礼拝説教
2002-10-20『キリストにある豊かさ』(エペソ3章7−13節)
(1)福音の奉仕者として生きる
クリスチャンになる前はばりばりのユダヤ教徒でした。ユダヤ教の中でも律法を守ることに熱心なパリサイ派というグループに属していましたし、当時有名だった律法学者ガマリエルの弟子として学んでいました。彼は外国人を軽蔑し、クリスチャンは危険なグループだと思い込んで、教会を激しく攻撃していました。宗教に熱心で、旧約聖書の教えには詳しかったのに、彼はクリスチャンへの憎しみから彼らを殺すことに賛成していました。ところが、そんな彼が突然変えられて、外国人にキリストの教えを伝える人に変えられたのです。それはパウロ自身の意思の力ではなく、神様の力が働いた結果です。彼はクリスチャンを殺す目的でダマスコという町へ向かっている時に、天から復活の主イエスの声がするのを聞いて、そこで主イエスを信じる者に変わりました。パウロ自身が信じられないような突然の変化でした。彼が3章の2節で、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と自分のことを呼んでいるのは、自分がかつてはクリスチャンたちを迫害していたことから、そのように呼んでいるのです。パウロがクリスチャンになり、しかもキリストの教えを広める伝道者の働きをはじめると、ユダヤ教徒の中に、パウロのいのちを狙う者たちが現れました。また、彼が改心してすぐのころはクリスチャンの中にもパウロを受け入れない人々がいました。そして、彼の伝道の働きには多くの困難が伴いました。しかし、パウロは、自分が以前は軽蔑していた外国人に以前は反対していたキリストの教えを広める働きを与えられたことは神様の恵みであると語っています。彼は、自分が伝道者としての務めを与えられたのは、自分が優れていたからではなく、神様が一方的に与えてくれた恵みであると述べています。先ほどのパウロが自分を呼んでいる言葉「すべての聖徒たちのうちで一番小さい私」の中の「一番小さい」という言葉はパウロが文法の規則を無視して造った言葉です。厳密に言うと「一番小さいよりももっと小さい」というような言葉です。彼は別の手紙の中では「自分は罪びとのかしらです。」とも言っています。彼は、自分がクリスチャンを迫害したり、自分が直接手を下さなかったとしてもクリスチャンを殺すことに賛成していたという事実を一生忘れることはできませんでした。ですから、パウロには、神様の愛が他の人以上に強く感じることができたのです。そして自分が神の前には本当に価値のない人間であることを知っていました。このようなパウロの自己評価は決して彼の伝道者としての働きを妨げるものではありませんでした。むしろ、彼の働きの力の原点は自分のような小さな者にすばらしい働きを委ねられたことを感謝して、どんな困難にもめげず、神から受けた務めを最後まで熱心に働き続けました。
パウロのようにクリスチャンや教会を迫害したことはなかったでしょう。しかし、イエス・キリストを信じて神の子供とされる以前は、神を無視して生きていました。神よりも自分のことを第一にする自己中心な人間でした。決して、神の前に誇れるようなものを持っていませんでした。しかし、そのような私たちに神はいのちを犠牲にするほどの愛を示してくださいました。ある時律法の専門家が主イエスに質問しました。「律法に、隣人を自分と同じように愛しなさいと書かれているが、隣人とは誰なのか?」この質問に対して主イエスは一つのたとえ話を話されました。「一人のユダヤ人がエルサレムからエリコという町に行く途中、強盗に襲われて気を失って道端に倒れていました。そこにユダヤ教の祭司とレビ人が通りかかったが、二人ともその人を見ると道の反対側を通り過ぎて行きました。その後で、ユダヤ人とは敵対関係にあったサマリヤ人の一人が通りかかると、その人をかわいそうに思って近づき手当てをしてあげて、その後一緒に宿屋に行きました。次の日にそのサマリヤ人は2デナリという大金を払って、宿屋の主人にけが人の世話を頼んで出かけて行った。」この話をした後でイエスは質問をした律法学者に「祭司とレビ人とサマリヤ人で誰がけが人の隣人になりましたか。」と尋ねました。答えはもちろんサマリヤ人です。隣人とは、私たちがたまたまそばにいることで隣人になるのではありません。誰でも、私たちが愛を持って近づくときに、その人は私たちの隣人なのです。しかし、私たちは敵対関係にある人の隣人になることはできません。主イエスのたとえ話の中で、ユダヤ人を助けたサマリヤ人は神様を表しているのです。私たちは、神様を知らずに生きていました。神様を無視して自分勝手に生きてきました。あるいは、神様に逆らって、反感をもって生きてきました。しかし、神を知らずに生きていた人間は皆、自分の罪や欲望に縛られ、神の約束から引き離されていて、永遠の希望を持っていませんでした。ある意味で、道端に倒れていたあのユダヤ人と同じです。しかし、神様は私たちを見て、祭司やレビ人のように無視したり、関わりをもつことを避けたりせずに、私たちを「かわいそうに思って」近づき、私たちが罪の束縛から解放されて生きていけるように働いてくださいました。ぺテロは自分が書いた手紙の中でこう言っています。「キリストが十字架で受けたうち傷のゆえにあなたがたは癒されたのだ。」私たちが真の希望、永遠の希望と平安を持って生きていくために、主イエスが十字架と言う大きな犠牲の働きを完成してくださったのです。パウロは自分に示された神の愛が良く分かりました。神の民を苦しめていたから、なおいっそう神の愛が分かりました。しかし、私たちにも同じ神の愛が示されたのです。クリスチャンというのは、神の大きな愛と驚くような力が働いて、神を信じる者に変えられた人々です。
