2002礼拝めっせーじ

礼拝説教10/27|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-10-27『内なる人を強められる』(エペソ3章14-21節)

エペソ人への手紙
は、パウロという人物がエペソという大きな町にあった教会の信徒たちに宛てて、書かれた手紙です。前にも言ったように、この手紙はパウロの人生の晩年にローマの監獄で書かれた手紙です。当時はキリスト教に対する迫害が非常に強くなっていました。パウロもそのためにローマの監獄に入れられていました。彼は現在のトルコやギリシャの町々でキリストの教えを広め、教会を作りました。中でも、エペソは当時ローマをのぞいて最も大きな町でした。この町は商業の中心地で、大きな港を持っていました。また、エペソで最も有名な建物はアルテミス神殿でした。アルテミスという女神を祭る神殿は全部大理石で作られており、アテネにあるパルテノン神殿の5倍の大きさがありました。作るのに220年かかったそうです。そのような神殿がある町でキリスト教の信仰を持つことは大きな戦いでした。パウロは2年間エペソに滞在しましたが、その間、彼は大変な苦労をしたようです。別の手紙の中でパウロは「わたしはエペソで獣と戦った」と書いています。皆さんも映画で見たことがあるかも知れませんが、当時、多くのクリスチャンが捕まえられてライオンにかみ殺されました。ローマ帝国はクリスチャンを競技場に閉じこめ、そこに腹を空かせたライオンを放したのです。パウロは実際にそのようなライオンとの戦いのことを言っているのではありませんが、それと同じぐらいにもう絶対に助からないと思ったほどの苦しみを味わったに違いありません。彼はエペソの町の状況を知っていましたから、ローマの監獄の中にいても、エペソのクリスチャンたちのことが頭から離れませんでした。今日、読んだ箇所は、エペソのクリスチャンのためにパウロがお祈りを捧げています。14節に「こういうわけで、私はひざをかがめて祈ります。」と書かれています。実は、当時のユダヤ人は、祈るときには立って祈るのが普通でした。今でも、ユダヤ人はエルサレムの嘆きの壁の前に立って祈ります。しかし、真剣な祈りを捧げる時、人は跪きました。パウロはエペソのクリスチャンたちのことを考えると、自然に跪きました。彼はそれほど真剣に祈っているのです。今日の箇所でパウロは三つのことを祈っています。
(1)あなたの内なる人を強くしてくださるように
パウロの
第一の祈りは「内なる人を強くしてくださるように」という祈りでした。「内なる人」というのはイエス・キリストを信じた人々が受ける新しいいのちです。一方「外なる人」というのは私たちが生まれつき持っている自分のすべてを意味します。それは私たちの体であり、また、神を信じないで自己中心な生き方をする自分です。パウロは別の手紙の中で、「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新しくされる」と言いました。私たちは外側の自分を頼りにし、外側の自分を誇ろうとします。しかし私たちの体力も頭の力も日々衰えて行きます。若い人には分からないでしょうが、私自身、目は見えなくなるし、物忘れはもともとひどかったのがますますひどくなるし、少し走ったら息が切れるし、本当にがっかりします。今、どんなに優れた力を持っていても、外側の自分は必ず衰えます。しかし、内なる人は日々新しい力を得ることができるのです。人の本当の強さとは、この内なる人の力です。それは自分で生み出す力ではありません。私たちが主イエス・キリストを信じる時に、主イエスが聖霊という目に見えない姿で私たちの心に入ってくださいます。それは神の約束です。聖霊が私たちの内側で働いてくださって、私たちを日々新しく変えてくださいます。どのように変わるのでしょうか。それは私たちが少しずつ主イエス・キリストに似た姿へと作り変えられていくのです。クリスチャンとは、このような内なる人、新しいいのちを与えられた者です。だから信じることを新生、新しく生まれるとも言うのです。主イエス・キリストを信じた時、私たちは霊的な赤ちゃんとして生まれます。ですからクリスチャンは皆、成長しなければなりません。赤ちゃんの体が食事と運動をすると自然に成長するように作られているように、私たちの内なる人も、聖書のことばに養われ、祈りによって神と交わりを持つことを通して成長するように作られています。ただ、栄養が足りなかったり悪い菌が体の中に入ると成長しなかったり病気になるのと同じように、私たちが十分に御言葉に養われなかったり、悪いものが内なる人に入ると強くなることができません。パウロは、エペソのクリスチャンたちが外側の力でなく、どんな状況にも動かされることのないように、内なる人が強められるようにと真剣に祈っています。私たちも、肉体の鍛錬も有益ですが、それ以上に内なる人が強められることが大切です。
(2)キリストが心のうちに住むように
この祈りは
「内なる人を強くしてくださるように」という第一の祈りと同じ祈りを別の言い方で表したものと言えます。最初の祈りでは、パウロは「父なる神が、御霊によって、あなたがたの内なる人を強くしてくださるように」と祈りましたが、御霊とは復活の主イエス・キリストの御霊のことです。内なる人が強められることと、キリストの御霊が心のうちに住んでくださることは同じことなのです。ところで、17節でパウロは3つの動詞を使っています。一つは「キリストが心の内に住む」の「住む」という言葉です。次に、「愛に根ざす」という言葉、3番目に「愛に基礎をおいている」という言葉です。「住む」と訳されているギリシャ語の言葉は一時的に滞在するという意味ではなく、「落ち着いてゆっくりする」という意味を持っています。ちょうど今、拉致の被害者たちが日本に一時帰国をしていますが、実際的にも気持ち的にも、彼らは中途半端な状態になっています。家族が全部日本に帰国してはじめて5人の方々は本当のくつろぎ、安らぎを感じるでしょう。そのような気持ちを表す言葉が用いられているのです。私たちが主イエス・キリストを信じる時、キリストが目に見えない御霊というかたちで私たちの心の中に住んでくださいます。それは一回だけのことですが、その後、キリストはいつまでも私たちの心の中にとどまり続けてくださいます。キリストは私たちの心の中から出ていったり戻ってきたりするのではありません。主イエスがこの地上で弟子たちに最後に言われた言葉は「見よ。私は世の終わりまでいつまでもあなたがたとともにいます。」というものでした。しかし、せっかく心のうちに入ってくださった主イエス様ですが、私たちの心が、本当に主イエスを歓迎して受け入れる心がないと、イエス様も、私たちの心の中でふるさとに帰ったようなくつろいだ気持ちを持つことはできないでしょう。主イエスは、私たちの心にお客さんとして来るのではありません。私たちの主として来られるのです。私たちは主の祈りで「御国が来ますように」と祈りますが、日本語では「御国」と訳されていますが、ギリシャ語では「あなたの王国が来ますように」となっています。それは、2つの意味があると思います。一つは、この憎しみや苦しみに満ちた罪深い世界に神の支配が来るようにという祈りであると同時に、一人のクリスチャンとしては、「主よ、どうぞ、私を支配する王様として私の心に入ってください。」という祈りです。クリスチャンは、主に心から従う気持ちで主イエスを迎えていないと心のうちに住んでくださるキリストも居心地が悪く、私たちと主イエスの関係は深まりません。
またパウロは

