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2003礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2003-04-20『栄光の姿に変えられる』(1コリント15章35-49節) (イントロ)クリスチャンにとって主イエスの復活を祝うイースターはクリスマスよりもずっと大切な日です。主イエスが、自己中心の心に束縛されている私たちを自由にするために私たちの身代わりになって十字架の刑罰を受けて命を捨てられた後、三日目に死から復活されました。このことは2000年前の人間にとっても信じがたいことでしたが、復活を信じた人々は短い期間の間にものすごい勢いで増え続け、イエスが復活された時、主イエスを信じる人々は120ほどであったのが、50年以内に地中海沿岸一帯に教会がたくさん生まれました。クリスチャンの力はローマ帝国の執拗な迫害にも決して弱まることなく、最終的にはキリスト教がローマ帝国に勝利をしました。彼らの信仰の基本は、今の私たちの信仰と同じで、主の十字架と復活です。今朝は、まず、主イエスが復活したことの証拠となるものについていくつか述べたいと思います。 1)主イエス自身の証言 主イエスは、弟子たちに向かって、ご自分が十字架の苦しみを受けることと三日目に復活することをはっきりと預言しておられました。主イエスの言葉や教えはこれまでにも多くの人に影響を与え、クリスチャンでない人々も主イエスに強い影響を受けました。多くの人が主イエスを偉大な道徳家、教師であると認めています。しかし、もし、主が復活されなかったのなら、主の言葉は偽りであり、主は偽り者ということになります。しかも、主イエスの生涯が十字架で終わったとすれば、主は不当な裁判によって命を奪われた哀れな者であり、悪が善を征服したこととなって、私たちは正義や真理を信じることができなくなります。主イエスは普通の人間ではありません。人間の姿を取られた全能の力を持った神ご自身なのです。神にとっては何一つ不可能なことはありません。 2)主イエスの墓は空だった 主の墓が空だったことは事実のようです。十字架の日から7週間後に、クリスチャンたちに聖霊が下って、彼らの信仰に力が与えられました。その日、ペテロは、主が十字架につけられた町エルサレムで、大勢の人の前で主の十字架と復活を大胆に説教したため、1日で3000人もの人がクリスチャンになりました。もし、主の墓が空でなく主イエスの遺体があったのなら、なぜ、ユダヤ教の指導者たちは、イエスの死体を持ってきてペテロを黙らせなかったのでしょうか。墓が空であったとしたら考えられる説明は2つです。人間が主イエスの体を盗んだか、超自然的な力が働いて主の遺体が取り去られたかです。もしも、人間の手で盗んだとしたら主イエスの仲間か、あるいは主イエスの敵です。しかし、主イエスの仲間が遺体を盗むためには墓を警備していたローマの兵隊と闘わなければなりません。武器を持たない弟子たちが盗むことができたとは考えにくいことです。一方主の敵がわざわざ主イエスの遺体を盗むことも考えにくいことです。そんなことをすれば、主が復活したという噂があっという間に広まってしまうからです。また、クリソストモスという人は次のように言いました。「主の遺体を盗む場合、わざわざ包帯をほどいて裸にして盗むことはしないはずだ。」しかも、空っぽになった墓に入った弟子ペテロが見たのは、巻かれたままの包帯でした。盗む人がわざわざ包帯をほどいて遺体を裸にし、それをまた丁寧に元の状態にして巻くというようなことをするでしょうか。 3)弟子たちの変化 第三の証拠は、弟子たちの変化です。主イエスが逮捕されたとき、弟子たちは、ヨハネとペテロをのぞいて皆逃げ去りました。彼らは希望を失い、主イエスが三日目に復活することを弟子たちに話していたにもかかわらず、三日目に墓に様子を見に行った弟子はいませんでした。日曜日の朝早くイエスの墓に行って墓が空っぽだったことを知った女性たちは大急ぎで弟子たちのところへ行きましたが最初は誰も信じようとしませんでした。また、彼らは、自分たちも主イエスと同じように十字架につけられるのではないかとユダヤ人を恐れて、隠れて集まっていたほどです。しかしながら、復活の主イエスと出会った弟子たちは新しい力を得ました。彼らは人々を恐れることなく大胆に主イエスの十字架と復活を語り始めました。彼らにとっても死んだ人が生き返ると言うのは信じがたいことです。しかし、彼らはいのちをかけて福音を語り続けたので、弟子たちの多くは信仰のゆえに殺されたり、投獄されたりしました。クリスチャンたちは厳しい迫害を受けましたが、彼らの信仰は消えませんでした。私たちは誰でも、自分の命を守ろうとします。臆病な弟子たちが、主の復活は嘘だと分かっていながら、主の復活を信仰し、そのために進んで命をすてるというようなことができるとは考えにくいことです。 4)パウロの手紙の証言 新約聖書は27の部分に分かれています。最初に福音書があり、その後にパウロやペテロが書いた手紙があり、最後に預言の本であるヨハネの黙示録があります。私たちは新約聖書の最初に福音書があるので、福音書から書き始められたように考えますが、実際には、パウロなどが書いた手紙のほうが先に書かれました。今日、読みましたコリント教会宛の手紙は紀元55年頃に書かれたものなので、イエスの復活から25年後ぐらいに書かれたものです。15章は復活の章と呼ばれますが、その中の3節から8節には、当時の教会で、まだ新約聖書を持たないクリスチャンたちがいつも礼拝の中で行っていた信仰告白の言葉でした。