2002礼拝めっせーじ

礼拝説教11/10|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-11-10『愛の内に成長しなさい』(エペソ4章7−16節)
(イントロ)
今日
読みましたエペソ人への手紙4章7節から16節のところで、パウロは神様がどのようにして教会を成長させてくださるのかということを書いています。しかし、それはただ教会に集まる人数が多くなるという意味での成長ではありません。体が成長する場合、骨や筋肉も少しずつ太く強くなって成長した体を支えています。同じようにキリストのからだと言われる教会、この世から救い出されてここに集められた私たちの群れも、一つ一つの部分が強くなることによって全体が成長していきます。人間の体が突然成長を止めてしまったら、それは大きな悲劇です。大人になるまで成長を続けることできるように体は作られていますし、また成長を続けなければなりません。私たちのこの群れも同じです。私たち一人一人は信仰の面でも強くなることができますし、また強くならなければならないのです。私たちの教会が成長を止めてしまうことがないように、この成長の秘訣を学びたいと思います。
(1)賜物の量りに従って恵みを与えられた 。
パウロは、
7節で「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」と述べています。パウロは恵みという言葉を使っていますが、ここでは、「恵み」とはどういう意味があるのでしょうか。パウロはローマ人への手紙12章6節でも「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っている」と述べています。私たちは一人一人、神様が与えようと思われ分量の恵みを与えられています。その恵みは私たちのうちに働いて、何か神様のために役に立つことができるように私たちを助ける力となるのです。全ての人は神様の働きに役立つ才能・賜物が与えられています。日本の方は表向き謙遜な方が多いので「わたしは何もできません」と言う方が多いのですが、これは事実ではありません。なぜなら全ての人に神様から恵みとして何かが与えられていると聖書が約束しているからです。ですから、神様の目にはすべての人が高価で貴い存在なのです。神様から見放されている人は誰一人いません。教会が力をつけて成長していくためには、全ての人、一人一人の働きが必要なのです。私たちは一つになるように、皆、違った所から、違った性格や長所・欠点を持った者として、この教会に集められました。体にはいろいろな器官があるけれども、それぞれが一つになって働いているから、私たちの体は様々な働きをすることができるのです。全能者である神様は、私たち一人一人に異なった賜物を与えてくださいました。ですから、教会が神様の願っている通りの成長をし、神様からゆだねられた働きを十分に行うためには、教会のメンバーはお互いを必要としているのです。十分に練習を重ねた100人のオーケストラのメンバーは非常に美しい音楽を演奏することができます。しかし、もし同じ100人がそれぞれ他のメンバーのことを全く考えずに自分勝手な演奏をすると、耳を塞ぎたくなるようなひどい音を作るだけで、聞いている人には耐えられないものになってしまいます。それは教会も同じです。私たち一人一人が全力を尽くして主イエスに従うことだけを考えて教会生活を行うならば、その教会には美しいもの、素晴らしいものが満ちあふれるでしょう。
ここで
パウロは救い主イエスのことについて語っています。8節で「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」これは、ローマ帝国時代の戦争後のパレードをイメージした言葉です。当時は戦争に勝った将軍は、敵の国の捕虜を捕まえて彼らをローマの群衆の前を歩かせます。そして敵の国から奪ってきた宝物や珍しいものを人々に見せるのです。私たちの救い主は、罪に満ちておりその結果、全ての人は死ななければならないようになっているこの世界に来て下さいました。主イエスは永遠のお方であり、天においても地においても一切の権威を与えられている方ですが、その方が自分栄光に満ちた立場を捨てて私たちが住むこの世界にまず降りて来られました。そして自分から進んで十字架にかかって下さいました。主イエスの十字架の死は、実は、人間を罪の裁きと死の恐怖から救い出す神の勝利を示すものなのです。主イエスは十字架の上で罪と死に対する闘いに勝利しました。だから、主イエスの十字架の最後の言葉は「完了した」という言葉だったのです。この勝利を獲得して、主は、人々を誘惑し縛り付ける悪魔を縛り付け、罪と死をも滅ぼして、天に戻りました。勝利の凱旋の行進をされました。「主イエスが多くの捕虜を引き連れ高いところに上られた」と書かれているのはそういう意味なのです。当時の習慣として、戦争で勝って敵から奪ってきた宝物の一部は、人々に配られました。パウロがなぜ、このようなことを述べているのでしょうか。それは、罪と死に対して完全な勝利を収めた主イエスは、天に戻られて、そこから、主イエスを信じる人々に、賜物を与えてくださったことを人々に知らせるためでした。私たちは、一人一人、勝利者である神様から賜物をいただいているのです。
私たちが
誰かに何かをプレゼントするとき、それが何か道具のような場合、それを使ってほしいと思います。せっかくプレゼントをあげても、受け取った人がそれを大事にしまっておいて全く使わなかったら少し残念な気持ちがします。神様は、私たちに、賜物を与えて下さいました。皆さんが感じようと感じまいと関係なく、神様は与えておられます。そのように聖書の言葉が宣言しているのですから。神様からの賜物を受け取った私たちは、それがどのような賜物であるかをよく調べて知ることが必要です。そして、それを使うことが大切です。神様の願いは、教会の一人一人が強くなって、そして教会全体がしっかり成長することです。教会全体の成長のために私たちはその賜物を用いることが、神様を最も喜ばせることになるのです。もし、皆さんが、自分に与えられている賜物が何か分かっているならば、神様に、その賜物を使うチャンスを与えて下さいと祈りましょう。また、まだ自分に与えられている賜物が何であるか分からない場合は、神様に、自分の賜物がどんなものであるか教えてくださいと祈りましょう。また、回りの信仰の友達に尋ねてみてください。自分では気がつかなくても、周囲の人々が気づいていることがよくあるからです。主キリストが私たち一人一人に様々な賜物を与えて下さったのは、クリスチャン一人一人の働きを通して教会が成長し一致を保っていくためです。ですから、私たちは、自分の賜物のことが分かってきたら、教会全体が強められるために、また教会の人々が励まされるためにその賜物を用いることができますようにと神に祈りながら、神様から与えられた賜物を主のために用いて行くことが大切です。
