2003礼拝めっせーじ

礼拝説教04/12|メッセージ2003メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2003-04-12『まことの救い主』(マタイ27章32-44節)
(イントロ)
 主イエスが十字架につけられたのは、ユダヤ教の最大のお祭り、過ぎ越しの祭りの時でした。過ぎ越しの祭りは、イスラエルの民の正月にあたります。毎年、イスラエルの民たちは、新年のお祭りを祝いながら、旧約聖書に書かれている昔の出来事を思い出し、それが自分たちにとって霊的な新しい出発であることを確認していました。これは出エジプト記の11章と12章に書かれているできごとですが、今から、3500年ほど前、イスラエルの民はエジプトの国で奴隷として非常に苦しい生活をしていました。その時、神はモーセという指導者を起こして、ユダヤの民をエジプトから解放することを計画されました。ところがエジプトの王ファラオはイスラエルの民を解放することを拒否し続けました。そのため、神様はエジプトの国民に大きな裁きを下しました。神はイスラエルの民に命令を与えました。それは子羊を選んで4日間家の中に置き、4日目に殺して、その子羊を家の玄関の鴨居に塗るという命令でした。その夜、神の裁きがエジプト人の家に下りました。神の使いがエジプトの隅々まで行き巡り、子羊の血で守られたイスラエルの民の家は過ぎ越したのですが、子羊の血で守られていなかったエジプトの全ての家では、最初に生まれた子供が死にました。この神の裁きに恐れを感じたファラオは、ようやくイスラエルの民がエジプトから脱出することを許可しました。イスラエルの民たちは、子羊が殺されることによって自由を獲得しました。この出来事を憶えておくために、イスラエルの人々は毎年、過ぎ越しの祭りを祝っているのです。そして、この過ぎ越しの祭りは、過去のエジプトの出来事を表すだけでなく、主イエス・キリストの十字架を預言するものでもありました。過ぎ越しの時にイスラエルの民の家の入り口に塗られた子羊の血は、主イエス・キリストが十字架で流した血を表しています。最初に生まれた子供が死んだエジプト人の家とイスラエルの民の家と違っている点はただ一つ、子羊の血が入り口に塗られているかいないかという点だけでした。エジプト人がいろいろな手段を使っても、神の裁きから逃れることはできませんでした。今日、私たちを神の裁きから救うのは十字架で流された主イエスの血潮の以外、何もありません。教会がいつも十字架を掲げて、十字架だけを誇りにしているのは、私たちが罪を赦され、心にいつも平安と希望を感じることができるのは主イエスの十字架があったからであることを忘れないためなのです。(1) 十字架はキリストの愛を表している
 主イエスは木曜日の夜遅くにイスカリオテのユダの裏切りによってローマの兵隊とユダヤ人たちに捕らえられました。そして一晩中裁判にかけられました。それはイエスを死刑にするための裁判でした。当時、ローマ帝国に支配されていたイスラエルの民は自分たちで死刑を決めることは許されていませんでした。死刑を宣告できるのはローマの役人だけでした。それで、ユダヤ人たちは、自分たちの間でイエスの死刑を決めるとローマ総督のポンテオ・ピラトに死刑を宣告させるように働きかけました。合計主イエスは6回の裁判を受けました。そして、その間に、ユダヤ人たちから顔をなぐられたり、つばを吐きかけられたり、王様のような格好をさせられて罵られました。私たちでは、とても耐えることのできないひどい仕打ちを受けられました。最後にピラトが主イエスを十字架にかけることを許可すると、主イエスは鞭を打たれました。主イエスは、全能の神であったのですが、神としての栄光や権威や力を全部棄てて、私たちとまったく同じ姿になられました。ですから、一晩中裁判に引きずり回されて寝ることができなかったことと、むちを何度も打たれたことのために、もう主イエスの体は限界に来ていました。当時、十字架は本当にひどい犯罪人の処刑の時だけ使われた方法でした。十字架の刑を宣告された犯罪人は、処刑される場所まで、自分で十字架を全部か、十字架の横木を運ばなければなりませんでした。それは重さが50キロぐらいある重いものでした。しかも、ローマの軍隊は、犯罪を起こさせないために、十字架刑を受ける人間をエルサレムの町中を長く歩かせました。人々への見せしめにするためです。主イエスの体が限界に達して、そのため、主は十字架を運んで歩くことができなくなったので、ローマの兵隊は、たまたま祭りに来ていたシモンという男に十字架を担がせました。ゴルゴタと呼ばれる丘が処刑の場所でした。ラテン語ではカルバリと言うのですが、「どくろ」という意味です。そこにつくと地面の上で2本の木が組み合わされ、その十字架の上に主イエスは寝かされて手と足に太い釘が打たれました。十字架は4人のローマの兵隊がロープを使って垂直に立てられます。十字架に掛けられた主イエスの体は重みで下がるため、呼吸が十分にできません。苦しくなって主は何度も膝に力を入れて少し体を持ち上げて呼吸をするのですが、すぐに疲れて体はまた下がってしまいます。ローマの兵士たちは主イエスに没薬をまぜたぶどう酒を飲ませようとしますが、これは十字架の苦しみを少しでも和らげようという兵士たちの憐れみだったのですが、主イエスはそれを飲みませんでした。主は、十字架の苦しみを最後まではっきりとした意識を持って受けるために、苦しみを和らげるものを一切拒否されたのです。
