2003礼拝めっせーじ

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礼拝説教 2003-01-05『私は新しいことをする』(イザヤ書43章18-21節)
(イントロ)
 イザヤは主イエスの時代よりもさらに700年前の旧約時代に神によって選ばれた預言者でした。彼が生きていた頃、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に別れていました。そして北イスラエルは東の大国アッシリアとの戦争に負けて多くの人々がアッシリアに連れて行かれ、その代わりに大勢のアッシリア人がイスラエルに来て住むようになるという激動の時代でした。イザヤは北ではなく南ユダに住んでいましたが、ユダに住む人々もアッシリアの攻撃がいつ始まるか分からない本当に緊迫した状況に置かれていました。そのような危機的な状況の中でイザヤは、このような苦しい状況をもたらしたのはイスラエルやユダの人々の不信仰が原因であり神の裁きが行われたのだと厳しい言葉を語りました。しかし、彼は40章以降で、そのような不信仰に陥っていたイスラエルの人々にも希望があることを語り始めます。当時の世界の歴史はイスラエルの人々にとっては非常に厳しい状況でしたが、イザヤのメッセージは希望のメッセージでした。教はそのようなイザヤの預言の中で43章に語られている言葉を見てみましょう。
(1)神様の約束
「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。」と神様は43章の18,19節で語っておられます。ここイザヤはイスラエルの民に「先の事を思い出すな」「昔の事を考えるな」と言っていますが、これはどんな出来事を指すのでしょうか。旧約聖書の中で一番重要な出来事は出エジプトです。今から3500年ほど前、イスラエルの民はエジプトに住んでいました。強大な権力を持ったエジプト王パロ(ファラオ)に支配されて苦しい奴隷の生活をしていました。あまりの苦しさに助けを求めて叫んだイスラエルの民のために、神様はモーセという指導者を選んで、イスラエルの民をエジプトから現在のイスラエルの地まで導き出してくださいました。この出来事を出エジプトというのですが、イスラエルの民はこのことを忘れないために過ぎ越の祭りというのを毎年祝っていました。神様は彼らをエジプトから救い出すために、たくさんの奇跡を行いました。奇跡の働きによって、民の目の前で海が割れて乾いた道が現れました。また、春の増水したヨルダン川にも奇跡を行われて、民たちは川底を歩いてヨルダン川を渡ることができました。しかし、神様が43章で言っておられることは、「昔の出来事、昔の奇跡を思い出すな。私は、これらのことよりももっと大きな奇跡の業を行う。」ということです。神様の約束は、過去の出来事よりももっと大きな業を行うということでした。
 その過去の出来事よりも大きな業とはどんなことでしょうか。神様は19節で「わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」また20節では「わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませる。」と言っておられます。イスラエルの荒野や荒れ地は本当に草一本生えていない不毛の地です。日本では見ることのできない光景です。そこには水がなくいのちがありません。道もなくその中に入って迷ってしまうと必ず死んでしまうような場所です。まったく希望がない場所です。しかし、そのように外面を見るとまったく希望がない荒野に道を開き、川を流して人々に水を飲ませることのできる方です。私たちの人生には、イスラエルの荒野のようにまったく希望がないような状況に陥ることがあります。当時のイスラエルの民も東の国アッシリアがいつ攻撃してくるか分からないという恐怖に満ちた時代を生きていました。しかし、神様は、そのようにおびえているイスラエルの民に向かって、わたしは昔エジプトで行ったことよりももっと大きなことをする。人々に希望を与える、平和を与えると約束しておられるのです。15節の神様の言葉を読みましょう。「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」天地万物を創造された力ある神、永遠の神が「わたしは天の聖なる者」とは言わずに「あなたがたの聖なる者」と言われました。これは神様とイスラエルの民が親しい関係にあったことを現しています。神様はご自分の愛する民イスラエルのためになることはどんなことでもすると約束しておられます。今、主イエス・キリストを信じ、天の父なる神を信じる私たちは「真の(本当の)イスラエル」と呼ばれます。つまり、神様と親しい関係に入れられているという意味です。そのような私たちのためになることであれば、神様は何でも行うと約束されました。
 
