礼拝説教
2002-09-15『狭き門から入れ』(ルカ13章24〜 節)
(イントロ)
の人生にはいつも選ばなければならないときがあります。特に若い人々には自分の将来を決定する重大な選択をしなければならない時があります。本田先生がよくたとえ話で話された中に、アメリカのクリーブランド大統領の話があります。この人は10代の頃、仲間といろいろ悪いことをしていたそうです。しかし、ある日、彼が友達と二人で思いっきり遊ぶために町へ出かけた時、たまたま教会の前を通りました。その日夜の礼拝があったのです。礼拝の看板には「罪から来る報酬は死である」と書いてありました。それを見て彼は何か心を責められるような思いがしました。それで、友達に「今日は、俺、遊ぶのは止める。家に帰るよ。」と言いました。友達は「ここまで来たんだから町へ行こう」と言って、しばらく言い合いになったのですが、結局、友達はそのまま町へ出かけ、彼は家に帰るふりをして教会に入り、その夜、メッセージを聞きました。彼は、そこで自分のそれまでの生き方を悔い改め、イエス・キリストを信じて生きる決心をしました。その後、彼はまったく違った生き方を始め、一生懸命働きながら勉強しました。その後仕事でも成功し、政治の世界に入って、とうとう大統領にまで上りつめたのです。彼が大統領就任の日、一人の囚人が刑務所の中で涙を流しながらこう語ったそうです。「今日、大統領になった男は、自分と一緒に悪い道を歩いていた。ある夜、けんかをして俺たちは別れて、別々の道を生きるようになった。彼は大統領になったのに、俺は、こんな惨めなところで一生を過ごさなければならないんだ。」一つの人生の決断が人間の人生を決めたのです。私たちも、人生の中で決断をしなければならないことが何度もありますが、その時に、どの道を選ぶのか、非常に大切に考えなければなりません。今日の聖書の箇所は、その大切さを教えている箇所です。
(1)狭き門
十字架にかかるためにエルサレムに向かっておれらましたが、多くの町や村の中に入って人々を教えておられました。すると、一人の人が主イエスのところに来て質問をしました。「主よ。救われる者は少ないのですか。」この「救われる人は多いのか少ないのか」というのはそのころユダヤ人の教師たちがよく論じ合っていた問題だったそうです。それに対して答えた主イエスの言葉が13章24節の言葉でした。「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」主が言われたのは、ユダヤ人の多くは入ろうとするが入れないと、厳しい答えをしておられます。イエスの時代のユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた特別の民族であり、律法が与えられ、預言者が与えられ、神殿も持っているから、救われるのは当然だと考えていたのです。それに対して主イエスは、救われる人の数が多いか少ないかということには答えないで、救いに至る道は狭い門であると言われました。人生は一度しかなく、やり直すことができません。誰もが、意味のある人生、充実した人生を送りたいと思っていますが、信仰の世界を離れて、一般社会においても価値があるもの、有意義なものを自分のものにするのには狭い門から入り、狭い道を通って行かなければなりません。バレリーナの森下洋子さんは、練習を一日も休まないそうで、世界を旅行する時は飛行機の中でも体を動かすのだそうです。私は大学でフランス語を専門に選んで勉強しました。外国語大学のフランス語科に入れば卒業する時にフランス語を自由に話すことができるとは限りません。やはり自分で努力しなければ特に会話は難しいです。私は、今は、すっかり忘れてしまいましたけど、学生の時は、フランス語を集中して学びました。誰でも、一つのことに集中して続けると立派な教養と経験を持つ人になることができます。同じように、信仰の道も、決して安易な道、誰もが楽をする道ではありません。主は、ただ面白い、楽しい生活よりももっと大切な道があると教えておられるのです。
では主は「滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。」と言われました。まず、その門を入るためには自分のわがままを捨てなければなりません。これが私たちには第一の関門です。神様の前に自分が自己中心な者であることを正直に認め、それを悔い改めて、救いの門に入らなければなりません。救いを受けるためには、あれこれ自分の言い訳をするのをやめて、「神様、あなたの言う通りです。」と自分の罪を認め、そして「主イエス様、私はあなたに従って生きて行きます。」と主イエスに服従する決断が必要なのです。私たちは、いつも自分が王様のように、「私は私がしたいようにする、自分が生きたいように生きる。それは私の権利だ。」と考えます。しかし、聖書は、そのような生き方は滅びに至る生き方だと断言しているのです。誰にとっても、自分がやりたいように生きるのは簡単な道です。どんな規律も必要ないからです。しかし、そのような生き方は何をも達成できないのではないでしょうか。運動選手は記録を上げるために、食べたいものを我慢してトレーニングに励みます。努力が必要です。ある時は苦しみが伴います。しかし、それを続けることによって目標に達することができるのです。救いの道も同じです。努力が必要ですし、時には信仰を持っていることが苦しいことがあります。しかし、途中であきらめずに続けると、すばらしい約束が待っているのです。だから、主イエスは24節でわざわざ「努力して狭い門からはいりなさい。」と言われたのです。
(2)門は閉ざされる
