|
2003礼拝めっせーじ
|
礼拝説教
2003-05-04『光の子として生きる』(エペソ5章1-7節) (イントロ)(1)神にならう者として生きる 「ならう」と訳されている言葉は「真似をする」という意味の言葉です。それは、私たち、主イエス・キリストを救い主と信じる者たちは神のこどもとなったのだから、子供は親の真似をして生きるものだからです。私は、父の態度で少しイヤだなと思うところがあったのですが、ある日、自分も全く同じ態度を取っていることに気がついて愕然としたことがありました。子供は親の姿をいつも見ているので、きがつかないうちに話し方や、いろいろな仕草が親に似てくるのです。私たちは、イエス・キリストを信じる前は自分の欲望・自我に縛られていて自由のない生き方をしていました。私たちは、自分の心の中にあるプライドのために、自由に他の人を許すことができなかったり、他の人が喜んでいるすがたを見て一緒に喜ぶことができなかったりします。また、他の人と口論になったときに、一歩自分が譲れば口論にならないことが分かっていても、その一歩を譲ることのできない自分がいます。聖書は、はっきり言っています。罪を持っている人は罪の奴隷です。 私たちは神様を無視して生きていました。神様が嫌うようなことを考え、行っていました。しかし、神様の忍耐をして私たちを愛し続けてくださいました。私たちは罪の奴隷だったのですが、私たちに憐れみを表してくださった神様は、その罪の刑罰を私たちに与えるのではなく、代わりに一人子イエス・キリストを十字架につけてくださいました。そのことにより、私たちの罪は帳消しになりました。人が自分の友達のために命を捨てること以上に大きな愛はないと主イエスは言われましたが、主イエスは、神に反抗している者、神を無視して生きる者のために、自分のいのちを犠牲にされました。それが2節の「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」という言葉の意味です。パウロはキリストの犠牲を、旧約聖書の時代に捧げられていた「香ばしい香のささげもの」に例えています。香ばしい香りのささげものとは何でしょうか。それはキリストが十字架で払ってくださった犠牲は神の律法を満たすものであり、父なる神の怒りをなだめるものである。私たちの罪が赦されるためには、神の一人子の尊い命を犠牲にしなければならないほど、人間の罪は大きいのです。神様が私たちを罪から救い出してくださった目的は何でしょうか。それは人間が本当の意味で人間らしく生きるためでした。人間は神のかたちに似せて作られています。ですから本当の意味で人間らしく生きるとは、私たちが神の生き方にならう生き方をする必要があります。わたしたちは神の子どもとなりました。今までは罪の奴隷でしたが、今は神の子どもにしていただきました。神の子どもとなったのですから、もう私たちは罪の奴隷として生きる必要はありません。また罪の奴隷として生きるべきでもありません。神の子どもには神のこどもにふさわしい生き方があるからです。私たちは、自分の欲望や本能にしばられて一生を生きるために作られたのではありません。神の子どもとして充実した人生を生きるために造られたのです。私たちはどうなってもかまわないような人間ではありません。神様から愛され神様から大いに期待されている人間なのです。 (2)不品行をさけなさい 神にならう者として生きるために、パウロは、第一に、エペソ教会のクリスチャンたちに不品行をさけなさいと命令しています。エペソにはアルテミスという女神の壮麗な神殿がありましたが、そこでは非常に不道徳なことが行われていました。ですから、そのような町に住む人々も不品行に対して慣れっこになっていました。また、当時のギリシャやローマの世界では、自分の性欲や肉欲のままに自分を喜ばせる生き方が自然な生き方だと考える傾向がありましたので、ローマの知識人であるキケロまでもが売春を禁止することは不自然なことだと語っていました。当時のエペソの町の状況は今の日本と同じと言えるでしょう。日本でも今、若者の間でエイズの蔓延が問題となっています。あまりにもセックスを軽いものと考えているためです。 パウロはエペソに住むクリスチャンに向かって「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも避けなさい」と命じています。パウロはエペソのクリスチャンを「聖徒」と呼んでいます。聖書で「聖なるもの」というのは、人でも物でも、神様にささげるために他から完全に区別されている人や物を意味します。旧約聖書の時代、エルサレムにはユダヤ教の神殿がありましたが、そこには聖なる道具が置かれていました。それらはなぜ「聖なる」道具であるかと言うと、机にしても、ろうそく立てにしても、それは、神殿だけで使うもので、それ以外の場所では絶対に使われない特別なものだったからです。毎日の生活でも使い、神様の儀式のためにも使うということはありませんでした。クリスチャンが「聖徒」と呼ばれるのは、主イエス・キリストを信じた時に、私たちはこの世から分離されて、神様の所有物となったからです。主イエス・キリストを信じる前は、私たちは自分の欲望に支配され、サタンに支配されていましたが、今では神様の所有物になったのです。100%神様のものになったのがクリスチャンなのです。第一コリント6章の19―20節には次にように書かれています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」旧約聖書のモーセの時代、神様はイスラエルの民が作った幕屋に住んでおられました。