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2003礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2003-05-11『暗闇から光へ』(エペソ5章8-14節) (イントロ)(1)私たちは霊的に暗闇の中で死んでいた パウロはエペソ人への手紙5章の1節から、クリスチャンがどのように生きるべきかについて述べていますが、特に、パウロは神を信じない人間の姿と神を信じる人間の姿を暗闇と光の関係に例えて述べています。パウロはこの手紙の2章で、神を信じない人間は自分の心の中にある自己中心の思いにしばられて自由に生きることができず霊的には暗闇の中に死んだようなものだと述べています。4つの法則という伝道用のトラクトがありますが、そのトラクトは、神を信じない人間の心を一つの絵を用いて表しているのですが、罪人の心の真ん中に立派ないすが描かれています。王様が座る王座です。そのいすに自分が座っているのが自己中心の罪人の姿だと言うのです。自分が王様になって威張っているのです。自分が王様なので、何でも自分の思うように進まないといらいらして腹が立ちます。いつも周りの人から注目してもらいたいと思うので、あまり注目されないと無視されたと思いこみます。自分が王様ですから、間違ったことをしても謝りません。むしろ他の人が謝るのを待っています。他の人に少し譲ればスムーズに解決することも、その少しが譲れないのでトラブルは大きくなります。やらなければいけないと分かっていることができなくて、やってはいけないと分かっていることをやってしまうのです。これが神を信じる前の人間の姿です。大変不自由な生き方です。聖書は、それは暗闇の生き方であり、本来の人間の生き方ではないと教えています。心の中にはいつも怒りや不満や憎しみが満ちています。しかし、私たちはそのような生き方をするために神様に造られたのではないのです。 2章の4節に「しかし、憐れみ豊かな神はわたしたちを愛してくださった。」という言葉があります。自我に縛られて暗闇に生きていたような私たちを、あわれみ豊かな神様は愛してくださいました。ある先生が次のように入っておられました。わたしたち人間が「しかし」とか「でも」という言葉を使うときは、良いことが悪い方へ進む場合が多いが、神様が「しかし」という言葉を使うときは、つねに悪い状態から良い状態へ変わる希望を表す言葉であるというのです。私たちは霊的に死んでいました。私たちは自分の力で神様の教えを守ろうとしても、それができないのです。ある人々は、キリスト教の信仰とは、主イエスの教えを実行することが中心だと考えます。しかし、聖書は、私たちには良い行いはできないとはっきり断言しています。神様は私たちを神の姿に似せて造ってくださいました。私たちは、神のように愛に満ちた人になることができたのですが、最初の人間アダムとエバが神に反抗して神の命令を破ったときに、人間の心の中に自分が王様になろうとする罪が入り込んで、アダムとエバから生まれた全ての人間は、罪の心を親から受け継いで生まれて来るようになりました。ですから、子どもは、どんなに天使のような顔をしていても、けんかをしたり、親の言うことを聞かなかったりします。「いや」という言葉を初めに覚えるのです。暗闇は死を表します。もし、この世界に全く光がない暗闇の状態であれば、動物も植物もみな生きていくことができません。人間の体も光を必要としています。アメリカで見たのですが、アメリカのミシガン州では、冬の間はいつもどんより曇っているため鬱病になる人が多いのだそうです。そのような鬱病の治療のひとつとして、アメリカでは、家の中で太陽と同じような光をだすライトを使うのです。私たちの心も光を必要としています。私たちの魂も霊的な光が必要なのです。 (2)光である主イエス・キリスト 旧約聖書には救い主を預言する言葉が数多く書かれています。主イエスよりも700ほど前に生きた預言者イザヤも主イエスの預言をたくさん書きました。その中の一つに「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」というのがあります。主イエスは、暗闇の中で霊的に死んでいる人々を照らす大きな光、真の光だと聖書は教えています。救い主を信じて信仰を持つとき、私たちは救われたと言います。私たちは何から救い出されたのでしょうか。それは、暗闇の中に縛られていた私が、光である主イエス・キリストを信じることによって、闇から光の中へと救い出されることを意味します。なぜ、私たちは救われるのでしょうか。それは、神に反抗する者、神を無視する者であった私たちを神様が愛してくださったことによるのです。神様の愛を私たちが受け取る時、神様は霊的に死んでいた私たちを神とともに生きる者に変えてくださいます。それは、神を信じる者の中に働く力は、キリストを死者の中から復活させた神の力です。絶大な神の力が働くのです。私たちは、このように、以前は暗闇だったのですが、今は、主イエス・キリストにあって、光となりました。光である主イエスと一つとなったからです。主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です」と言われました。ブドウの枝は、ぶどうの木から切り離されるとブドウを実らせることができず枯れてしまいます。しかし、どんなに細く弱い枝であっても、ブドウの木につながっていれば実を結びます。