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2003礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2003-01-19『自分をどう評価するか』(マルコ12章30-31) (イントロ)私たちは皆、自分自身が価値ある人間でありたいと願っています。回りの人々に自分のことを認めてもらいたい。人から愛されたいという願いは誰もが持っています。しかし、自分の価値を知るためには私たちはまず自分が誰であるのかということを知らなければなりません。アメリカでは宇宙飛行士になるための最初の訓練は「私は誰だ」という質問に20の答えを見つけることだそうです。この質問を自分にも尋ねてみましょう。私たちは本当に自分が誰であるかを知っているのでしょうか。調査によると、人は皆、自分にとってヒーローや模範と思える人を見て、その人の真似をして生きることが多いそうです。でも、私たちは他人の一部分を自分に貼り付けて生きるなら、本当の自分を知らないままに生きることになってしまいます。ある人が言いました。「3人の自分がいる。私が考えている自分、回りの人が考えている自分、そして神様が知っておられる自分の3人である。」自分や回りの人が考えている自分というのは、自分が住んでいる社会や文化が持っている価値の中に自分の価値をみつけようとする姿勢です。この場合、その人の価値を決めるものがふたつあります。一つは、回りの人々が自分に与える評価であり、もう一つは、自分が自分自身を回りの人々と比べたり理想の姿と比べたりして自分が自分に与える評価です。しかし3番目の自分は、まったく異なった考え方です。それは自分の価値を、神様が自分をどう考えておられるのか、また神様は自分に対してどのように行動されるのかということから見つけだすことです。自分を正しく評価する方法は、3番目の自分である神様が見ておられる自分を知り、その自分を受け入れることです。 (1)神によって造られた自分 聖書は、私たちがどんな人間であると教えているのでしょうか。聖書は、私たちは神に造られた者であると言われています。それもいい加減に造られたのではなく、神様が最大の注意を払って造られた神様の最高作品であると教えています。詩篇の8篇4節から6節には次のように書かれています。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」神様は人間をどうでもいいもの、価値のないものとしてお造りになったのではありません。この詩篇は、私たち人間は神より少し劣るものとして造られたと語っています。そして、神様はご自分が造られたものを見て「すべては非常によかった」と思われたのです。私たちは世界で一人だけの顔かたちと個性をもってこの世に生まれて来ました。私たちは誰の真似をする必要もありません。また真似をして生きるべきではありません。まず、神様に造られたそのままの自分を受け入れることが必要です。私たちの現在の心は過去の体験によって形作られます。ですから、子どもの時に受けたひどい体験によって心に傷を受け、自己評価が低くなることが多いのです。聖書は、もっと前にさかのぼって、私たちがこの世に生まれて来た理由を述べています。神様は私たち一人一人を素晴らしい価値あるものとして造ってくださいました。しかも栄光と誉の冠をもかぶらせてくださいました。私たちが住んでいる世界は罪人が生きている世界ですから、この世界で生きる時にはいろいろなことで傷を受けます。しかし、私たちのいのちは神様がお造りになったユニークで大切ないのちなのです。私たちは、まず、このことを憶えていなければなりません。 (2)神に愛されている自分 第二に、この世の体験で自分が身につけてしまった低いセルフイメージ、つまり自分の評価と他人の評価に基づいて造られた低いセルフイメージを新しいセルフイメージと置き換えなければなりません。そのために私たちが知らなければならないことは何でしょうか。それは、神様が私たち一人一人を愛してくださり、選んでくださり、自己中心という罪に縛られている私たちの罪が赦される道を開いてくださったと言うことです。しかも、神様が私たちを選んでくださった理由は、私たちが他の人々よりも優れていたからではなく、ただ一方的に神様が私たちを愛してくださったことによるのです。申命記7章7−8節には次のように書かれています。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」私たちは神様が丹精を込めて造ってくださった神の作品です。ですから、神様は私たち一人一人を愛しておられるのです。私たちは神様の一方的な愛によって愛され選ばれました人間なのです。私たちの心にしっかりと刻みたいことは次のことです。神様が私たちを選んだのは私たちが強い人間だからではないということ。私たちが美しい人間だからでもありません。他の人より優れていたからでもありません。私が何か素晴らしい働きをしたからでもありません。神様が私たちを選んでくださったのは、私たちにご自身の愛を注ぎたいと願われたからです。私たちが神の家族の一員になることを神様が願ったからです。また、キリストの働きを通して、私たちが罪の支配から解放されて自由に生きることを神様が願ったからです。そのような神様の熱い愛によって選ばれ、罪を赦された者がクリスチャンなのです。そのことを知って生きる時、私たちは他の人と比べて生きる必要がなくなります。他の人の評価を気にする必要もありません。それは、私たちが神の前に自分がどういう者であるかを知ったからです。 (3)愛の人として生きる 新しいセルフイメージを持つために必要な第三のステップは、神様との関係をしっかり持って生きることです。