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2003礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2003-01-12『思い煩いからの解放』(ピリピ4章1−7節) (イントロ)2003年、新しい年がスタートしました。誰でも、一年の初めには「今年はいい年になってほしい」と願います。一度しかない人生ですから、同じ生きるのなら、心配事や悩みを抱えて生きるよりも、喜びに満ちて生きたいものです。聖書の中には66のいろいろな書物がありますが、中でも喜びという言葉が繰り返し使われているのは使徒パウロが書いた「ピリピ人への手紙」です。ところが、この手紙が書かれた時のパウロの生活は、私たちが見ると本当に大変な状況でした。当時、パウロはローマにいました。彼らは監獄に入れられて、彼の体は彼を見張っている兵士の体に鎖でつながれていました。彼が監獄に入れられている間に、パウロに反対する人々が活躍していました。パウロが伝道し苦労して建て上げた教会の人々にパウロが教えたことと違う教えを語り、パウロのことを批判したために教会は混乱していました。また、パウロの働きを支えていた親友たちの中からもパウロを見捨てる人が現れていたのです。しかし、そのような絶望的な状況の中でも、パウロは、ピリピ教会の人々に書き送った手紙の中で、「喜びなさい」「喜びなさい」と10回以上繰り返して語っているのです。それはパウロが牢獄の中でも喜びにあふれていた生活を送っていたことを現しています。パウロは、体も心もぼろぼろだったはずなのに、なぜ、喜びにあふれた生活を送ることができたのでしょうか。私たちの多くは、パウロと比べると心配のない状況の中に置かれているにもかかわらず、あれやこれやと色々思い悩んでしまいます。今日は、ピリピ人への手紙の4章からパウロの喜びに満ちた生き方の秘訣を学びたいと思います。 (1) 主にあって喜びなさい(4節) パウロはピリピ教会のクリスチャンたちに4節で「主にあって喜びなさい」と言っています。自分が生きていることを喜べるというのは幸いなことです。喜びに満ちあふれ笑いが絶えない人生は本当に素晴らしいですね。笑うということは病気をいやす力さえあるそうです。しかしながら、多くの人は目の前にあることや、割とつまらないことで喜びます。テレビでよく、タレントが北海道のカニとかおいしいものを食べて「しあわせ〜」なんて言っています。(私も、食いしん坊なので人のことは言えないですが。)またバーゲンで欲しいものが安く買えた時も嬉しいし、新しいコンピューターや携帯電話を買った後もしばらくは楽しくてついつい機械と遊んでしまいます。学生の場合はテストの点が良いとうれしいものです。しかし、そのような喜びは長続きすることなく、以外と早く消え去ってしまいます。また、このような喜びは長続きしないだけではなく、逆に不満や思い煩いを作る原因にもなります。つまり、おいしいものが食べられたら幸せを感じると人は、まずいものを食べた時や食べたいものが食べられない時にはイライラを感じるでしょう。また、学生にとっては、テストの点が良いときは嬉しいですが、成績が下がるとがっかりして一瞬にして人生は暗闇になってしまいます。 それでパウロは4節で喜ぶなら「主にあって喜びなさい」と言っているのです。「主にあって喜ぶ」とはどういうことでしょう。それは、主イエス・キリストと友達との関係に似た人格的な関係を持っていることを喜ぶということです。私たちにとって友達は大切な存在です。良い友達を持つと生きていることが喜びになるでしょう。しかし、人間には完全な人はいませんから、友情関係を保ち続けることは決して簡単なことではありません。しかし、私たちを愛し私たちを決して見捨てることのない主イエスを友達として持っていると、私たちの心の中に不思議な喜びがわき上がってきます。人はどのようにして主イエス・キリストと生きた関係を持つことができるのでしょうか。その答えはヨハネの福音書1章にはっきりと書かれています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」主イエス・キリストを救い主と信じる人は神の子どもとなると聖書は約束しています。神の子どもになることは、私たちがどんな親から生まれたか、まったく関係ありません。私たちが神の子どもになるのは「血によるのではない」とはっきり書かれています。また、人間的な願いや計画によって神の子どもになるのでもありません。これは100%神様の働きによるものなのです。 私たちにできることは、第一に信じることです。「主イエス・キリストは救い主である」と信じるためには、まず、私たちは自分が救いを必要としている罪人であることを正直に認めなければなりません。イエス様は言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」私たちが自分も救い主イエスに招かれている罪人であると信じる時、主イエスは私たちの救い主となり、私たちの罪を背負って下さる方、私たちと神様との間の仲介者となってくださるのです。そして、私たちの罪が赦されて永遠のいのちを与えるために十字架にかかり三日目に復活されました。私たちにできる第二のことは主イエスを自分の心の中に迎えることです。私たちが心を開くと、その中に主イエスの霊が入ってくださいます。そしてその瞬間に、私たちは神様の子ども、神様の家族に迎え入れられます。この関係はすぐに終わるものではなく、永遠に続く関係です。私たちが神様と永遠の関係を持っていることを知ること、これが永遠に続く喜びの秘訣です。