を退けていました。しかし彼はまだ王としての実権を握っていました。一方ダビデは神からイスラエルの王になるという約束をもらっていましたが、今は洞穴に隠れてサウル王から命を狙われている毎日でした。ダビデがアドラムの洞穴に隠れていることが人々に伝わって、ダビデの家族やサウル王によって苦しみをうけていた人々や不満を持つ人までもがダビデのところに集まってきました。そのような人の数が400人に増えました。ダビデは、このような状況で彼は神への信仰を取り戻しました。詩篇34篇のテーマは神の救いですが、神の救いはダビデの祈りの結果与えられたものでした。ダビデは自分がいつのまにか神に頼らず、人間的なものに頼っていることに気がつき神様に向かって叫びました。4節、5節、6節でダビデは繰り返して述べています。「わたしは神を求めました。」「わたしは神を仰ぎ見ました。」「わたしが呼ばわったとき」目に見えるものは決して神の代わりにはなりません。それらはほんの一時的なやすらぎしか与えることができないのです。痛み止めの薬みたいなものです。私たちは苦しいとき、痛みを感じる時、その苦しさから逃れるため、痛みを忘れるため、痛み止めの薬を飲みます。しかし、その薬は一時的に痛みをわすれさせてはくれますが、決して痛みの原因となっているものを滅ぼすことはできないのです。私たちの人生にはいろいろな苦しみ、痛みがあります。恋が破れてしまった痛み、家族を失ったいたみ、人々から受けた言葉による痛み、自分が追い求めていた夢が破れた痛み、仕事を失ってしまった痛み、今、実際に痛み・苦しみを経験していなくても、いつそのような痛みが襲って来るか分かりません。こんな時、私たちには二つの道があります。一つは、周りを見回して他に誰か頼ることができる人、頼ることができるものをさがして、それに頼る方法。もう一つは周りを見渡すのではなく、上を見上げて神を頼り、神だけを頼りとして生きる方法です。ダビデは、もう一度神だけに頼ることを選びました。
(2)ダビデを救ってくださった神
悩みの中で神様を求め、神様に向かって叫んだとき、神様はダビデの祈りに答えてくださいました。そして、主はダビデをすべての恐怖から救い出してくださいました。聖書の神様は確かに私たちの祈りを聞いておられます。そして私たちを救い出してくださいます。解放を与えてくださいます。4節「すべての恐怖から救い出してくださいます。」6節・17節「すべての苦しみから救い出してくださいます。」19節「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出してくださいます。」20節「主は彼の骨をことごとく守り、その一つさえ砕かれることはない。」ダビデは繰り返して、「すべて」「ことごとく」という言葉を使っています。彼は神様から与えられる救いが完全であることを経験したのです。また、神様は私たちに元気を与えてくださいます。5節には、彼らが主を仰ぎ見ると彼らは輝いたと書かれています。洞穴に長い間隠れていたダビデと彼の仲間たちの生活は暗闇の生活でした。いつも敵を見張っていなければなりません。気が休めるときがない毎日でした。しかし、彼らが神様を求め神様を見上げたときに、彼らは、ちょうど長い夜が明けて朝日が昇るときに感じるような喜びを感じました。そして、主を呼び求めるものは何一つ良いものに欠けることはないとダビデは書きました。彼は人間的なものに頼っていたときはいつも不安や恐れを感じていました。しかし、今、彼は、自分がまとめていかなければならない400人とともに洞穴での生活をしながらも、良いものに何一つ欠けることはないと信仰告白しています。それは彼が18節にあるように、「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる」ということを実際に体験していたからでしょう。洞穴の中でも彼は神様がともにおられることを感じていたので、詩篇34篇の言葉が生まれたのです。
(3)神の救いを体験するのには何が必要なのか
書かれたダビデの言葉から、神様の助けを得るために私たちには何が必要なのかを知ることができます。7節「主の使いは主を恐れるもの回りに陣を張る」8節「幸いなことよ。彼(主)に身を避ける人は」10節「主を尋ね求める者は良いものに何一つ欠けることがない」15節「主の目は正しい者に向けられる」18節「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる」ダビデは信仰の勇者でした。小さな石で巨人を倒すほどの信仰を持っていました。しかし、そんなダビデも人を恐れ自分の力で自分を守ろうとして落ち込んで行きました。ダビデも決して完全な人間ではありませんでしたが、彼は自分の失敗、過ちに気がついたときに、神様に悔い改め、再び神を求めました。私たちも、失敗をする者です。自分の欠点に悩む者です。誘惑に負けてしまうものです。しかし、怒るのに遅く哀れみ深い神は、そのように倒れている私たちを起き上がらせてくださいます。ダビデが3節に言っているように「私とともに主をほめよ。共に御名をあがめよう。」とあります。倒れたときも主を見上げましょう。私たちは死からいのちへと移してもらった者です。いのちの主である主イエスにとどまり続けましょう。心の中で自分に語り掛けましょう。「今日も、全能の神が私とともにおられる。私は何も恐れる必要はない。」と語り掛けましょう。ダビデも主を呼び求めた時に救われたのです。彼は、その後も何度もサウルから命を狙われました。しかし、彼は決して神が油を注いだサウル王を殺しませんでした。そして、神様が約束されたとき、自分がイスラエルの王になるときを待ち望みました。そして、確かに彼が王になるときが近づいていたのです。
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