礼拝説教
2002-09-01『神は砕かれた心を尊ぶ』(詩篇51篇〜17節)
(イントロ)
3章16節を見ると「聖書はすべて神の霊感によって書かれた」とあります。神のメッセージですから、時には厳しい言葉もあります。また、真実の言葉ですから、聖書に登場する多くのヒーローがいますが、決して、そのヒーローを美化することもありません。ユダヤ人のヒーローであるダビデ王の場合もそうです。ダビデは素晴らしい王であり信仰者ですが、聖書は決して彼の人生の暗い部分、罪の部分を見逃したり、無視したりしていません。聖書の中には、多くの罪が記されていますが、最も有名な罪の一つはダビデ王がバテシェバという女性とともに犯した罪です。
イスラエル全体の王になって以来、彼の人生は成功と祝福の連続でした。彼は勇敢な軍人でしたし、詩篇をたくさん作る才能を持っていました。彼はまた愛と情熱に満ちた人でもありました。彼は友人のヨナタンと一生の誓いをしていましたが、ヨナタンが死んだ後、ヨナタンには両足の不自由な息子がいました。ダビデはその息子を自分の家に引き取り、一生彼の面倒を見ました。第2サムエル5章から10章まで、ダビデの人生はすべてが順調でした。しかし、人生がうまく行っているときこそ、私たちは注意をしなければなりません。彼の大きな罪はそのような時に起こったからです。ダビデの心のなかに少しずつ気のゆるみが生じていました。彼は突然、罪を犯したのではありません。少しずつ彼の心は神から離れていました。第2サムエル5章13節には次のように書いてあります。「ダビデはヘブロンから来て後、エルサレムで、さらにそばめたちと妻たちをめとった。ダビデにはさらに、息子、娘たちが生まれた。」彼は多くの妻とそばめを取ったのですが、これは周辺の国々王様が一般的に行っていたことですが、聖書の教えには反していました。申命記の17章に神が国王のあり方について教えている箇所があります。16−17節を読みましょう。「王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。」ここにイスラエルの王がしてはいけないことが三つ書かれています。1)自分のために馬を増やしてはいけない。2)自分のために多くの妻を取ってはいけない。3)自分のために金銀を増やしてはいけない。ダビデは1)と3)の点では忠実に神の教えに従ったのですが、2)の点で従わなかったのです。彼は多くの妻とそばめを取りましたが、それで彼の肉欲が静まった訳ではありません。彼は自分の欲を満たすためにハーレムを作りましたが、彼の肉欲はいっそう強まったのです。彼は自分で罪を犯すきっかけを作っていたのです。
イスラエルはアモン人と戦争状態にありました。イスラエルの正月は3月から4月です。この時期に雨の季節が終わるので、ダビデはしばらく休戦状態になっていたアモン人との戦いに再び軍隊を送りました。しかし、彼自身はエルサレムに残っていました。彼は本当なら、軍を指揮する者として戦場に立っていなければならなかったのですが、彼はエルサレムの王宮に残っていました。ここにも彼の心のゆるみがあったと思います。ダビデは、戦争のことは将軍ヨアブに任せて、エルサレムで怠惰な生活をしていました。彼がある夕暮れ昼寝から目を覚まして王宮の屋上をぶらぶらと歩いていました。すると、隣の家の中庭でバテシェバという非常に美しい女性が水を浴びているのが見えました。その瞬間、彼の心の中は情欲に捕らえられました。自分が神によって選ばれた王であることを忘れ、サウルから逃れるために荒野を逃げていた時に神から学んだこと、経験したことすべてを忘れました。ダビデは神を忘れました。ちらっと見ただけでなく、彼はその女の姿をじっと見つめました。そして「あの女が欲しい」と心の中で思いました。彼は部下に命じてその女のことを調べさせました。部下の返事は「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテシェバではありませんか。」という返事でした。イスラエルでは、その人が誰であるかを知らせる時は、結婚相手の名前を挙げるのではなく、父親、おじいさんの名前を上げて、どこの家庭の出身かを知らせるのが一般的です。ところがここでは部下はわざわざ「ウリヤの妻」だと言っているのは、「この女性は結婚していますよ」というもので、ダビデの部下は王が何を考えているのか分かっていたようです。しかし、ダビデはそんな言葉を全く気にせず、女を連れてこさせて、彼女と寝てしまいました。そして女は自分の家に帰りました。一晩だけの関係です。ダビデは自分の肉欲を満たすためだけに、女を呼んだのです。これですべてが終わるはずでした。ところが思わぬ結果になりました。
が妊娠したと言ってきたのです。ダビデは、バテシェバと寝たことなどもすっかり忘れていたと思います。彼は何事も無かったかのように生活をしていましたが、突然、彼女が妊娠したことを知ったのです。彼がこのことを知った時、彼には二つの道があったと思います。一つは、神の前に出て自分の罪を告白することでした。もう一つは罪を隠すことです。悲しいことにダビデは罪を隠す方法を選びました。彼はバテシェバから妊娠のことを聞いて頭がパニックになったことでしょう。(どうすればいいんだろうか?)彼はウリヤをすぐに戦場から家に帰るように命令を出しました。ウリヤが家に帰って妻のバテシェバと寝れば、彼女が妊娠していても、自分の罪を隠せると思ったのでしょう。しかし、ウリヤは立派な軍人でした。ダビデの計画通りに彼は行動しませんでした。「ウリヤは王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。」と書かれています。困ったダビデは次の夜、ウリヤに酒を飲ませて酔わせたのですが、それでも、忠実な兵士のウリヤは自分の家に帰りませんでした。ウリヤは「私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。」と答えています。ウリヤは忠実な兵士です。国王からほめられる価値のある男です。しかし、自分の罪を隠すために必死になっているダビデにとっては非常に腹立たしい男に見えました。罪に道を進むと人は一気に堕ちて行きます。彼は、彼が生きていると、自分の罪を隠せないと思って、彼を殺すことを決心します。