(2)神様が新しいことをする目的
 神様が何かを行う時、そこには必ず目的があります。神様が、イスラエルの人々に向かって「わたしは新しいことをする」と約束されましたが、その目的は何だったのでしょうか。一つは20節で言われているように、「わたしの民、わたしの選んだ者に水を飲ませる」ためです。神様がイスラエルのために何をしたいと願っておられたのでしょうか。それは彼らの飢え渇きを満たすことでした。彼らの必要を満たすことでした。主イエス様も説教の中で「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」と言われました。神様はあなたの人生にも新しいことをしたいと願っておられます。そして、それはあなたの体や心や魂が十分に満ち足りることを願っておられるからです。私たちは心のどこかで何かが足りなくて心の中にむなしさを感じます。しかし、私たちの心を本当に満たす事の出来るお方は神様だけです。この世の人々は心のむなしさを満たすために快楽やお金や社会で有名になることなどを求めています。しかし、そのようなものが私たちの心を満たすのはほんの一瞬です。心はすぐにまた空しくなって他の刺激を求め始めるのです。しかし、神様を求める人の心は必ず満ち足りるとイエス様が約束しておられます。
神様が新しいことをするもう一つの目的は21節に記されています。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」私たちが神様の栄光を現して生きることがその目的であると書かれています。主イエス・キリストが十字架で私たちの身代わりとなって罪の罰を受けてくださったことによって、私たちのような罪人が罪を赦されて神とともに新しく生きるようにされました。神様が私たちを愛してくださるので、私たちはこのような恵みを受けました。私たちが罪を赦されて救いに入れられた目的は、ただ一つ、私たちが神様に感謝し神様の栄光を現す人となることです。そのことを主イエスは次のように語っておられます。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」主は「あなた方の光を輝かせなさい」と言われましたが、これは自分が聖いこと、自分が道徳的に優れていることを人々に見せなさいという意味ではありません。これは「私たちのうちに生きておられる光である方主イエスを表す生活をしなさい。」という意味です。主イエス・キリストを信じる人の心の中に主イエスの霊がやどっておられます。誰でも心のうちにキリストを持っているのです。その主イエスを喜び、主イエスとともに生きることの素晴らしさを人々に表していくことです。私たちは太陽のように自分の力で光り輝くことはできません。しかし、私たちは月のように太陽の光を受けてそれを映し出すことができます。月の中で太陽に向いている面が光り輝くように、私たちが主イエスを見上げて、主イエスから教えを受けて生きるとき、自然に私たちは主イエスの光を映し出すことができるのです。私たちがこの地上で生きるようにといのちが与えられているのは、神様の栄光を現し、つねに神を喜んで生きるためであることを私たちは忘れてはなりません。
(3)私たちはどう答えるべきなのか
 神様は、イスラエルの民を心から愛して、彼らを導き彼らを守り、将来に素晴らしい希望を約束されました。しかし、イスラエルの人々は神様の愛にはまったく無関心でした。ですから神様は悲しみを感じつつ22節の言葉を言われたのです。「ヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。」ヤコブとはイスラエルの人々のことですが、彼らは神様に特別に選ばれ愛された国民であったのに、神に祈り求めることをせず、偶像に助けを求めて祈ったり、エジプトという言葉が代表するこの世の力に頼ろうとしました。そして、神様に対する捧げものも心から感謝して捧げたものではありませんでした。むしろ彼らは神様の前で罪を犯して神様の心を悲しませたのです。しかし、そのようなイスラエルの民の態度にもかかわらず、神様はイスラエルの人々を徹底的に愛されました。忍耐されました。25節に神様の心があふれています。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」常識的に考えて、イスラエルの人々は神様から捨てられて当然のような生き方をしていました。神に逆らい、神の言葉を無視して生きていました。そして神以外のものに頼ろうとしていたのです。しかし、それにもかかわらず、神様はイスラエルの民への愛を変えることはありませんでした。イザヤ書65章2節で神様はイスラエルの民についてこう言っておられます。「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。」イスラエルの民は、自分たちは神の民だと思っていました。しかし、実際には、彼らは神様の教えに従わず、自分の考えや自分の気持ちに従って神が喜ばない道を歩んでいました。しかし、そのような頑固で反抗的なイスラエルの民に神様は一日中手を差しのべ続けたと言っておられます。神様の大きな忍耐と深い愛で、イスラエルの民を招き続けておられるのです。
 神様は、今日の私たちにも手を差しのべておられます。一日中手を伸ばして「私のところに来なさい。」と招いておられるのです。イスラエルのように心を堅くして神に逆らう者ではなく、神様の招きに答え、感謝と喜びを持って神と共に生きる者でありたいと思います。


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