(2)キリストの測りがたい富
神の前に自分は価値がない人間であることを知っていましたが、そのような自分に神が委ねた福音がどんなにすばらしいものであるかということを実感していました。パウロの務めは福音を宣べ伝えることでしたが、彼は福音とはキリストを信じる者に与えられている測りがたい富であると言っています。クリスチャンは皆、キリストを信じることにより、測りがたい富を持っているのです。神を信じる人がどんなに恵まれた状況にあるのか、私たちはもっと深く知る必要があります。私たちは誰でも富を持ちたいと思います。しかし、主イエスは説教の中で、この世にある富、この世にある宝は虫やさびによってだめになったり、盗人に盗まれてしまうと言われました。結局、この世で私たちが手に入れる富は動物や自然現象や他の人間によって壊されたり取られたりするのです。また、何とかがんばって、自分の手元に持っていても、私たちは死ぬときにはそれを誰かに渡すことになります。神様は富を悪いものだとは言っていませんが、そういうものばかり追い求めていると、結局、自分のところに何も残らないのだ、主イエスは教えています。それに比べて、キリストの測りがたい富は虫に食われることも、さびだらけになることも、泥棒に取られることもありません。このキリストにある富とは何でしょうか。
(1) 神の永遠のご計画
私たちにとって最も大切なものはいのちであると教えています。全世界のすべてのものを手に入れたとしても、いのちを失ってしまえば全く意味がないからです。どんなに財産を蓄えても、どんなに仕事で成功しても、どんなに有名になったとしても、いのちには変えられないからです。しかし、11節に書かれている「私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画」とは、御子イエス・キリストを信じる者が一人も滅びることなく永遠のいのちを持つことなのです。主イエス・キリストが私たちの身代わりとなって十字架のうえで成し遂げてくださった働きによって、信じるすべての者は罪の許しと平安を与えられます。そして、その人のいのちは肉体の死によって終わることなく永遠に神と共に生きるいのちへと変えられます。この計画は、パウロの言葉によると「万物を創造された神」が永遠に持っておられたものです。長い間、その計画は実行されなかったのですが、神様の計画の通りに、時が来ると、主イエス・キリストによって実現しました。しかも、この計画はユダヤ人だけではなく全世界のすべての人のために神様が永遠の初めから持っておられた計画だったのです。
このすばらしい永遠の計画を、教会を通して全世界の人々に広めようしておられます。ですから、他の人よりも先に救われた私たちクリスチャンにはパウロと同じ務めが委ねられています。わたしたちの働きは、決して自分たちだけのものではありません。この世界を造られた神様の永遠の計画を進めるための働きなのです。私たち一人一人、そして教会は、キリストの測りがたい富、すなわち、神様が永遠の昔から持っておられた計画を伝えるという栄光に満ちた務めをゆだねられているのです。
(2) 大胆に確信をもって神に近づく
主イエス・キリストを信じるとき、大胆に神に近づくことができます。そして、神が持っておられる天にある測りがたい富を受け取ることができるのです。旧約聖書の時代、ユダヤ教の教えでは、大祭司と呼ばれた人だけが神の前にでることが許されていました。しかも、一年に一度だけわずかの時間だけ神の前に出ることが許されていました。しかし、神のひとり子イエス・キリストがこの世に来て、十字架で私たちの罪を背負って犠牲の死を遂げてくださったことによって、神の永遠の計画が完了しました。ですから、今、主イエスを信じる者はいつでも、大胆に自信を持って神に近づくことができるのです。だれでも、位の高い人に近づくとき、恐れを感じます。しかし、主イエス・キリストを信じる者は何も恐れる必要がありません。今、私たちは、祈ることを通して、いつでも神に近づいて、神に直接祈ることができるのです。私たちは苦しいときだけでなく、いつでも、神に近づくことが許されています。
クリスチャンの特権を述べた後に、パウロはエペソのクリスチャンに励ましの言葉を贈っています。13節「私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」エペソのクリスチャンたちはパウロがローマで長い間監獄に入れられているので、悲しんでいました。しかし、パウロは自分の苦しみは彼らの栄光だと言っています。それは、パウロがもしエペソで伝道しなかったら、投獄されることはなかったからです。しかし、同時に、エペソ教会のメンバーたちはパウロから福音を聞くことがなく、主イエスを信じることもありませんでした。パウロの苦しみは、ちょうど母親がこの世に新しいいのちを生み出す時に経験する苦しみのようなものでした。キリストを信じる新しい人々を生み出すために、パウロは苦しみを耐えていました。しかし、その苦しみは希望にあふれた苦しみだったのです。ですからパウロはローマ人の手紙の中でこう言いました。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」私たちも、この世でどのような経験をするか分かりません。しかし、将来、私たちに啓示されようとしている栄光をいつも覚えて、大胆に神に近づきつつ、日々歩んで行きたいと思います。
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