彼は将軍ヨアブあてに手紙を書きます。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」将軍ヨアブは王の命令の通りにウリヤを一番危険な場所においたので、ウリヤは殺されてしまいました。ダビデは、サウル王に命を狙われていたとき、サウルを殺すチャンスが2回ありました。しかし、彼は神によって選ばれた王を殺すことはできないと言って、殺しませんでした。彼は正しい心を持った男でしたが、自分の情欲に捕らわれると自分をコントロールできなくなりました。彼はウリヤだけでなく、多くの軍人の命を自分の罪を隠すためだけに失わせてしまったのです。完全犯罪が成立しました。バテシェバの妊娠をとがめる人間がいなくなりました。ダビデは、バテシェバの喪の期間が終わるとすぐに自分の妻にめとりました。そして彼女は、数ヶ月後に、ダビデ王の子どもを生んだのです。彼は自分の罪を隠せると思っていろいろな知恵を使いました。しかし、11章の最後の言葉を見てください。「ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。」と書かれています。彼は素晴らしい詩人でした。美しい歌をたくさん作り神を賛美しました。ヨナタンの息子を自分の家の迎える優しい心を持った男でした。神のために神殿を建てようと考える神を愛する男でした。しかし、そのダビデが今は、偽りの生活をし、暗闇の中を歩んでいました。彼は、最初は、一晩だけのこと、自分の情欲を満たすための小さなことと考えていましたが、どんな罪も大きな結果を招くことになります。ダビデの人生はこの事件をきっかけに下り坂になりました。
ダビデの犯した罪のことに気づくことなく数ヶ月がたちました。もちろん神はダビデの罪を知っていましたが、すぐに行動を起こしませんでした。神はダビデが悔い改めるのに一番良い時期を待っていたと思います。その間、ダビデ自身も自分の犯した姦淫の罪と、ウリヤという立派な軍人を殺したことで苦しんでいました。彼はその時の気持ちを詩篇32篇に表しています。3節と4節を読みましょう。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」リビングバイブルでは次のように訳しています。「この私には罪を認めたくない時がありました。おかげですっかり惨めな思いをし、来る日も来る日も挫折感に捕らわれて過ごしたものです。神様の手はいつも重くのしかかっていました。私の力は強烈な日差しの中の水たまりのように干上がりました。」彼はウリヤが死んだ後、眠れない夜を過ごしていたのです。そして、いよいよ神様が行動を起こしました。彼はダビデの最も親しい友人であり預言者であったナタンをダビデのもとへ遣わしました。ナタンはダビデに一つの話を語りました。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは何も持っていませんでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」ダビデは、ひどいことをした男の話を聞いて怒りを爆発させました。するとナタンがダビデに言いました。「あなたがその男です。」ナタンの短い一言が長い間眠れない夜を過ごしていたダビデの心を突き刺しました。神様が備えた時だったのです。ダビデは、長い間神に背を向けて自分の罪を隠して来ましたが、彼はナタンに言いました。「私は主に対して罪を犯した。」彼は罪を隠すことを止め、神と人との前で悔い改めました。彼の悔い改めが真実であったことは詩篇の51篇の言葉から分かります。
をする人は、まず、自分が犯したことをそのまま正直に認めます。4節で彼は「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」と告白しています。第二に、真の悔い改めをする人は、心が砕かれ謙遜な心を持っています。ダビデは17節でこう言いました。「砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」真の悔い改めは、私たちの心が砕かれ謙遜になったときにできるものです。ですから、真に悔い改める時に、人は自分の立場を守ることを考えません。人に対して怒りを感じることもありません。神様が許してくださることにただ感謝を感じるだけです。そして第三に、真の悔い改めには、罪ときっぱり手を切る決心がともなうはずです。ダビデの子ソロモンは箴言28章13節で次のように述べています。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」悔い改めを意味するギリシャ語は「メタノイア」と言いますが、これは「方向を変える」という意味です。180度向きを変えて今まで生き方を止める決断が伴わなければなりません。その時、真の悔い改めには必ず神の赦しが伴います。ダビデが罪を告白した時、ナタンはすぐに言いました。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」ダビデの罪は真の悔い改めによって赦されましたが、彼は自分でまいた種を刈り取ることになります。ナタンは言いました。「あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」それだけでなく、この後、彼の家族は子ども同士が争ったり、また息子の一人の裏切りによって王座を追われたりと悲しい事件が続きます。しかし、神様がダビデに与えた約束は変わることがありませんでした。彼の王国は永遠に続く。そして彼の家族から将来救い主が生まれるという約束が変わることはありませんでした。そして、眠られない夜が続いていたダビデも神の赦しを受けて心に平安を覚えることができました。私たちもダビデと同じ罪人です。私たちには主イエスの十字架があります。イエス・キリストが十字架で私たちの罪の罰を全て受けてくださいました。ですから、私たちは十字架の主イエスを信じる時、はじめて神との平和を持つことができます。そして心の中に本当の平安を感じることができます。
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