「家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。」と書いてあります。今は、救いに入る狭い門は開かれています。救われるために開かれている門はいつまでも開かれたままではないと主は言われました。今、私たちは、生きていますので、自分の力で、門に入ることができます。しかし、私たちが肉体の死を迎えると、門に入るチャンスを失ってしまいます。聖書ははっきりと人は一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていると教えています。25節からの主イエスのたとえは、救いに関して大切なことは、人が主イエスと個人的に真実の関係を結んでいるのかどうかという点だと教えています。心から自分のことを悔い改めてイエスに従って生きることを望んでいるかどうかを主は私たちに問いかけています。「イエス様はあなたを知っていますか。」「あなたは主イエスと個人的な関係を持っていますか。」この問いにあなたはどう答えますか。25-27節のたとえの中で、主人から戸を閉められて、外に閉め出された人々はこう言っています。「『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』」しかし、主人は「私はあなたがたがどこの者だか知りません。」と答えています。なぜでしょうか。いっしょに食べたり飲んだりすることがその人と関係を持っていることにはなりません。その人の教えを聞いただけで、その人と関係を持つことはできません。人は、教会に来ているだけでは主イエスと個人的な関係に入れません。主イエスの教えを聞くだけもだめなのです。私たちがいろいろな人とつき合う時に、顔や名前が覚えにくい人がいます。どんな人でしょう。いろいろなところでその人の顔は見たことがあるけれど、ゆっくり話したことがなかったり、一緒にいろいろなことをするという経験がなかったりすると、その人の顔や名前はなかなか覚えられません。同じように、ただ何となく主イエスのそばにいるだけでは、主イエスがあなたを知っている、あなたが主イエスを知っているということにはならないのです。私たちは、本当に、主イエスを個人的に知っているでしょうか。
(3)神の国の食卓
は特別な民だと思っていたユダヤ人の多くは神の国から閉め出されてしまうと主は言われました。神の国にはユダヤ人の偉大な祖先であるアブラハム、イサク、ヤコブがいます。また預言者たちもいます。預言者たちの多くは神の言葉を語ったために殺されました。しかし、彼らは神の国の食卓についています。彼らは救い主イエス・キリストを見ることはできませんでした。しかし、彼らは、皆、神を愛し神のことばに従いました。神の約束を信じ、神は約束したことを必ず成就すると確信していました。反対に、イエスの時代のユダヤ人たちは救い主から直接教えを聞くチャンスを与えられながら、主イエスに従うことを拒否したために、神の国から閉め出されてしまったのです。
神の国に入る人たちもいます。29節には「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。」と書かれています。ユダヤ人たちにはびっくりすることでしたが、主イエスは、ユダヤ人以外の人々も世界中から神の国に入ることができると約束しているのです。確かに、救いに至る門は狭いのですが、しかし、入ろうと思う人は誰もが入ることができる門でもあります。そして、神の国は、この地上の世界とはまったく違うことが分かります。主は「今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」と言われました。この地上では人々の評価を受けることができなかった人が神の国では大きな栄光を受け、反対に、この地上では権力や影響力を持っていた人が神の国では、門の外に追い出されることがあるのです。神が大切に考えておられるのは、私たちが地上で高い地位についているとか、たくさんの財産を持っているとか、力を持っているということではありません。どれだけ私たちが神様に服従して生きているかどうかを神様は見ておられます。
今も開かれています。世界の東からも西からも北からも南からも入れるように開かれています。私たちは、神に従って生きることを決断すれば、神の国で大勢の人々と共に食卓について永遠の喜びに入ることが許されています。聖書は言っています。「今が恵みの時、今は救いの日です。」あなたは、自分に与えられている人生をどのように生きるでしょうか。ただ、楽な道を生きるのでしょうか。救いの道は決して簡単な道ではありませんが、その行き着くところは永遠の祝福です。救いに入る門が閉じられる前に神の救いに入りましょう。
自転車レース『ツール・ド・フランス』で連勝したアームストロングというアメリカ人がいます。彼は自転車の選手でしたが25歳の時にガンにかかります。彼は何ヶ月も化学療法を受けた後、毎日、家のソファーでごろごろしたり、ゴルフをしたりしていました。ある日、彼の奥さんが彼に言いました。「あなたは今、一つの決断をしなければならないと思うわ。これからずっとあなたはゴルフして、ビール飲んで、家でごろごろするつもりなの?」
アームストロングはこの妻の言葉で目が覚めました。「妻から言われた次の週には私はトレーニングを再開していました。私は生まれて初めてしっかりした目標を持って自転車に乗りました。ガンにならなかったら、私はツール・ド・フランスで優勝することは無かったと思います。ガンが、私に目的のある人生を生きる気持ちを与えてくれました。彼は人生の大事な決断をしなければなりませんでしたが、彼は狭い門を選びました。自分がガンだからと言い訳をして楽な道を選んでいたら彼がレースで優勝することは決してありませんでした。彼は狭い門を選んで勝利を経験しました。主イエスは、努力して狭い門から入りなさいと言っておられます。それは、その狭い門を通る時に、はじめて神の救い、永遠の救いをエルことができるからです。
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