それは、ブドウの木が根から水分やたくさんの栄養分を吸収してそれを枝に流すからです。そのように、主イエス・キリストを信じる者はキリストと一つにつながっています。自分のうちにはない新しいいのちが、新しい力がキリストから与えられるのです。私たちは、神様に愛されて、主イエス・キリストの十字架の犠牲のおかげで、光であるキリストとひとつに結び合わされ、神の子どもとして生きていくように導かれました。もう時代が変わったのです。暗闇の時代が終わって光の時代になりました。だから、パウロは、私たちは光の子どもになったのだから、光の子どもとしてふさわしい実を結びなさいと教えているのです。パウロは光の実として三つのものをあげています。善意と正義と真実という実です。 (a)善意と訳されている言葉は、周りの人々に対して良い心を持ち、良いことを行う人を意味する言葉です。言い換えると、すべての人に対して、その人が望むような接し方をするということです。困っている人がいるならば進んで助ける憐れみに満ちた気前の良い心を持っている人を意味します。 (b)正義と訳されている言葉は、正しい人であり、正しいことを行う人を意味します。単純なようですが、大切なことです。神の目に正しいと認められている状態と、神の目に正しいことを行うことの両方を意味するのです。別の言い方をすると、Being とDoingの両方が必要だと言うことです。クリスチャンの中にはどちらか一方を強調して、もう一つを軽視する人がいます。ある人は、主イエスの十字架によって救われたのだから、信仰さえ持っていれば、どんな生き方をしても神様は受け入れてくれると考えています。しかし、私たちは暗闇から救い出されて光の中に入れられたのですから、光の中で暗闇にいたときと同じ生活はできないはずです。正義という言葉には、神の前にふさわしい生活をすることも含まれているのです。また、反対に正しい行いをすることを強調する人々もいます。聖書の教えを守り行ったから神から救いを与えられたと考えるのです。私たちが救われたのは自分からでたことではなく、神からのプレゼントとして与えられたものであることを忘れています。そして、道徳的な生活をすることは悪くないのですが、他の人の欠点や過ちを探し出して、人をさばくようになります。私たちは、よく他の人と比べて生きています。「私はあの人よりは良い生活をしている」などと考えます。しかし、どんなに比べても、全ての人間は神様の基準には遠く及ばないのです。全ての人は、神の目には罪人なのです。私たちは、光のこどもにしていただいたのです。主イエスにつながる人になったのですから、それにふさわしい実を結びたいものです。 (3)真実とは真理とも訳せる言葉です。主イエスは「私は道であり、真理であり、命です」と言われました。神ご自身が真実な方です。闇の生活とは偽りの生活です。汚れたものを隠す生活です。私は、以前、大使館に勤めて入るときに、用事で朝早く六本木に行くことがありました。月曜日の朝だったのですが、歩道は本当にゴミにあふれて汚かったのです。あまりの汚さに驚きました。でも、これが六本木の現実です。おそらく、夜の六本木は色鮮やかなネオンやライトがあふれてきれいな街角でしょう。喜びや夢に満ちた場所に見えたことでしょう。しかし、次の日の朝になると、そこは人々が残したゴミ、はき出したものなのでまったく汚れているのです。私たちの生活は暗闇で覆われていてはならないのです。私たちは光のこどもだからです。私たちは神様に何も隠すことはできません。そして、神様は私たちを見ておられます。飛行場に行くと金属探知器を通らなければなりません。あまり気分の良いものではありませんが、安全上大切なものです。私たちは爆弾やピストルを持っていないのですから、何も恐れる必要はありません。堂々と通ることができます。しかし、もし私たちがポケットの中に武器を隠し持っていれば私たちは緊張してしまうはずです。機械の目をごまかすことができるかどうかひやひやするはずです。神様の目は機械以上に私たちのすべてを見抜く方です。私たちは暗闇のわざをやめて、光の中で生きるべきなのです。 (3)光のこどもとして生きる 主イエスとクリスチャンの関係はよく太陽と月の関係に例えられます。キリストがこの世に来られた時に、主イエスは光り輝く太陽のようでした。太陽が沈むと月が現れます。月は、クリスチャンを表します。月は自分で光ることはできませんが、太陽の光を受けて反射することができます。月の表面で光っているのは太陽の方を向いている面だけです。そのため、月と地球の位置の関係から、ある時は満月であり、ある時は新月になります。私たちがキリストの方を見れば見るほど私たちはキリストの光を受けて光を放つことができます。主イエスも「あなたがたは世の光です。あなたがたのひかりを輝かせなさい」と言われました。わたしたちがいつもキリストを見上げて、キリストの光を反射するものでありたいものです。この世は暗闇です。神を信じないで罪という暗闇に満ちています。私たちが光を輝かせるのは、この世の人々にキリストの愛と希望を知らせるためです。自分を見せるためではありません。私たちは神様から愛を受けました。赦しを受けました。永遠のいのちというすばらしいプレゼントを受けました。神から受けた素晴らしいものを、暗闇にいる人々に示し、人々が神様の素晴らしさを知るようになること、それが私たちに一人一人のクリスチャン、また教会に与えられた使命なのです。
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