神様によって造られ、神様から一方的に愛された者として、神様としっかりした関係をもって生きることです。それは神から愛されていることを喜び感謝し、その愛に応答して行くことです。そのことを主イエス・キリストは、マルコ12章30-31節で次のように言われました。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 神を愛するということは、言い換えると神様との交わりを心から喜ぶことです。最初の人間アダムとエバは神様の命令をやぶって罪を犯した後、神様が近づいてきたのを知って隠れました。罪を持っているままでは、私たちは神様との関係・交わりを喜ぶことができないのです。私たちは神様が私たちに示してくださった愛のすばらしさ、大きさを十分に知らなければなりません。神様は私たちのためにご自分のいのちを捨てるほどに私たちを愛してくださいました。その愛を感謝し、その愛を喜ぶならば、私たちは神様を愛さずにはおれなくなります。主イエスは「心を尽くして神を愛しなさい」と言われましたが、心とは感情が生まれるところです。私たちは義務感からではなく、強制されてでもなく、心から神様の愛を喜んで、その愛に応答することが必要です。神様の愛を知るためには自分が神様の前に本当に罪深い者であることを認めなければなりません。愛を受ける資格がないものに神様が愛を注いでくださったことを知ると、自然に神様を喜ぶようになります。神様は、私たちがどういう人間であるか関係なく愛してくださいます。ピアースという神学者が自分の子どもたちが話し合っているのを耳にはさみました。一人の子が別の子に「いい子にしてないと、お父さんは愛してくれないよ。」それを聴いたピアースは、その子どもを呼んで言いました。「おまえが今言ったことはちがうぞ。」すると子どもは「でも、いい子にしてないと、お父さんは愛してくれないでしょ?」。すると彼は次のように答えたそうです。「おまえたちがいい子にしている時もしていない時も、お父さんはおまえたちを愛しているよ。ただ、いい子にしている時としていない時では、違うことがある。おまえたちがいい子にしているときは、お前たちを愛することが本当に嬉しいんだが、お前たちが悪い子の時にお前たちを愛することには心の痛みが伴うんだよ。」神様の愛は変わることがありません。しかし、私たちが神様に背を向けているとき、神様が私たちを愛する愛は神様の心に痛みを与える愛なのです。しかし、そのようにしてまで神様は私たちを愛してくださるのですから、私たちも心から感謝して神を愛そうではありませんか。 また、主イエスは「神を愛しなさい」という戒めに続いて、第二に「自分を愛するように隣人を愛しなさい。」と言われました。主イエスは、神様を愛することと隣人を愛することを同じことだと言われましたが、それは神様に対する愛が、隣人に対する愛によって確かめられるからです。主は「知性を尽くして愛しなさい」と言われましたが、それは「ものごとをわきまえる知恵をもって愛しなさい」という意味です。他の人を愛する時に私たちが知らなければならないことは何でしょうか。パウロはローマ人への手紙の中で次のように言いました。「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」セルフイメージは低くても困りますが、また高すぎるのも困ります。聖書の中に「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」という言葉があります。かつて、イタリアの有名な指揮者トスカニーニがベートーベンの第九の素晴らしい演奏をしました。観衆は興奮して皆立ち上がりました。拍手が鳴りやみません。彼は何度もお辞儀をすると、くるりと向きを変えてオーケストラの団員をじっと見て小さな声で何か言いました。彼の言葉が聞こえなかった団員たちは彼が怒っているかと思ったのですが、もう一度彼は小さな声で言いました。「I am nothing.」そして「ベートーベンis everything(ベートーベンがすべてだ)」と言ったのです。この姿勢こそ、私たちが自分に対して、また、神に対して持つべき姿勢です。人間は誰もがnothing なのであって、神様がすべてなのです。 さらに主は「力を尽くして愛しなさい」と言われましたが、力とは活動を意味します。神への愛は、人への愛によって確かめられますが、人への愛はその人への行いによって確かめられるのです。神様は私たちを造られた時、目的をもって造ってくださいました。エペソ2章10節には「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と書かれています。私たちの人生の目標は、神様が私たちのために持っておられる計画を見つけだし、それを追い求めて、それを終わらせることです。主イエスにとって、ご自身に与えられた使命は十字架にかかることでした。主はそれを目の前に置かれた喜びと感じておられました。神様から愛され、神様に罪を赦された私たちは、神様から受けた使命に従って生きる時、本当に満たされた人生を送ることができるのです。 クリスチャンのセルフイメージとは、まず神を愛することであり、人を愛することです。そしてその道を追求して生きる時、私たちは満ち足りた人生を過ごし、自分の心が喜びに満ちあふれるだけでなく、自分の存在が回りの人にとって祝福となり、神にとっては喜びになるのです。今、普通の心を持って生きるのが難しい時代、健全なセルフイメージを持ったクリスチャンの存在が本当に必要とされていると思います。神様の愛を十分に受けて、健全なクリスチャン生活を送って行きましょう。
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