礼拝説教
2002-09-29『主と共に生きる』(ヨハネの福音書14章1-3節)
(1)心を騒がしてはなりません。
読んでいる箇所は、主イエスが十字架にかかる前の夜、木曜日の夜、いわゆる最後の晩餐の時に主が弟子たちに話された言葉が記されています。13章では、主イエスは、弟子の一人が自分を裏切るということを話されたので、弟子たちは大きな不安に襲われていました。日曜日に主イエスがエルサレムの街に入った時は、群衆が熱狂的に歓迎していたのですが、その後、あっという間に群衆の主イエスに対する態度が変わり、主イエスに対する反感が高まっていました。そのような状況で、弟子たちの心は不安に襲われていたのです。私たちが生きている今21世紀も、不安に満ちた時代です。2000年から2001年に変わる時、21世紀という新しい時代を迎える時、多くの人は世界の平和と発展を願ったはずです。しかし、21世紀の最初の年にアメリカでテロが起こり、私たちの甘い期待や夢はいっぺんに吹き飛んでしまいました。科学の技術はどんどん進歩しているのに、私たちの社会には、ますます恐れや不安が増えています。
聖書には、私たちに向かって「心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言ってくださる主イエスがおられると書いてあります。私たちは不安を感じる時、誰かから慰めや励ましの言葉を言ってもらいたいものです。不安になったら誰かに電話をしたり、カウンセラーに相談したりします。教会にも、時々、突然、初対面の方が悩みを訴えに来られることがあります。おそらく、それは、その方が自分一人で不安や悩みを背負いきれないからだと思います。本当に、世の中には様々な問題や悩みを抱えている方がおられます。私は、ただお話を聞くばかりで、何もその方をお助けすることができず、自分の無力を感じます。しかし、聖書には、どんな人にも「あなたは心を騒がせなくてもいいのだよ」と語り掛けてくださる方、主イエスがおられると教えています。私は、悩みを訴えている人の心の痛みを100%理解することができません。100%同じように痛みを感じることもできません。自分には同じ経験がないからです。しかし、主イエスは私たちのどんな痛み、悩み、苦しみもすべて理解してくださいます。ヘブル人への手紙の中に次のような言葉があります。「主イエスは、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」主イエスは、まったく罪を犯していない聖なる神でしたが、最も大きな刑罰である十字架の苦しみを受けられました。もし、私たちが、何も罪を犯していないのに死刑にされたら、どのように感じるでしょうか。自分が無実であることを叫ぶでしょう。もし私たちが北朝鮮に拉致されて、処刑されるとしたら、どれほど苦しむでしょうか。自分には殺される理由がないのに殺されることは、私たちには耐えられない苦しみです。しかし、主イエスは、自分から進んでその苦しみを受けてくださいました。だから、苦しんでいる人を助けることができるのです。しかも、主イエスは、ただ十字架にかかっただけではありません。十字架にかかった三日後に確かに復活されました。主イエスが十字架につけられた時、信者の数はわずか100人あまりでした。一方、ローマの軍隊やユダヤ教には今の警察のような仕事をする人はたくさんいたはずです。信者は皆、自分たちも捕まることを恐れて隠れていました。そのような状況にも関わらず、歴史において今まで主イエスが死んで復活しなかったことを証明することのできた人は一人もいません。イエスの墓が空っぽであったことを否定することは誰もできませんでした。主イエスの復活はクリスチャンにとって信仰の土台です。主イエスの復活がなかったら、クリスチャンはまったく空しい夢を信じている世の中で最も愚かな人間だと言わなければなりません。しかし、主イエスは確かに復活されて、人間の心を縛る死の恐怖を完全にうち破ってくださったのです。その主イエスが「神を信じ、私を信じなさい。」と私たちに語り掛けておられます。
(2)わたしは場所を備えに行くのです。
と言われた主イエスは続いて次のように言われました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」多くの人は、死んだらすべてが消えてなくなると考えています。しかし、人間は、偶然にこの世に生まれて来て、いろいろ苦労をして、そして死んで消えてしまう、そのようなはかない存在でしょうか。聖書はそうではないとはっきりと教えています。人間は神のかたちに作られた者であって、非常に価値のある者なのです。神は、ご自分の栄光と喜びのために私たち人間を作られました。人間だけが他のすべての動物と異なって、神と人格的な交わりを持つことができるのです。神と心と心の通じ合わせるのができるのは人間だけです。私たちが神のかたちに作られている一つの証拠として、人間は、誰でも、永遠ということを考えます。永遠という言葉を持っています。つまりいつまでも続く世界があることが私たちの頭脳にインプットされているのです。