2002礼拝めっせーじ

礼拝説教11/17|メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2002-11-17『新しくされなさい』(エペソ4章17−24節)
(イントロ)
先週
は、教会成長セミナーで富士箱根ランドというところへ行ってきました。450人の宣教師や日本人牧師、信徒たちが集まって、神様の働きについていろいろな学びをする時を持ちました。4日間の学びからいろいろとチャレンジを与えられましたが、450人が国籍を超えて集まり、一つになって神様を賛美したり祈ったりすることは本当に素晴らしかったです。また、以前この教会で英語を教えていたジュディス宣教師に会えたことも祝福でした。彼女は今、長野県松本市の近くの豊科という町で教会開拓の働きをオーストラリアからの宣教師と二人で行っています。最近は結婚式の司式も頼まれることが多いそうです。二人の話では、女性宣教師による結婚式が珍しいのか最近人気になっているそうで、よく頼まれるようです。式の前に必ずカウンセリングを行って、そこで結婚する二人に福音を語っているそうです。また、先月この教会に来られたマーク・ペナー宣教師や、桶川福音自由教会で宣教師をしている女性にも会いました。学びと同時に、このような出会いによって、イエス・キリストにあって私たちは、国籍や民族を超えて一つであるということの素晴らしさを体験することができました。
今日
も、引き続きエペソ人への手紙4章から、神様が私たちに語り掛けているメッセージに耳を傾けたいと思います。信仰には、私たちが何を信じるかという教えの面と、その教えを信じる者としてどう生きるかという実践の面があります。この手紙では4章から、パウロは実際の生活に関するアドバイスを書いています。信仰というのは、ただ「これは良い教えだ」と納得することではありません。その教えを生きることなのです。ですから、信仰する者は神に従い聖書の教えに従わなければ本当の信者とは言えないのです。今日の箇所、4章の17節から24節のところでパウロが書いていることは、キリストに従って生きることを始めたクリスチャンは昔の生き方を捨てて、新しい生活を始めなさいというアドバイスです。パウロは古い生き方を脱ぎ捨てて新しい生き方を着なさいと語っています。私たちはどのように古い生き方を脱ぎ捨て、新しい生き方を着ることができるのか、ともに考えましょう。
(1)神を信じない生活とは
17節
から19節までに、神を信じない人の生活について書かれています。パウロは、まず「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」と言いました。「歩む」という言葉は私たちの生き方を意味しています。異邦人とは、ここでは神を信じない人のことです。神を信じない人は「空しい心」で生活をしているとパウロは言います。パウロがここで言いたかったことは、私たちの生活、ライフスタイルは私たちの心がどんな心であるかによって決まるということです。アメリカで二人の学者がどうして人が犯罪を犯すのかということを調べて、犯罪は、その人間のゆがんだ考え方から生まれるという結論を下したそうです。よく、育った環境が人を作るという考えがありますが、彼らの研究では、それは事実ではないようです。犯罪者には恵まれて育った人間もいるし非常に不幸な環境で育った人もいるそうです。また、同じ環境で育っても、ほとんどの人は犯罪を犯しませんが、少数の人は犯罪を犯すのです。彼らは、環境が人を犯罪者にするのではなく、人が幼い頃から行っている一つ一つの決断が犯罪者を作り出すと結論を下しました。そしてほとんどの犯罪者のゆがんだ考えとは、すべては空しい、すべては価値のないものだという考えだそうです。
私たちは
