礼拝説教
2002-11-03『キリストにある一致』(エペソ4章1-6節)
(イントロ)
の4章の1節で、パウロは「主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と語っています。ここからエペソ人への手紙は第2部に入って行きます。パウロの手紙はいつもそうなのですが、最初に私たちが何を信じているのかという教理について語っています。そして後半は、その教理を信じたクリスチャンがどのような生活をするべきかという具体的な問題を論じています。この順番は大切です。最初に教理、次に実践です。というのは、私たちの行動パターンは何を信じているかによって決まるからです。パウロは、エペソ人への手紙の前半で神の奥義について語りました。それは永遠の昔から神様が私たちのために持っておられた計画を示すものでした。その計画はイエス・キリストの十字架によって実行に移されました。十字架はあらゆる隔ての壁を崩しました。神と人間の間の壁がなくなりました。人は自由に大胆に神に近づくことができるようになりました。そして、ユダヤ人と異邦人の区別もなくなりました。国籍や人種や男・女、年齢などに関係なく、すべての人は罪を赦されて神様と交わりを持つことができるようになったのです。イエス・キリストを救い主と信じたクリスチャンは、この神様との交わりに加わった人と言うことができると思います。以前は全く神を知らずに、神を無視して、あるいは神に反抗して生きてきた私たちだったのですが、神様は私たちを呼んでくださって、神との交わりの中に入れてもらったのです。私たちは誰かを自分の家に呼んでパーティーをするとき、招待する人を選びます。一緒にいて楽しい人に来てもらいたいと思います。私たちが救いに導かれたことは本当に不思議です。世界に何十億というたくさんの人がいるのに、どういう訳か神様は私という一人の人間を選んでくださったのです。本当は神様の家族になれるような人間ではないのに、罪と汚れに満ちた人間なのに、神様は私を、またあなたを選んでくださり、救いに招いてくださいました。そのような神様の好意をむだにしないために、パウロはエペソのクリスチャンたちに「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」と勧めています。神様の召されて神の家族の一員に加えてもらったのだから、それにふさわしい生き方をしなさいと言うのです。神の召しのふさわしい生き方とはどんな生き方なのでしょうか。それをパウロは、この手紙の4章で2つの面から考えています。クリスチャンとしてふさわしい生き方の一つは「一致する心」を持って生きる生き方です。もう一つは「聖い」生活です。今日は4章の1節から6節までの箇所から、クリスチャンにとってふさわしい生き方の一つ、一致した心を持って生きる生活について考えたいと思います。
(1)一致を作り出す心(4章2節)
パウロは2節で「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合いなさい」と述べています。パウロは一致をもたらすのは一人一人の心の性質だと教えています。パウロは4つの性質をあげています。謙遜、柔和、寛容そして愛をもって互いに忍耐する心です。最初の「謙遜」ですが、主イエスの時代のギリシャ・ローマの世界では「謙遜」という性質は奴隷が持っている性質だと軽蔑されていました。当時は「強い心を持った人」、自信に満ちた人が尊敬されていました。パウロは謙遜に「柔和」という心を加えました。柔和な心とは弱い心ではありません。臆病な心でもありません。「柔和」というのはきちんとコントロールされた強い心を意味します。主イエスはご自分のことを表すのに謙遜と柔和という言葉を使っておられます。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」主イエスは心優しく、へりくだった謙遜な方なのです。
(2)キリストの測りがたい富
自分は価値がない人間であることを知っていましたが、そのような自分に神が委ねた福音がどんなにすばらしいものであるかということを実感していました。パウロの務めは福音を宣べ伝えることでしたが、彼は福音とはキリストを信じる者に与えられている測りがたい富であると言っています。クリスチャンは皆、キリストを信じることにより、測りがたい富を持っているのです。神を信じる人がどんなに恵まれた状況にあるのか、私たちはもっと深く知る必要があります。私たちは誰でも富を持ちたいと思います。しかし、主イエスは説教の中で、この世にある富、この世にある宝は虫やさびによってだめになったり、盗人に盗まれてしまうと言われました。結局、この世で私たちが手に入れる富は動物や自然現象や他の人間によって壊されたり取られたりするのです。また、何とかがんばって、自分の手元に持っていても、私たちは死ぬときにはそれを誰かに渡すことになります。神様は富を悪いものだとは言っていませんが、そういうものばかり追い求めていると、結局、自分のところに何も残らないのだ、主イエスは教えています。それに比べて、キリストの測りがたい富は虫に食われることも、さびだらけになることも、泥棒に取られることもありません。このキリストにある富とは何でしょうか。
作り出す心は謙遜と柔和だけではありません。パウロは「寛容を示し、愛をもって互いに忍び合うこと」と言っています。あるアメリカの大きな教会で深刻な分裂が起きました。教会の中が二つのグループに完全に分かれてしまい、最後には互いに裁判で相手を訴えてしまいました。結局、教会の土地・建物は一つのグループに与えられ、もう一つのグループは出ていって、別の教会を作りました。ところが裁判をしている中で分かったことは、この深刻な分裂のきっかけになったことがあまりにも小さなことだったのです。それは、教会で夕食会が開かれた時に、一人の長老に配られたハムが、隣に座っていたこどもよりも小さかったのが裁判にまでなった教会分裂の発端だったのです。罪を持つ私たちの心に、忍耐と相手を許す愛がなかったらこのような結果を引き起こしてしまうのです。私たちが生まれつき持っている愛は自分が好きな人や自分に好意を持ってくれる人だけしか愛することができない愛です。しかし、主イエスは十字架の上で敵を許す愛を示してくださいました。主イエスはののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。私たちがこの愛を受け取っていく時に、互いに許し合い、互いに忍耐し合うことができるようになるのです。