これらの処刑は、大勢の人々の前で行われました。肉体の苦しみもものすごいのですが、何よりも、これほど屈辱的な処刑はありませんでした。十字架にかけられたイエスをユダヤ人は神と信じることができなかったのですが、その一つの理由は、十字架にかけられるのはとんでもない悪人ばかりだったので、十字架に掛けられたような人物が神であると主張すること自体につまずいてしまったのです。道を通り過ぎる人々は口々にイエスを罵りました。宗教を教える祭司長や律法学者たちも罵りました。ルカの福音書を見るとローマの兵士たちは、みやげにイエスの着物をもらおうとくじ引きをしています。そのような中で主イエスが十字架の上で言われた最初の言葉が「父よ。彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか分からないでいるのです。」という許しを願う祈りの言葉でした。主イエスは神ご自身でしたが、肉体的には私たちと全く同じでした。極限の痛みと苦しみの中で主イエスは自分を罵る人々が許されることを願ったのです。十字架は主イエスの愛が表されたところでした。
(2) 十字架は主イエスの権威を表している
 主イエス・キリストが十字架につけられた時に、当時の慣例に従って、頭の上に十字架につけられた理由、罪状書きがつけられました。そこには「これはユダヤ人の王である」と書かれていました。これを書かせたのは主イエスの裁判を行ったローマの総督ピラトでした。十字架は人通りの多い道の近くに立てられたので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを見ました。ユダヤ教の指導者たちはピラトにそれを書き換えるよう要求しました。「ユダヤ人の王、と書かないで、彼は自分をユダヤ人の王と呼んだ、と書いてくれ。」と頼んだのです。しかし、ピラトはその要求を受け付けませんでした。ピラトは元々非常に頑固な人だったようです。自分の考えを曲げることのない男でした。しかし、イエスの裁判では、群衆が暴動を起こしそうな雰囲気になり、しかも、ユダヤ人から「イエスに罪を認めないのは、ローマ皇帝に反抗する人間を無罪にするようなもので、皇帝への反逆になる」と脅迫されて、彼は、自分の地位を守るために主イエスをユダヤ人たちに引き渡しました。しかし、ここでは、彼はユダヤ人指導者の要求を突っぱねて、「私が書いたことを、引っ込める気持ちはまったくない」と断言したのです。本来の頑固なピラトに戻りました。ピラトは自分では気がつかなかったでしょうが、彼は、主イエスが私たちにとって、王の王、主の主であることを証ししたことになるのです。この罪状書きがイエスが誰であるかをはっきりと語っていました。私たちが信じているイエス・キリストは私たちの主です。主人です。ですから、主を信じる者は、主イエスの権威のもとにひれ伏さなければなりません。私たちは主のしもべなのです。信仰とは、自分が何か得をするためのものではありません。本質的に、神様という絶対的な権威を持っておられる方に、100%服従して生きることです。私たちは、主イエスを信じると口で告白していながら、実際の生活で、主イエスを主人、あるいは王様のように扱っているでしょうか。それとも、自分が自分の人生の主人であるような生き方をしていないでしょうか。私たちは、神様の愛の面を強調しがちですが、信仰とは神様への心からの服従であることを忘れてはいけません。
(3)十字架は主イエスがこの世に来られた目的であった
 主イエスが十字架につけられた時、主の十字架は二人の強盗に挟まれて真ん中に立っていました。主イエスの体には激痛が走っていました。しかし、それに加えて、主の周りの人々は主イエスに中傷の言葉を浴びせました。十字架の前を通り過ぎて行く人々が主イエスをののしりました。イエスの裁判には直接関わってはいない人々ですが、裁判でのやりとりを噂で聞いたのか、キリストに反対する人と一緒になって、意味もはっきり分からないままにののしっています。また主イエスを訴えたユダヤ教の指導者たちもののしっています。そして、同じ十字架につけられた二人の強盗も最初は一緒になって主をののしっていました。彼らは同じ事を言っています。「おまえが本当に神の子なら、十字架から降りて来て自分を救え。」というものでした。主イエスは、全能の神であり、様々な奇跡を行った方です。主にとって十字架から降りることなど本当に簡単なことなのです。しかし、主は十字架から降りることをしませんでした。それは、主がこの世に来られた目的は、十字架で私たち罪人の罪を自分が身代わりになって背負って、十字架という裁きを受けることを通して、私たちの罪が赦される道を開くためだったからです。ピラトは真実を知りながら、自分の地位を守ることを考えて主イエスをユダヤ人たちに引き渡しました。しかし、主イエスは、自分の名誉を守ることや自分を苦しみから解放することを考えずに、ただ、罪に縛られて生きている私たちを救うことだけを考えておられたのです。私たちにこの救いがどうしても必要だということを主は知っておられたからです。どんなにののしられても一言もののしり返すことをせず、むしろ、父なる神に「彼らを赦してください」と主イエスは祈られました。そのような姿を近くで見ていた強盗の一人は、悔い改めました。そして、イエスこそが、神の御子キリストであることを確信しました。彼はどうしようもない悪人でした。十字架につけられるほどの悪人でした。家族からも見捨てられ、社会からも見捨てられた悪人でした。しかし、彼が主イエスに自分の気持ちを告白したとき、主イエスは言われました。「あなたがそのような気持ちならば、今、あなたは私とともにパラダイスにいるのだ。」すべての人から見捨てられ、憎まれていたその人を主は受け入れてくだいました。その人を含めて、私たち一人一人が救われるために、主は最後まではっきりとした意識の中で十字架の苦しみ、人々のあざけりを全部経験してくださいました。主イエスの十字架の苦しみがあったからこそ、私たちは罪の裁き、罪の束縛から自由にされたのです。私たちはこれまでは罪の奴隷として生きて来ました。これからは、主のしもべとして主に心から服従して生きて行かなければなりません。


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