礼拝説教
2002-10-13『キリストの奥義』(エペソ3章1-6節)
(イントロ)
旧約聖書の人物ダビデの生涯を学んで来ましたが、今日から再び、今年のテーマ聖句であるエペソ人への手紙を3章から続けて行きたいと思います。エペソ人への手紙とありますが、これは正確に言うと「エペソ」という町にあった教会のメンバーたちに送られた手紙です。この手紙を書いたのは、キリスト教の歴史の中ではじめて外国の人々に主イエス・キリストを伝えた人物で、彼がいなかったら、キリスト教が今日のように世界中に広まっていなかったと思います。パウロは2回目の伝道旅行の時にエペソに教会を作りました。教会を造ると言っても建物を建てたという意味ではなく、彼の説教によってイエス・キリストを信じる人々が増えて信者のグループが生まれたという意味です。彼は一度エルサレムに戻った後、一年後に再びエペソを訪れ3年間エペソに住んでエペソの信者たちを養い育てました。パウロが一つの場所に3年間とどまったのはエペソだけです。ですから、エペソ教会のメンバーはパウロにとっても非常に親しみを感じていた人々でした。パウロはエペソ教会を離れて2,3年後に、イエス・キリストの教えを広めたことでユダヤ人の反感を買い、逮捕されて、ローマに送られました。ローマ皇帝の前で裁判を受けるためです。裁判が開かれるまで彼は監獄に入れられていました。このエペソ人への手紙は、パウロがローマの監獄の中にいたときに書かれた手紙です。彼は、エペソ教会の信者たちを励ますために、この手紙を書き、そしてテキコという名前の人物にエペソ教会まで持って行ってもらいました。今日は、その手紙の3章の1節から6節を読みました。この箇所から3つのことを学びたいと思います。
(1)キリスト・イエスの囚人となったパウロ(1節)
主イエス・キリストの教えを広めたためにエルサレムで逮捕され、ローマの監獄に送られました。パウロの教えによってクリスチャンがものすごい勢いで増えていたことに危機感を感じたユダヤ教の人々が陰謀を企ててパウロを逮捕しました。パウロはユダヤ人でしたが、ローマ帝国の市民権を持っていました。そのため、彼はローマ皇帝の前で裁判を受ける権利を持っていました。そのため、彼はローマに連れて行かれて、今、監獄の中に入れられているのです。しかし、パウロは決して絶望的になっていません。むしろ、監獄からいくつも手紙を書いて彼のことを心配しているいろいろな教会のクリスチャンたちに激励の手紙を書いているのです。監獄に入れられるということはつらい経験に違いありません。絶望的な気持ちになるのも当然のことです。しかし、パウロにはそのような絶望感はありませんでした。彼はローマの監獄からピリピという町の教会にも手紙を書き送っていますが、彼はその手紙の中でこう書いています。1章12〜14節です。「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました」パウロにとって生きることはキリストのために生きることでした。ですから、主イエスを信じる人が一人でも増えるならば、彼は自分が監獄に入れられることなどたいした問題ではありませんでした。自分が願う目的に役立つのであれば彼はどんなことにも耐えることができました。逆に、キリストのためなら、苦しむことも良いことだと彼は考えています。ビクター・フランクルというナチスのユダヤ人虐殺を乗り越えた心理学者がこのように言いました。「人は、(whyどうして)が分かっている限り、どんな(whatこと)にも耐えることができる。」パウロがローマでのつらい経験を乗り越えることができたのは、自分が何のために監獄に入れられているかを知っていたからです。彼は自分のいのちは神の手に守られていることを強く確信していたのです。聖書は、人はみな神によって作られた者だと教えています。しかも、ただ神によって作られただけではなく、エペソの2章10節を見ると、私たちは良い行いをするために神によって作られた者なのです。私たちは偶然、何の目的もなくこの世に生まれてきたのではありません。また、どうでもいいような生き方をするために生まれてきたのでもありません。神様が良い行いをする人間として私たちを作ってくださったのです。つまり、私たち一人一人は、大切な目的を持ってこの世に生まれた人間であって、その一人一人には、その人だけに与えられた目的、使命があるのです。パウロにとっては、ユダヤ人以外の外国人に主イエス・キリストのことを伝えることでした。パウロは自分が生きている目的を知っていたので、どんな境遇をも乗り越えることができました。
日本は北朝鮮による拉致事件のことで多くの人は心を痛めています。横田めぐみさんのお母さん、早紀江さんはめぐみさんが拉致されたあとクリスチャンになりました。自分の娘がいなくなって毎日泣いていたそうです。早紀江さんの言葉によると「自分の背中を包丁で切り取られたような寒いような痛いような、何とも言えない感覚」だったそうです。しかし、ある日、一人のクリスチャンの婦人が早紀江さんに聖書を渡して『「ヨブ記」を読んでみてください』と勧めました。ヨブ記を読んだ早紀江さんは人間の視野の小ささと神の摂理の大きさを知ったそうです。そして、どんな状況の中でも落ち着きを失わずに生きる道があることを知って、1984年に洗礼を受けられました。それからは心の深い部分に平安が訪れ、物事に動じなくなったそうです。神様の絶対的な主権を信じ「すべては神の御心中で進んでいる」と確信するようになりました。
早紀江さんは次のように言っておられます。「私が生きている間はめぐみを助けるために最大限の努力をします。そして結果は神様に委ねています。」早紀江さんも、自分に与えられた使命を知って、主の証し人として今がんばっておられるのだと思います。私たち一人一人、あなたにだけ与えられた使命・生きる目的があるのです。あなたに期待をし、あなたを守り導いてくださる神様がいることを知っている時、私たちは、生きる力が与えられるのです。パウロを支えてくださった神様は、私たちにも同じ助け、守りを与えてくださるのです。あなたは、パウロが持っていたような確信を持っていますか?あなたが生きているのは、神様の目的が広められるためであると考えて見てください。あなたは神様の御心を行うために作られた大切な人なのです。
(2)この奥義は啓示によって私に知らされたのです。(3節)
「この奥義は啓示によって私に知らされたのです。」と述べています。奥義と訳されているギリシャ語の言葉は「ミュステリオン」というのですが、この言葉から英語の「ミステリー」という言葉が生まれました。私たちはミステリーというとテレビでやっている殺人事件を考えます。複雑な殺人事件を刑事が見事に解決するドラマをかんがえますが、パウロは、まったく別の意味で「奥義」という言葉を使っています。1章8〜9節のパウロの言葉を読むと「奥義」の意味が分かります。「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることである」と書かれています。ここに書かれている「神が御子においてあらかじめお立てになった計画」とは主イエス・キリストの十字架を意味しています。これがなぜ奥義かというと、主イエス・キリストがこの世に来られるまでは私たちには隠されていた神の計画が、主イエスが来られたことによって明らかにされたという意味でパウロは奥義と呼びました。その奥義をパウロは啓示によって受けたと言っていますが、彼は、非常に不思議な体験をしていました。彼は、もともと熱心なユダヤ教信者で、キリストはユダヤ教をねじ曲げた危険な教えを語る人物だと考えていました。それで彼はクリスチャンを見つけだして捕えて殺すことに必死になっていました。しかし、そんなパウロにキリストが天から直接語り掛けられました。そのため、彼はそれまでのユダヤ教の教えをすっかり捨てて、キリストを信じる者に変わりました。天から聞こえてきた主イエスの言葉を通して彼は、神の計画をはっきりと知るようになったのです。
である神の計画とは何でしょうか。それは、パウロが3章の6節で説明しています。「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」主イエス・キリストが十字架にかかる前は、ユダヤ人とユダヤ人以外の異邦人の間に大きな隔ての壁がありました。ユダヤ人は自分たちだけが神に選ばれた民であり、神の恵みと愛を受けていると考え、外国人を差別していました。しかし、パウロは、主イエス・キリストによってユダヤ人と異邦人という区別はなくなるのだと述べています。それをパウロは3つの言葉で表しています。1)共同の相続者となる、2)一つの体に連なる、3)ともに約束にあずかる者となる、の3つです。
(1)共同の相続者になる。 わたしたちはある家に生まれると、その家の家族であるということで、財産を受け継ぐことができます。その人が、頭が良いとか悪いとか、また仕事ができるとかできないとかにまったく関係なく、財産を受け継ぐことができます。私たちは、主イエス・キリストを救い主と信じる時に、神の家族に迎えられます。例えで言えば、神の家族に養子に迎えられるようなものです。その時に、もはやユダヤ人と異邦人の区別はなくなります。家族の中でも、子供たちは一人一人性格も違うし能力も違います。しかし、財産を受け継ぐ場合には皆平等に分配されます。同じように、神様から受ける救い、天国で神と共に永遠に生きるという素晴らしい財産は、全ての人に平等なのです。
(2)私たちは、また、一つの体に連なると言われています。キリストを頭として、私たちはキリストの体である教会という体に連なる者になりました。体にはいろいろな器官がありますが、すべてはその形も役割も違います。目、口、耳、手、足、みな違います。しかしその一つ一つの部分が集まってひとつの体を作るのです。私たちの教会は、そのようにして集められたキリストの体です。パウロは他の手紙で次のように言いました。(第一コリント12章20〜25節)「しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」私たち、教会に集まっている一人一人は、皆、違っています。それが当然です。違う者が集められて一つの体を作っているのですが、それはパウロが言っているように、体の中に分裂がないように、各部分が互いにいたわり合うためなのです。
(3)また、私たち、主イエス・キリストを救い主と信じる者たちは「ともに約束にあずかる者」です。神を知らずに生きていた私たちは、神の約束を知らずに、永遠のいのちの希望を持たない者でした。キリストを信じる前は、自分の罪に縛られ神の裁きを受けなければならない者でしたが、主イエスキリストが十字架で私たちの身代わりになって罪の裁きを受けてくださったので、今、私たちは永遠のいのちの約束を受ける者に変えられました。私たちがパウロが言っているように、神の国の財産を受け継ぐ者となり、キリストの体に連なる者となり、そして、ともに神の約束を受けることができるのはすべて、わたしたちが主イエス・キリストを信じる時に実現するのです。私たちの力ではありません。キリストこそが、すべての祝福や希望の源です。そして、その希望は、ユダヤ人と異邦人、日本人と外国人、男と女、若者と老人、あらゆる区別を超えて与えられます。主イエス・キリストによって明らかにされた奥義の意味をしっかり掴んで、これからも、キリストの体である教会を作り上げて行きたいと思います。
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