「愛に根ざし」と言っていますが、私たちは神の愛に根ざすことが必要です。木や草がしっかり生長していくためには、地面の中に値を深く延ばしてたくさんの栄養を吸収することが必要です。また根が深くのびることによって風が吹いても倒れないしっかりした木や草になります。同じように、クリスチャンも、神の愛を十分に受け取るためにしっかりと根を伸ばさなければなりません。私たちは、主イエス・キリストが十字架で示してくださった愛をもっともっと深く知らなければなりません。私たちがキリストに愛されていることを知り、それを味わえば味わうほど、他のひとを愛することができます。私たちクリスチャンにとって最も大切なことは神の愛を知り、神の愛を心から喜ぶことです。そして私たちは「愛に基礎をおく」者です。この「基礎を置く」という言葉は建築の言葉です。建物を建てる時に最初に作る基礎のことです。建物を建てる時に一番大切なのは基礎の部分です。上の部分がどんなに立派でも、基礎がひどいなら、建物を倒れてしまいます。高い建物を建てるためには、それだけ深く基礎を作らなければなりません。私たちクリスチャン生活の基礎はやはり、神の愛です。神の愛を深くけいけんすることによって、私たちの信仰がしっかりして、人生で嵐のような大変なことが起こっても倒れずに立ち続けることができます。私たちはいつも心のうちにおられる主イエス・キリストを意識して、主と深い交わりを持つことがなによりも大切です。

続きがありますが、原稿途中です。

神様は、



私たちが


そのような



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