が2節で伝えようとしていることは、クリスチャンの一致は外側から作られるものではなく、心の持ち方から始まるということです。教会が組織を作ったりルールを作ったりするだけで一体が生まれるのではありません。それらも大切なことですが、一致の本質は一人一人の心の中にあるのです。教会の一致をパウロは「御霊の一致」と呼びました。それは、教会の真の一致は主から与えられるものだという意味だということです。教会に一致を与えてくださるのは「御霊」である神ご自身です。だからこそ、教会の一致は大切なのです。私たちは、この一致を実現するために神に召されたと言うことを忘れてはいけません。
(2)教会の一致はどこから来るのか(4−6節)
4節から6節のところで教会の一致がどこから出発するのかを述べています。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」この言葉は、初代教会のクリスチャンたちが信仰告白として礼拝の中で告白していた言葉だと考えられています。この言葉から、教会の一致は三位一体の神の一致から出発していることが分かります。まず4節では「からだは一つ、御霊は一つです」と言われています。からだとは、キリストのからである教会を意味します。ここでは教会とは、北本福音キリスト教会など、この地上に作られている一つ一つの教会を指すのではなく、世界中のキリスト信者の集まりという意味での教会を意味します。ユダヤ人も異邦人も、主イエスキリストを信じる時に、みな同じ一つの体に加わるメンバーにしてもらったのです。ですから、パウロは別の手紙で、「主イエス・キリストを信じる人々は、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受けた。」と述べているのです。教会は一つのからです。そしてこの体は聖霊によって建て上げられるものであり、聖霊が一つにまとめてくださるのです。教会には様々な人が集まっています。体つきも顔もみな違います。性格も違うし、賜物や働きも違います。しかし、からの部分はみな違っても体が一つであるように、私たち一人一人が御霊に導かれて生きる時に、私たちは決して争いを好んだり、分裂を引き起こしたりするようなことはないはずです。
5節には「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです」と書かれています。主とはもちろん私たちの救い主イエス・キリストのことです。主は一つですから、私たちの信仰も一つしかありません。私たちの信仰の対象は主イエス・キリストだけだからです。そして同じ信仰を与えられた人たちは、一つの体を作るメンバーになるために一つの洗礼を受けたのです。私たちは洗礼を受けたときに、この教会のメンバーになりましたが、実は、それだけではありません。全世界にいるクリスチャンたちと一緒にキリストを信じる人々の一つの共同体に加わったのです。ですから、私たちは世界中のどこに行っても教会に行けば、そこで主にある兄弟姉妹に出会うことができます。そして私たちは皆、同じ希望を持っています。それは主イエス・キリストがもう一度私たちのところに来てくださるという望みです。
6節でパウロは「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」と述べています。私たちクリスチャンが教会で兄弟姉妹と呼び合うのは、私たちが信仰を持った時に、同じ神を私たちの霊的なお父さんとして持つようになったからです。この世にあるすべてのものは天地創造をされた神から生まれました。すべては神の言葉によって生まれたのです。すべてのものの源である神は私たちの父なる神です。父親は子どもを養い子どもを守る責任があります。この世の中には、そのような務めをちゃんと行わない父親もいます。しかし、天の父は完全なお方であり、私たちを完全に愛し、そして完全に守ってくださる方です。教会の一致は、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神が完全に一つであるように、いつまでも続くものであり、決して壊れることのない一致なのです。
(3)御霊の一致を熱心に保ちなさい
教会は本来一つであるはずなのに、どうして、この世の教会には分裂が起きるのでしょうか。私たちは主イエスの十字架によって罪を赦されました。しかし、私たちの内側にはまだ罪の残りかすが残っているため、不一致が起きてしまうのです。そのことを知っているパウロはエペソのクリスチャンに対して3節で「御霊の一致を熱心に保ちなさい」と命令しているのです。それは、熱心に一致を保つように求めないと一致を保つことはできないからです。罪の残りかすを持っている私たちは常に主イエスを見上げて、主イエスの模範に従う決意が必要なのです。クリスチャンが集まれば自動的に一致が実現するのではありません。一人一人の信者の努力が必要です。熱心にと訳されている言葉は、もともとは「急ぎなさい」という意味を持つ言葉です。ですから、私たちはぼやぼやしている暇は無いのです。いつも目を覚まして、教会が一つとなるように、私たち一人一人があらゆる努力をしなければならないのです。教会にはライバル争いや分裂争いは許されないことです。神が一つにしようとしておられるのに、私たち人間がその一致を妨害することは神様に対する大きな罪です。ヨハネ第一の手紙1章3節でヨハネは次のように言いました。「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」私たちの交わりは、父なる神、御子イエス・キリストとの交わりです。ヨハネが教えていることは、私たちが父なる神、御子イエス・キリストと深い交わりを持てば持つほどに、私たちのお互いの交わりが深くなり、一致に向かう交わりになるということです。私は1976年にモントリオールでオリンピックが開かれた時に、モントリオールでの伝道の働きに参加しました。世界50以上の国からクリスチャンの若者が1500人集まりましたが、伝道に出かける前に学びの時がありました。その中でクリスチャンの一致というテーマでメッセージが語られました。参加者の中にはイスラエルのクリスチャンもエジプトのクリスチャンもいました。当時このふたつの国は戦争をしていました。このメッセージが終わると、自然に二つの国のクリスチャンたちが近寄ってお互いに赦しを求めて抱き合いました。とても感動的な光景で、私にとって今も忘れることのできない光景でした。私たちがキリストの愛にふれ、聖霊に満たされる時、あらゆる感情を乗り越えて一つになることができることを、私ははっきりと自分の目で確かめることができました。私たち一人一人は、このことのために、神様によって選び出され、神によって召されました。ですから、私たちは、その召しにふさわしい生き方をしなければないのです。
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