また、ソロモンの時代にはエルサレムの神殿に住んでおられました。それぞれ、神様がおられる場所は最も聖なる場所で、ユダヤ教のトップである大祭司以外には誰も中に入ることは許されませんでした。それほど神は聖なる方なのです。ところが主イエスの十字架によって人々の罪が赦される道が開かれた時から、神様は主イエス・キリストを信じるクリスチャン一人一人のうちに聖霊という目に見えない姿で住んでくださるようになったのです。私たちのからだはもはや私自身のものではなく、神様のものです。神殿の道具は神様のためにだけ使われるという意味で聖なるものであったのと同様に、私たち一人一人の体も神様の栄光を表すためにだけ用いるべきものなのです。人が犯す罪はすべて体の外のものです。しかし、不品行を行う者は自分のからだに対して罪を犯すのです。不品行とは不道徳な性関係をすべて表す言葉です。神様が男と女を作りそして、人間が最も近い関係を持つものとして結婚という場を与えてくださいました。セックスは夫と妻が体も心も一心同体となるものとして神様が祝福しておられるものです。どんなに古い考え方だと言われようと、聖書ははっきり命じています。神がそのように命じておられるのです。私たちは、主イエスが十字架で命を捨てるという大きな犠牲を払って、サタンの支配から救い出されて神の子どもに加えていただいたのですから、私たちは、自分の体も心も神様の栄光を表すべきではないでしょうか。 私たちは、主イエス・キリストを信じたことによって新しく生まれ変わりました。罪がすべて許されて新しい人生をスタートしました。しかし、まだ、この救いは完成した訳ではありません。私たちのうちには、罪の性質が完全になくなってしまったのではないので、放っておくと、根が残っている雑草のように、また姿を現します。ですから、クリスチャンはいつも自分自身をよく点検しておかなければなりません。牧場で飼っている牛が時々迷子になることがあるそうです。牛が草原で草を食べている時に、隣にも草が生えているのを見て、隣に移って草を始めるのだそうです。そこで食べながらまた隣を見ると、そこにも草が生えているのでその草を食べます。そのようにして草ばかりを見て追いかけて食べるうちに自分が最初にいた場所から遠く離れていることが分からず、迷子になってしまうそうです。私たちも、自分の欲望を満たそうと、欲しいものばかりを見ていると、いつの間にか神様からはるか遠くに離れてしまうのです。私たちは、今は、神様のこどもです。神様のこどもにふさわしい生き方をしましょう。行いにおいても言葉においても、あらゆる不品行を遠ざける決断がどうしても必要です。 (3)神に感謝しなさい 4節では、パウロは私たちの言葉に関して戒めています。私たちの口からでる言葉は私たちの心を表すものです。心の中に不道徳な欲望があると、みだらなことを話したりみだらな冗談を話したりして楽しむのです。愚かな話とは人の品性を傷つける言葉です。神様が私たちに与えて下さった口を使って、私たちはいろいろなことができるのですが、私たちはそれを神様の栄光を表すために用いているでしょうか。神様の栄光を表すのにはどうすれば良いのでしょうか。パウロはコロサイ人への手紙の中では、「キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせなさい」と命じています。キリストの言葉が豊かになると、塩味の聞いた、回りの人が聞いても、神様が聞いても本当に、ここちよい言葉を語ることができるようになるのです。また、4節でパウロは「むしろ神様に感謝をささげなさい」と書いています。私たちは、いつもあれが欲しい、これが欲しいと感じて、いつも心が満たされていません。しかし、よく考えて見ると、私たちは、神様から絶大な愛を受けて、また自分の価値を認めてもらって、そして将来に向かっても永遠のいのちという希望を与えられているのです。私たちが、クリスチャンとしてふさわしい生き方は、すべてのことに神様に感謝を表すことです。たとえ、今の生活が大変であっても、困難があっても、神様がいつもともにいて私たちを励まし支えてくださるのです。この世で一番偉大な方が私たちのことを心配して私たちのために働いてくださるのです。こんな素晴らしいことはありません。私たちは体を用いて、口を用いて、心を用いて、神様に感謝を表し、神様の栄光を表す生き方をしていきたいものです。それが私たちのもっとも幸せな生き方です。自分を最高に愛して下さる神様に自分の愛をお返ししていく生き方です。 かつて初代教会の時代にクリソストモスという偉大なクリスチャンがいました。この人については次のような話が残っています。ローマ皇帝がクリソストモスを逮捕したときに、彼に信仰を捨てさせようとしました。皇帝は部下に彼を牢屋にぶち込むように命じました。すると部下が答えました。「皇帝。あいつは喜んで牢屋に行くでしょう。あいつは静かな場所で神にお祈りができると喜んでいるんです。」するとローマ皇帝は「あいつを処刑しろ」と命じました。今度は部下が「皇帝、あいつは処刑されることを喜ぶんですよ。はやく天国に行けるからって。皇帝、あいつを苦しめる方法は一つしかありません。それは、あいつに神が嫌うような悪いことをやらせることです。あいつは言っていました。「わたしは何よりも神に対して罪を犯すことをおそれているのだ。」と。私たちもクリソストモスのような生き方をみならいたいものです。
ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |