2003礼拝めっせーじ

礼拝説教04/06|メッセージ2003メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2003-04-06『主イエスのまなざし』(ルカ22章54-62)
(イントロ)
 主イエス・キリストは、十字架につけられる前に何回も裁判を受けなければなりませんでした。主イエスはユダヤ人の前でも裁判を受けましたが、当時、ユダヤ人弟子の一人、イスカリオテのユダの裏切りによって逮捕された主イエスが最初に連れて行かれたのは大祭司アンナスの所でした。アンナスはすでに引退していましたが、まだ大祭司の権力を持っていました。アンナスは主イエスを、当時の現役の大祭司であったカヤパの所へ送ります。ユダヤ人たちは死刑を宣告することが許されていなかったため、その後、主イエスはローマ総督ピラトに送られます。今日読んだ出来事は、主イエスが前の大祭司アンナスの所から今の大祭司カヤパの家の送られて来た時のことです。そこへ、少し離れて弟子のペテロが後について来ていました。主イエスの12人の弟子の中で、福音書がもっとも多く語っているのはペテロについてです。主イエスが最も多く話しかけたのもペテロですし、また、主イエスが最も多く叱ったのもペテロでした。また、ペテロは12人の弟子の中で最も勇敢でまた大胆に信仰を告白しましたが、同時に、主イエスを困らせた弟子でもありました。彼は自信に満ちた男でした。22章の33節でペテロは「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と断言しています。ペテロは、いい加減な気持ちでこの言葉を言ったのではなく、彼は真剣でした。彼は自分が死ぬ覚悟ができていると思いこんでいました。箴言には「高ぶりは破滅に先立つ」という言葉がありますが、彼は自分を過信していました。そのため、主イエスが言われた言葉をよく聞いていませんでした。主の言葉をしっかりと受け止めていなかったのです。彼は、能力のあるスポーツ選手のようです。能力のあるスポーツ選手の中には、自分の力を信じているために、コーチの言葉に耳を貸さない人がいるようです。自分のことは自分が一番よく分かっているのだから他人のアドバイスは必要ないと考えるのです。主イエスはペテロに対して警告の言葉を発していましたが、ペテロはあまり真剣にその言葉の意味を考えず、かえって自分がどれほど、勇敢で忠実な弟子であるかを見せたいと願っていました。ペテロが主イエスに忠誠を誓っていたのは事実ですが、彼は、自分が実はどれほど弱い人間であるか知らなかったのです。それで、主イエスはペテロに言われました。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは、他の弟子がいる前で、自分が大きな失敗をすると主イエスが語ったので、むっとしました。そして心の中で「イエス様、何というひどい言葉ですか。私がどれほど忠実な弟子であるか、私が証明します。見ていてください。」と思ったことでしょう。
(1)ペテロの失敗
 主イエスは弟子の一人、イスカリオテのユダの裏切りによって逮捕されて、最初の前の大祭司アンナスのところ、次に今の大祭司カヤパのもとへ連れて行かれました。主イエスを十字架につけるための裁判をするためでした。主イエスが逮捕されたとき、弟子たちのほとんどは自分のいのちを守るために逃げてしまいました。しかし、イエスに自分の強さを認めてもらいたかったペテロは少し離れてついて行きました。そしてカヤパの家の中にそうっと入りました。大祭司カヤパの家には大きな中庭がありましたが、その中央には火が炊かれていました。3月から4月のころのエルサレムは、昼間は暖かくても夜は非常に冷え込みます。そこには人々が暖を取るために集まっていました。人々は、裁判を待ちながらいろいろな話しをしたことでしょう。そこにペテロが紛れ込みました。ルカは座り込んだと書いていますがヨハネは立ったまま火に当たっていたと書いています。たぶん、ペテロは不安や恐れで落ち着かず立ったり座ったりしていたことでしょう。その時、そこにいた大祭司の家の女中がペテロの顔をじっと見つめて言いました。ヨハネの福音書によるとその言葉は「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」という言葉でした。ですから、それほど確信に満ちた言葉ではなく、その女性は、いつかペテロがイエスと一緒にいるところを見ていて、顔が似ているなと思ってそう発言したのだと思います。相手はまだ若い女性です。しかし、その言葉は正体を隠していたペテロの心を凍り付かせるだけの力がありました。人は、何かを恐れていると、少しのことにも飛び上がってしまいます。戦争を闘う兵士たちは極度の緊張感の中にいますから、何でも動くものは敵に見えてしまいます。そばにいた女性の言葉にペテロはあわてました。そして彼は嘘をついてしまいました。「私は、あの人を知りません。」しかし、別の男が「お前も、あいつらの仲間だろ。」と言いました。これも別にはっきりした証拠がある訳ではありませんでした。ペテロは再び、自分は違うと嘘をつきました。そして、それから1時間後に、別の男が言いました。「いや、こいつはイエスの仲間だ。何しろガリラヤ人だから。」ガリラヤに住む人々は方言を話していたので、ペテロの話を聞いて、回りの人は直ぐにペテロがガリラヤ出身であることを知りました。主イエスはガリラヤ湖の近くで多くの働きをしていたので「ガリラヤの人」と呼ばれていました。ペテロの言葉がガリラヤのなまりがあったので、人々は疑いを強めたようですが、それだけでは彼がイエスの仲間だと断言はできません。この時は、ちょうど、過越の祭りの時ですから、エルサレムには大勢のガリラヤ人がいました。しかも、たき火の回りでペテロは1時間以上も彼らと一緒に話をしていたのです。彼らはペテロをすぐに捕まえようと思っていた訳ではないと思います。それにも関わらず、マルコの福音書によると、恐怖心に捕らわれていたペテロは、のろいをかけて誓って「私はイエスを知らない」と叫びました。のろいをかけて誓うとは、もし自分の言葉が嘘だったら自分は神に呪われてもかまわないという意味です。「主イエスのためなら一緒に死ぬ覚悟ができています。」と言い張っていた男が、主イエスが大好きだったペテロが、結局は、このような大きな失敗をしてしまいました。ペテロは、自分は強いと思っていました。自分が心から信奉している主イエスにも自分の強さを知ってもらいたかったのです。ペテロは自分の心の弱さに気づいていなかったのです。自分を知らなかったために、自分の力に頼ったペテロは失敗しました。