神様を知る前は、自分の本当の価値、生きることの本当の意味、また、世の中にあるすべてのもの価値を知らずに生きていました。進化論の考え方では、この世のすべては偶然に存在しています。すべての人間も偶然生まれてきましたから、生まれた時の価値はゼロです。そして多くの人が自分の価値を作り出そうと必死になっています。あるいは自分には価値がないと思って悩み苦しんでいる人がたくさんいます。これは空しい心の考えかたです。聖書は、人間は神によって神の姿に似せて作られたと書かれています。私たちは価値のないものとして生まれて来たのではありません。私たちは神のイメージをつけて生まれて来ました。ですから、生まれた時から価値があるのです。母親にとって、生まれた赤ちゃんがどれほど弱い存在であっても、自分のいのちと同じだけ大切です。この世界にとっては、赤ちゃんは何も仕事もできないし、金を儲ける訳でもありませんから、一人の人間としての価値はありません。しかし、親にとっては最高に大切です。同じように、私たちも、この世界ではあまり価値がないかも知れません。しかし、私たちのいのちを作ってくださった神様にとっては、私たちは皆、生まれた時から最高に大切な存在なのです。しかし、神を無視して生きる時、私たちの心は空しくなります。パスカルという哲学者はこう言いました。「私の心には、本当の神以外にはとても満たすことのできない真空がある。」
空しい心
を持っていると、そのままでは終わりません。人はますます空しくなって行きます。パウロは18,19節で5つの段階を描いています。まず、空しい心を持って生きていると、「知性が暗くなる」とパウロは言いました。この知性とは教養とか知識という意味ではなく、キリストを知ってキリストから教えられて生きることを通して与えられる本当の理解力の意味です。コロサイ人への手紙には「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」と書かれていますが、ひとはどれほど教養を持っていても、幅広い知識を持っていても、キリストから離れているとその人の心は暗く、本当に見るべきものが見えないのです。神を尊敬する心や人を愛する心や感謝する心がないので、空しい心になるのです。次に、知性が暗くなると心がかたくなになります。「かたくな」と訳されている言葉は、もともとは手や足の皮膚が何度も運動したりすることで固くなるときに使う言葉でした。私たちの心が、神を信じようとしないと、そのうちに心がだんだん固くなってきます。そして何か悪いことをしてもあまり良心の責めを感じなくなったり、神様を恐れる心もなくなってしまいます。痛みを感じなくなった皮膚が死んでしまっているように、罪に対する感覚が麻痺してしまった心は死んでしまっているのです。だから、そのような心は神様のいのちから遠く離れてしまうのです。神様のいのちから心が離れると道徳的に無感覚になってしまい、あらゆる不道徳な行いにふけってしまうのです。19節で「好色」と訳されている言葉は、自分の欲望を満たすためなら何でもしてしまう心を意味します。自分の欲望のままにやりたい放題ということです。神から離れた空しい心はここまで堕落してしまいます。その人は、自分は自由だと思っているのですが、実は、その人は自分の欲望の奴隷になっているのです。ですから、考えているのは自分の欲望を満たすことだけです。自分さえ良ければいいのだという100%エゴの固まりになって生きることになります。私たちは、神様を信じる前は、誰もが、このような生き方をしていたのです。表面的にはまじめそうに見えても、正しそうに見えても、心の奥底は皆同じなのです。エゴの固まりだったのです。エゴの欲望はどんなことをしても決して満足させることはできません。いつも、満たされない思いを持ち続けて生きることになります。
(2)新しい人を着る 
パウロは、
クリスチャンになったものが以前の生活に戻らないようにと警告を与えた後に、どのように生きるべきかという問題について一般的なことを述べています。パウロは具体的なことはその後の25節以降で扱っています。20節で、パウロは「しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。」と言いました。つまり、神を信じる前は知性が暗くなって、心が固くなっていたために神から学ぶことができなかったのですが、クリスチャンになってからは、石のような固い心を神様が柔らかい肉の心に変えてくださったので、キリストから学ぶことができるようになりました。クリスチャンとはキリストとともに生きる者という意味です。キリストに祈り、聖書を通してキリストの言葉を聞くというキリストとの交わりを持っていると、私たちは少しずつキリストの影響を受けていくのです。特にパウロはここで、キリストから学んだ教えとは、滅びていく古い人を脱ぎ捨てて神様が造ってくださった新しい人を着ることだと述べています。