パウロもクリスチャンになった時に教えとして受けたものです。そこにはっきりと主イエスの復活について述べられています。主イエスが地上で活動をしていた時代に生きていた人が数多く残っていた時代の手紙です。ですから、もし主イエスの復活が偽りであるならば、公の場で読まれたパウロの手紙が今日まで読み続けられることはなかったでしょう。 主イエスの復活を証明するためには、時間を逆に戻したり繰り返したりすることができないので、化学の実験のような方法で証明することはできません。ですから、主の復活を証明するためには、その時代の状況をいろいろ考えて判断を下すのです。世界の歴史を見ると、今から2000年前のローマ帝国の中で何かが起こったことは確かです。ローマ帝国の東の端にあった町エルサレムに120ほどの人が信仰を持ったところから始まったキリスト教がついにはローマ帝国を支配するまでに至ったのです。しかも、その教えは神の子イエス・キリストが人の罪の身代わりとなって十字架で死に、三日目に復活したという普通には信じがたい教えです。しかし、その時、歴史が動いたのです。 + コリント第一の手紙の15章は復活の章と呼ばれています。パウロが復活のことを詳しく述べていますが、ただし、パウロはキリストの復活を証明するためにこの章を書いたのではありません。キリストの十字架と復活を信じるクリスチャンも復活する希望があることを証明するために書いているのです。パウロは死者の復活を言葉で説明出来るものではないことが分かっていましたので、死者の復活を三つのたとえを用いて表しています。まず第一にパウロは植物の種に例えて語っています。私たちが種を蒔くときに、自分が蒔いたのと同じ種を収穫することを考えてはいません。種は地中に植えられて一度死にます。しかし、その死を通して新しいいのちが芽生えるのです。わずかな種を蒔いても、収穫の時には何倍もの実を収穫することができます。蒔いたのと同じ種ではありませんが、その種から成長してできた実ですから、その実は種から続いているものです。だれも、小麦を蒔いたのに、大麦を収穫するなんてことはないのです。 しかも、私たちが収穫するものは、普通、蒔いた種よりも美しいものです。中チューリップの球根はあまり美しいものではありません。だれも、部屋の中にチューリップの球根を飾ろうなどと考えません。しかし、その球根から出てくるチューリップの花は本当に美しいです。私たちが死ぬときに、私たちの肉体は分解します。人は土から取られてまた土に戻ります。聖書は、主イエス・キリストを信じて死んだ者は、世の終わりの時に、キリストが復活されたのと同じように、新しい体、栄光の体を与えられて復活すると教えています。その体は、一度分解したものをただ元通りに組み合わせたものではありません。球根と花が続いているように、今の私たちの体と将来与えられる栄光の体は続いているものですが、同じではないのです。聖書は、人は生まれつきの肉体と血を持ったままでは天国に入ることはできないと教えています。やがて私たちに与えられるのは天国に入ることのできる栄光の体なのです。 また、パウロは今の体と将来の体の違いを詳しく説明しています。私たちの肉体は朽ちて行く体です。しかし、やがて与えられる栄光の体は朽ちることがありません。天国には朽ちることや死ぬことが存在しないからです。私たちの肉体は弱い肉体です。特に、死んで葬られる時、体はまったく弱いものです。しかし、やがて復活するときの体は力に満ちています。今与えられている体は、地球上の環境に適している体ですが、将来与えられる体は天国の環境に適している体なのです。主イエスが復活されたとき、主はある場所から別の場所へとさっと移ることができました。また、部屋の扉が閉ざされていましたが、その部屋の中に入ることができました。しかしながら、同時に、主イエスは復活の後、弟子たちと一緒に食事をしました。また、弟子たちも、主の体に触ることができました。現実の体だったのです。46節が大切な原則を述べています。最初に血肉、つまり、この地上の生活に適した体が与えられます。そして、その体が朽ちた後に霊的な体、天国の生活に適した体が与えられるのです。私たちは主イエスを信じる時に、新しく生まれ変わりを経験します。血肉の体で生まれた者が霊的な体を受け取る者へと生まれ変わるのです。 私の父は2月に天に召されました。父は晩年になって大きな病気をいくつか患ったため父の体はぼろぼろでした。骨が自然に折れてしまうほどに体は弱っていました。召される2日前から顔のほほがすっかりこけて顔が変わってしまいました。しかし、その父の体は朽ちていく体でした。今、父の魂は神のそばで永遠の休息に入れられています。やがて、神様が定められた終わりの時が来ると、父も栄光の体を与えられて主イエスと同じように復活することを私は知っています。父の肉体は一度朽ちましたが、そこから新しい栄光の体が生まれるのです。それはまさしく父の体ですが以前と同じではありません。地上の体はぼろぼろでしたが、新しく父が受け取る体は朽ちることのない栄光の体です。そのことを知っているから、私たちは希望を持っています。肉体の死が永遠の別れではなく、また再会できること。世の終わりの時には、私たちは皆栄光の体に変えられて、永遠に神との交わりに入れられることを知っているから、希望があるのです。私たちにとってもはや死は敵ではありません。主イエスの復活によって、私たちも死に勝利することが約束されているからです。私たちは今の肉体の弱さを嘆く必要はありません。私たちは、やがて必ず永遠に朽ちない栄光の体に変えられるからです。
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