人間はこの世だけで生きる者ではなく、この世を超えた世界知っており、また、この世を超えた世界に行くことができるのです。主イエスは、弟子たちに向かって「あなたたちは、天国に永遠に住むのだ」と言っておられるのです。そして、そのために「わたしは場所を備えに行く」と言われました。私たちは友達を自分の家に招くのが好きです。友達が来るとなると、うれしくていろいろ準備をします。部屋を掃除して、花を飾ったりして少しでも友達が喜ぶように工夫します。そしてどんな飲み物、食べ物を出そうかと考えます。人を家に招くのは楽しいことです。それは好きな友達とゆっくりリラックスしておしゃべりしたり、一緒に何かをすることは、大きな喜びだからです。主イエスは、復活の後に天国に帰られましたが、それは、私たちを迎える準備をするためだったのです。私たちのために、主イエスは天国に特別な場所を用意しておられるのです。天国がどんな場所か詳しいことは分かりません。しかし、それは例えで言えば、ゆったりとした応接間で、何かを飲みながら友達とゆっくり過ごす、そのような雰囲気ではないでしょうか。とにかく、そこは安らぎと喜びに満ちた場所なのです。私たちは、憎しみや争いに満ちたこの世の中では安らぎや喜びを経験することは少ないでしょう。しかし、天国では、主イエスが私たちを迎えるための準備をして待っておられるのです。
(3)わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
主イエスは言われました。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」主イエスは、天国で、私たちのために場所を準備してくださるだけではありません。主は「わたしはまた来る」と言われました。新約聖書の中で、主が再びこの世に来られることが、何度も繰り返して述べられています。主イエスが何の目的で再び来られるのか、それは、私たち主イエスを信じる人々を迎えるためであると言われました。主は場所を準備するだけでなく、個人的に私たちを迎えに来てくださるのです。使徒パウロはユダヤ教徒からクリスチャンになった人物です。彼は生涯をキリスト教の伝道にささげました。彼の働きには非常に多くの苦しみや困難が伴いました。しかし、パウロは天国の確信をしっかりと持っていました。ある時、彼は手紙の中でこう書きました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」普通の人にとっては、死ぬことは不吉なことです。つらく悲しいことです。しかし、パウロは自分にとっては死ぬことも益であると断言しています。彼は伝道の働きをすればするほど、様々な苦しみを味わいました。パウロはこの世の苦しみを考えると早くこの世を去って天国に言って、キリストともに本当の休息を味わいたいという気持ちになっていました。彼がここで心に葛藤を感じているのは、自分の気持ちとしては早く主イエスのもとへ行きたいが、自分にはしなければならない使命が残っていることを知っていたからなのです。パウロは様々な苦しみを堪え忍ぶことができたのは、彼は自分の永遠のふるさとは天国にあることを確信して疑わなかったからです。主は、天国で私たちとともに過ごすことを願っておられます。私たちはこの世の生活を終えると、私たちを待っておられる主イエスのもとへと移されるのです。
(結論)
人生の苦難を味わい尽くしたヨブという人がいました。ヨブは神の前に正しい人でしたが、ヨブは正しい生活をしていたにも関わらず次々に不幸が襲いました。ヨブは、「人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。」と言っています。人間とは生きる時に必ず苦しみを経験するのだと告白しています。しかし彼は、どんなときも「神は大いなる事をなして測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。」と言って「私はどんな時も神を探し求めるのだ」と言っています。私たちも、ヨブほどではなくても、この地上の生活で苦しみを味わうことがあります。しかし、私たちには、いつも「あなたは心を騒がさなくてもよい」と声を掛けてくださる方がおられます。主は、「ただ私を信じなさい。」とだけ言われました。私たちが完全に不安や恐れから解放される方法は一つだけです。素直に主イエスを信頼することです。主があなたのために天国で場所を準備しておられます。また、時が来れば私たちを出迎えてくださるとあります。今日は召天者記念礼拝です。主イエスを信じて、先にこの世を去った人々は、今、主イエスのもとで本当の安らぎを味わっておられます。黙示録には天国について次のように書いてあります。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」主イエスご自身が私たちの目の涙をふき取ってくださいます。そしてもはや、あらゆる悲しみ苦しみから解放されて、私たちは永遠に主イエスとの交わりを楽しむようになるのです。この希望を持って歩み続けましょう。
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