聖書によれば、私たちは生まれつき古い人、つまり罪を持っていて罪の力とさばきに縛られていました。しかし、キリストを信じて洗礼を受けた人は、その古い人をキリストといっしょに十字架につけて葬られました。ですから、パウロはコロサイの教会に宛てた手紙では、「あなたがたは古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てた」と書いています。主イエス・キリストを信じた時、私たちの古い人は十字架につけられて、私たちはその古い人を脱ぎ捨ててしまったのです。ところがパウロはすでに古い人を脱ぎ捨ててしまっているクリスチャンに向かって古い人を脱ぎ捨てるように勧めています。主イエス・キリストを信じたものは、古い人を脱ぎ捨てて新しくなりました。洗礼式では、水の中に一度もぐってそこから出てくるのですが、それは、古い人が一度葬られて、そして新しくなって生まれ変わる姿を現しています。このように私たちは新しい身分をもらったのですが、しかし、そのことを実際の生活で表して行かなければなりません。クリスチャンはキリストと霊的には一つになりました。もはや、私たちはこの目に見える世界に属しているのではなく、永遠の世界、天国の一員になったのです。しかし、まだ私たちはしばらくの間、死ぬべき肉体にとどまっています。そういうわけで、私たちは古い人の影響をまだ持っているのです。この世の問題に、この世の誘惑に巻き込まれてしまうのです。それで、私たちは、その日その日に以前の状態、古い自分、古い生活を脱ぎ捨てることを決意し続ける必要があるのです。
私たちは、
ある意味で、北朝鮮に拉致された被害者たちに似ています。私たちは元々神様に属する者だったのですが、悪魔に拉致されてしまって、罪の中に入っていました。悪魔の言う言葉に惑わされて、その言葉を信じて生きて来ました。ところが、神様の憐れみによって、悪魔の世界から神の国に戻って来たのです。しかし、蓮池さんたちが北朝鮮から日本に帰って来ても、最初は北朝鮮の国民であることが抜けきれなくて、心や表情が硬かったです。それを見た家族は本当に苦しかったと思います。自分と同じ日本人であるのに、まるで日本人ではなく北朝鮮の国民のように振る舞っているからです。しかし、24年間北朝鮮の教えをたたき込まれた蓮池さんにとってすぐに拉致される前の人間に戻ることは無理なのです。私たちも、それと同じように、生まれてから主イエスを信じるまでに信じていた悪魔の教えから、すぐに完全に抜け出ることができません。もう、私たちは、悪魔の支配から解き放たれて、神様の国に入っているのですが、まだまだ私たちは完全に神の国の人のような生活ができません。ですから、少しでも早く神の国の人らしくなるためには、毎日、古い生き方を捨てて新しい生き方をするように決断しなければならないのです。そのような意味で、パウロは私たちに毎日、古い人を脱ぎ捨てる決心をするように勧めているのです。そして、新しい人を着ることが必要です。先ほど、犯罪者は環境によって造られるのではなく、その人の一つ一つの決断によって造られると言いましたが、私たちも、神の国の一員になったのですから、そのことをはっきり自覚して、日々、新しい人として生きることを決断することが必要です。蓮池さんのお兄さんは、自分のところに帰ってきた弟が、初めのころは、自分の国にかえって来たのにまるで北朝鮮の人のような話しぶりだったので、悲しみと苦しみを感じておられました。蓮池さんはそれほどマインドコントロールされていたのです。心を開かない蓮池さんを見て家族は本当につらかったと思います。神様は私たちを見てどう感じておられるでしょうか。イエス・キリストの十字架によってせっかく悪魔の力から解放されて神の国に戻ってきた私たちが、もし、いつまでも神の国の人間のようにならないで、いつまでも昔のままの考え方、昔のままの生活をしているとすれば、神様はどれほど悲しく、どれほど苦しい思いをもたれることでしょうか。私たちは、すでに神の国の一員となっているのです。だからこそ、私たちは、一日を始める時に、自分はもう罪の世界の人間ではない。神の国の人間になったのだと決断して、新しい人として生きなければならないのです。

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