(2)主イエスのまなざし
 ペテロが自分の言葉を言い終わらないうちに、鶏が鳴きました。そしてちょうどその時、大祭司ペテロの家から連れ出されて、ローマ総督ピラトの所へ連行されていた主イエスが振り向いてペテロを見つめられました。イエスの目とペテロの目が合いました。主イエスの目を見た瞬間、ペテロは主イエスが言われた言葉を思い出しました。「お前は鶏が2度鳴く前に3度私を知らないと言う。」彼は自分が情けなくて悔しくて外へ走って行って激しく泣きました。この時、ペテロの心の中で、彼が持っていた自信過剰の思いががらがらと崩れて行きました。それは、ペテロの中で崩れなければならないものが崩れたということです。ペテロは、改めて、自分が本当に罪人であることを知りました。そして、主イエスの言葉を初めて受け入れることができました。というのは、主イエスが最後の晩餐の時にペテロについて次のようなことを話しておられたのです。22章の31節で主はペテロに言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」ペテロがサタンによってふるいにかけられると主イエスは言われました。ふるいにかける目的は、穀物の大切な部分だけを残して、外側のもみ殻を取り除くことです。ペテロがふるいに掛けられるのはペテロが本物の弟子になるために必要なことだったのです。自分の弱さに気づいていないペテロが自分を本当にしるために必要な経験でした。
 しかし、主イエスがペテロを見つめられたことによって、主イエスがペテロを見捨ててはいないことが分かります。主イエスはペテロの弱さを知っていました。ペテロには悔い改めが必要だということを知っておられました。しかし、主は決してペテロを見捨てた訳ではありません。31節の言葉には続きがあります。主イエスは言われました。「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」主イエスは、ペテロがサタンのふるいに掛けられた後、立ち直ることを預言されました。ペテロは、自分の罪深さを知り悔い改めた後、立ち直ることができるのです。彼が立ち直った時には、主イエスは彼のために働きを与えてくださいます。他の兄弟たちを力づけるという務めを与えて下さるのです。そのために主イエスはペテロのために祈っておられました。主はご自分がこれから十字架にかかるという重大な時においても、ペテロの信仰がなくならないようにと祈っておられました。主は32節で「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言っておられます。ペテロがサタンによってふるいにかけられても、3度主イエスを知らないと言った後に激しく泣いた時も、彼の信仰がつぶれなかったのは主イエスが祈っておられたからです。主イエスは、漁師だったペテロを自分の弟子に選んだ時から、彼のために祈り続けておられたのです。主はペテロが本物の弟子になるために厳しい言葉を言われたり、辛い経験をペテロに与えたりされました。しかし、主イエスは決してペテロを見捨てることなく、むしろペテロが信仰に立ち続けられる弟子となることを願っておられるのです。主イエスがペテロをじっと見つめたまなざしはペテロに主イエスの言葉を思い出させて悔い改めに導きましたが、それはつねに主イエスがペテロのために祈っていたからです。
ペテロを見つめた主イエスのまなざしは私たち一人一人にも向けられています。主イエスはペテロだけではなく弟子たち全員に見捨てられました。主イエスは寒い夜に不当な裁判を受け、つばを吐きかけられ、むちを打たれて、ついには十字架の苦しみを味わわれました。それは、すべて、あのペテロのように、主イエスから離れ暖かい火の側にいて、主イエスと敵対する人々とともに話をしていて、ついには主イエスを知らないと否定したような自己中心の人間が、自分の罪を知りその罪を悔い改めて、新しい人となって生きるためでした。主イエスは、私たち一人一人がたとえ大きな失敗をしたとしても、そこから立ち直ることができると保証しておられます。それは主ご自身が祈ってくださるからです。また、特別な配慮をしてくださるからです。主イエスは、十字架にかかった後、ペテロに個人的に現れてくださいました。聖書を見ると復活の主は、まずペテロに現れ、それから12弟子に現れました。また、ペテロに3回「あなたは私を愛するか」と質問をし、ペテロに「私の羊を飼いなさい」つまり、教会の働きをしなさいと大切な働きを彼に任せられました。ペテロが完全に立ち直るのには時間がかかりましたが、主は自分を否定したペテロを見捨てることはしませんでした。主イエスのまなざしは、あなたにも向けられています。もし、あなたが信仰の面で落ち込んでいるなら、ぜひ、忘れないでください。主はあなたが立ち直るために祈っておられます。あなたを見つめておられます。


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