私たちの人生が神様との永遠の関係の中にしっかりと根付いているならば、回りの人がどんな人であろうと関係ありません。回りの人から何と言われようとかまいません。私たちは永遠に神様の家族に入れてもらっているからです。私たちは他の人と比べて喜んだり落ち込んだりする必要がないのです。私たちを招き続けてくださった主イエス・キリストと永遠の友情を結んだからです。5節には主は近いと書かれています。主がいつも近くにいてくださることを知ることが消えることのない喜びを持つ秘訣です。 (2) 神に祈りなさい(6節) 私たちの人生には悩みがつきものです。若いときは若い者の悩みがあり、年を取れば年取った者の悩みがあります。悩みにはいろいろな悩みがありますが、中には、「何にも心配することがないのが不安だ」と取り越し苦労する人もいます。悩みにはいろいろと原因があるでしょうが、根本的には私たちが神様に依り頼むことをせず自分一人で生きていこうとするときに悩みが起きると思います。私たちはすべてのことを完璧に行える力がありませんから、自分の前にある責任や問題があまりにも大きすぎると、自分の力で解決できないことで悩みます。また、私たちはいつも人の目を気にしていますから、なるべく自分の弱さやかっこ悪いところを見せたくありません。しかし実際にはいつも自分の願っているような状況になるとは限りませんから、これもまた悩みの原因になります。そのような弱さを持っている私たちにパウロは6節で「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と語っています。パウロはまず私たちに、一人ですべてのことをがんばるのではなく、私たちの霊的な親であり私たちのために最善のことをしようと思っておられる神様と重荷を分け合いなさいと言っているのです。神様は完全なお方です。完全な親です。過ちを犯すことのないお方です。私たちはそのような神様と親子の関係を持っているのですから、一人で重荷を背負い続けるのではなく、神様に相談すれば良いのです。パウロは「あらゆる場合に神様に祈りなさい」と言っています。私たちの人生には、いろいろな問題が次々に襲ってきます。問題が来たら、その時に、全能者である神様にまず自分の気持ちを正直に知らせることが大切です。礼拝の中の祈りは司会者が出席者を代表して捧げる祈りですから、人前で行うスピーチと同じで少し堅い祈りになります。しかし、私たちが神様の前で、一対一で祈るときは、自分の苦しみも悲しみも怒りもすべてをはき出せば良いのです。神様の前では何も格好をつける必要はありません。もともと、神様は、私たちが祈りの言葉を口にする前から、私たちの心の状態をすべてご存じなのです。パウロは「自分の願い事を神様に知らせなさい」と言っています。神様は忍耐強い方です。私たちがどんなに繰り返して同じ願い事を語っても、いろいろな感情をぶつけても、すべて受け入れてくださる方です。私たちには、そんな素晴らしい神様がいるのですから、その神様に信頼しなければなりません。 イエス様も思い煩ってはいけないと言われました。マタイの福音書6章26節で「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」空の鳥は何の心配もしないで生活を楽しんでいます。鳥たちは生きるために種をまいたり刈り取りをしたりはしません。しかし、神様は鳥たちが生きられるような自然を作り、また食べ物を集める知恵を与えて鳥たちのいのちを支えておられるのです。鳥と比べると私たち人間は、神のかたちに造られた者ですから、神様にとって大切な存在です。そのような私たちのことを神様はいつも心にとめてくださるのです。もちろん、私たちは鳥とは違って、種をまいたり刈り取りをしたりして生きるように造られています。ですから、何もしないでただぶらぶらして生きるべきではありません。しかし、空の鳥を養っておられる神様は、私たちをも養ってくださる方なので、神を信頼して生きるようにと教えられているのです。ところが私たちは、そのことを忘れて将来のことに対しても先走って心配することがあります。私たちは将来に向けてきちんと計画を立てることは大切です。しかし、神様の祝福から離れて生きるならば、私たちの計画はまったく空しいものになってしまうのです。 ですから、私たちは自分にできることはベストを尽くして、後は私たちを養ってくださる神様に信頼して祈りをささげることが大切です。そして祈るときは神様を全面的に信頼して祈らなければなりません。私たちは、祈るときに、時々、自分で答えを決めている場合があります。自分の考えているような答えが一番良い解決方法だと考えています。しかし、実際はそうではないことが多いのです。子どもは親に「あれが欲しい」「これが欲しい」と言いますが、親は子どもにとって本当に必要なものが何かを知っていますから、こどもの願い通りに何でも与えることはしません。神様も同じです。神様の解決方法にすべてを任せることができると、私たちは心の中に不思議な平安を感じることができます。それは「人の全ての考えにまさる神様の平安」です。その神様の平安が私たちの心と思いを守ってくれます。心とは私たちの感情を生み出すところです。心配が心に満ちると私たちは心が乱されます。しかし、神様の平安が私たちの感情をいつも安定した状態に保ってくれます。そして私たちが落ち着いていろいろと考えることができるように私たちの思いも冷静に守られるのです。私たちは全能者である神様から愛されている神様の子どもです。どんな時も、私たちの神様を信頼してすべてを神様の解決方法に任せる時、私たちは思い煩いから解放されて、人間の常識を越えた神様の平安を得ることができます。
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