(2)私たちはどのように成長するのか 
神様は、
教会が成長することを願っておられます。また、教会が成長するようにと、一人一人の信徒に神様は賜物を与えて下さいました。人がこどもから大人に成長することによっていろいろな可能性が広がるのと同じように教会もこどもの状態から成熟した状態へと成長しなければなりません。パウロは14-15節で次のように述べています。「私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」この世の中は、悪魔の支配下に置かれています。多くの人々が悪魔の考え方に縛られています。ですから、この世の中には「悪巧みや人を欺く悪賢い策略」が満ちているのです。そのような中で生活していると、しっかり成長していない子供は、その悪巧みや悪い考えにだまされてしまってそのような教えに振り回されてしまいます。教会に属している一人一人は、その信仰が十分に成熟していないと、悪巧みや偽りの教えに簡単に流されてしまいます。パウロが現在のトルコやギリシャの多くの町へ行って教会を造りました。彼の働きによって大勢の人がクリスチャンになりました。しかし中には、十分に信仰が成長していなかったために、当時のいろいろな教えの影響を受けて信仰から離れて行った人がかなりいました。パウロがこの手紙を書いたころは、ギリシャ哲学の一つであったグノーシス主義という教えがかなり広まっていました。グノーシスというのはギリシャ語で「知恵」という意味ですが、この教えを信じている人々は、自分たちは特別な力によって他の人には与えられない神の知恵を持っていると主張しました。そして、「ただ主イエスを信じているだけではだめだ。特別な知恵を持たないとだめだ。」と人々に教えたのです。そのような間違った教えに振り回されないように、私たちは成長しなければなりません。
パウロは
15節で「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができる」と教えています。間違った教えに振り回されないためには真理をしっかり信じることが必要です。私たち、教会は、キリストの十字架と復活という真理を知っています。それが人々に本当の自由と平安を与えるということを知っています。ですから、私たちは、この真理をしっかりと握って回りの人々にもその真理を語っていかなければなりません。しかも、パウロは「愛をもって真理を語り」と言っています。日本語では「愛をもって真理を語る」となっていますが、ギリシャ語では「愛をもって真理を行う」という言葉です。イエス・キリストのからだである教会はいつも真理をしっかり握っていなければなりません。しかし、真理を語ること真理を行うことは、必ずしも簡単なことではありません。いつも心地よいものであるとも限りません。真理は時には人々の心の中の隠されていたものを明らかにします。暗闇になれた目は光を受けると痛みを感じるように、罪に満ちた世界に生きる私たちにとって真理はいつも喜ばしいものではありません。しかし、人々を喜ばせるために真理を変えることは教会には許されないことです。ただ、真理にはそのように厳しい面があるので、真理を語る時はいつも愛のうちに語らなければならないのです。イギリスの有名な牧師でジョン・ストットという人がいますが、彼はこう言っています。「真理は、もし愛によって柔らかくされなければ、非常に堅くなってしまう。一方愛は真理によって強くされなければ柔らかくなりすぎて崩れてしまう。クリスチャンはこの両方をしっかり握っていなければならない。」このように愛のない真理も真理のない愛も存在しません。愛と真理は主イエスの中に完全に一つになっていました。ですからヨハネは主イエスについて「この方は恵みとまこととに満ちておられた」と言ったのです。
私たちは、
成長するための手段としていつも愛が必要なのです。神の愛を受け取り、そしてその神の愛に満ちあふれる時に、私たちは成長できるのです。そして、このように愛をもって真理を行って行くときに、16節に書かれているように「教会のからだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」一つ一つの部分とは、教会に加わっている一人一人です。その人が、自分の役割をわきまえて他の人と協力して働く時に、しっかりと一人一人が組み合わされて行きます。備えられた結び目と書かれていますが、体の中にもいろいろな結び目があります。関節も結び目です。二つの骨を結び合わせ、それぞれの骨を支えそして一つの骨からもう一つの骨へと力を伝えて行きます。また骨と筋肉を結ぶ働きをする靱帯があります。小さな器官ですが非常に大切な働きです。骨と筋肉を結び合わせて手足が動くための陰の働きをしています。靱帯が痛むと手足を動かすことが苦しくなります。教会にもこのような結び目が必要です。一人一人が結び目の役割を果たすことが大切です。教会とは、様々な所から様々な背景を持った人々が神様によって集められた群れです。一つ一つの部分が愛を持って真理を行う時、この群れ全体が強く大きく成長するのです。私たちは神によってこの群れに加えられました。そして、神様から賜物を与えられました。私たちはその賜物を自分のためではなく、教会全体の成長のために愛という動機から用いていく時、私たちの教会はしっかりと建て上げられて行くのです。

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