2003礼拝めっせーじ

礼拝説教05/25|メッセージ2003メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2003-05-25『聖霊に満たされる』(エペソ5章15-21節)
(イントロ)
 パウロがいつも考えていたことは、神様が主イエス・キリストを通して自分にどんなに素晴らしいことをしてくださったかということでした。パウロは別の手紙の中で「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」と述べています。つまり、言葉では言い尽くせないほどに、神様は私たちに素晴らしいものを与えてくださったのです。しかも、私たちがどんなに神様に反抗して生きてきた人間であったとしても、また、どんなに神様を無視して生きてきた人間であったとしても、そのすべてを主イエス・キリストの十字架のゆえに、赦してくださり、私たちを神の子どもとして生きるようにしてくださり、そして永遠のいのちを約束してくださいました。先週の火曜日に小峯さち子さんが天に召されました。小峯さんは若いときに輸血を受けたことが原因でC型肝炎にかかり、長い間病気と闘っておられました。細い体で本当に大変な戦いだったと思います。小峯さんの肉体は土に帰りましたが、小峯さんのいのちは神様のもとに移されました。主イエス・キリストを信じる者は誰でも、そのいのちは決して滅びることなく、永遠に神とともに生きるように導かれるのです。肉体の死は恐ろしいことです。地上に生きる私たちから見ると死はすべてを奪い去っていくもののように見えます。しかし、その向こう側には神とともに永遠の平安に生きる希望が広がっているのです。これは、私たちが正しい生き方をしたからではありません。良い人間になって良い生活をしたからではありません。自分が何かをした結果ではないのです。そのすべては、主イエス・キリストが十字架で私たちの身代わりとなって罪の刑罰を受けてくださったことによるのです。パウロはそのことを痛感していました。彼はクリスチャンになる前にクリスチャンを迫害したり、クリスチャンを殺すことに賛成していましたから、自分は罪人の頭だと思っていました。だからこそ、パウロにとっては、主イエスが十字架で示された愛の深さをよく知っていたのです。私たちは、信仰というと、神様は私に何をしてくれるのだろうかということを考えがちです。しかし、神様はもうすでに最も素晴らしい働きを私たちのためにしてくださったのです。十字架によって、私たちは自分の罪の刑罰を受けなくてもよく、肉体の死が魂の滅びではなくなり、神と共に永遠のいのちを持つ人間に変えられているのです。私たちは、神様に祈るとき、神様のしてくださったすばらしいことについてどれだけ考えているでしょうか。神様への感謝を忘れて、神様はあれも与えてくれない、これも与えてくれないと不満ばかりを述べていないでしょうか。もうすでに、神様は、私たちに、人生の中でもっとも大切なものを与えてくださいました。永遠のいのちです。それより他のものは、どんなものであっても、永遠のいのちと比べればたいしたものではありません。私たちは、神様が何をしてくださるかということ以上に、私は神様のために何ができるだろうかということを考えることが大切です。私たちの人間同士の関係でも同じです。いつも相手から何かをもらうことしか考えない人がいたとすれば、私たちはその人を見てどう思うでしょうか。きっとあまりいい気持ちはしないと思います。しかし、神様は、私たちを見て、どう思うでしょうか。私たちとの関係を本当に喜んでくださるでしょうか。パウロがエペソ人への手紙の中で、繰り返して「神のこどもらしく生活をしなさい」とか「光のこどもらしく生活しなさい」と述べています。今日の箇所では「賢い人のように歩みなさい」と勧めています。しかし、パウロは道徳的生き方をするように説教しているのではありません。パウロは「まず、神様が私たちのためにしてくださった大きな犠牲、深い愛の働きを考えなさい。そうすれば自然に神様に喜ばれる生き方をするようになるはずです。」と語っているのです。
(1) 酒に酔ってはいけない
 今日読んだ聖書箇所の中心テーマは「聖霊に満たされなさい」と言うことですが、その前に、酒に酔ってはいけないと教えています。パウロはこの手紙の前のところで光の生活と闇の生活を比べています。また、15節では賢い生活と愚かな生活を比べています。パウロは正反対のものを二つ並べてその違いを明らかにしているのですが、ここでは、聖霊に満たされる人生は、クリスチャンが光の生活賢い生活を送ることができる原動力であり、反対に酒に酔う生活は闇の生活、愚かな生活の印であると述べています。人はいろいろな理由で酒を飲みますが、最も一般的な理由として、楽しい気分になりたいことと、嫌なこと苦しいことを忘れるために人々は酒を飲みます。飲酒が問題なのは、楽しい気分になりたいという動機ではなくて、楽しい気分になる方法です。酒を飲んで人が感じる陽気な気分は表面的、一時的なものです。また、酒を飲んで嫌なことを忘れるのは問題から一時的に逃げているだけであって何の解決にもなりません。酒を飲むことで人生の問題が解決することはありません。旧約聖書も新約聖書も酔っぱらうまで酒を飲むことを罪と見なしています。ノアは正しい人だったので大洪水が起きた時に神様に助けられましたが、洪水の後、ノアは酒を飲んで酔っぱらったためにはずべきことをしてしまいました。またコリントの教会では教会で聖餐式を行う時に一緒に食事をしていましたが、その時に、食事ができずに空腹の人がいる一方で酒を飲み過ぎて酔っぱらう人がいたため、パウロは厳しくいましめています。クリスチャンとして酒を飲むことをどのように考えたら良いのでしょうか。ジョン・マッカーサーとう牧師はこの問題を考えるのにいくつかの質問をしています。1)酒を飲むことは好みの問題であるが、それはベストチョイスと言えるだろうか。2)飲酒は中毒になりはしないか。3)アルコールには人の品性を汚す力がないか。4)酒を飲むことは他のクリスチャンの躓きにならないか。5)酒を飲むことはクリスチャンとしての証を弱めないだろうか。6)酒を飲むことは正しいことだろうか。私たちは、神様の深い愛によって罪の中から救い出され、罪を赦されました。そして神の家族に加えてもらいました。そのような状況の中で、私たちはいつも神様との関係をまず喜んで生きることが大切です。私たちは喜びを感じるのに酒に頼る必要はありません。神と共に生きることは大きな喜びです。問題が起きた時に、酒を飲んで忘れようとする必要もありません。私たちには、全能者である神様がおられるのですから、神に祈り、神様の助けと導きをいただいて、その問題に立ち向かうことができるのです。
(2) 御霊に満たされなさい
 御霊に満たされることと、御霊が私たちの内に住んでおられることとは違います。私たちは、過去にどんな生き方をしていたとしても、主イエス・キリストを救い主として信じる時に、主イエスは、肉の目には見えない聖霊の姿で私たちの心の中に入ってくださいます。パウロは、聖霊を持っていない人はキリストを持っていないと書いています。パウロはコリント教会のクリスチャンにも手紙を書きましたが、コリント教会のクリスチャンたちは信仰が幼く彼らの生活は決してクリスチャンにふさわしいものではありませんでした。しかし、そのような彼らに対して、パウロは「一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされた。」と言っています。すべてのクリスチャンの内側に聖霊は永遠に住んでおられます。しかしながら、私たちはいつも御霊に満たされているとは限りません。だからパウロはここで「御霊に満たされなさい」と命令しているのです。日本語では「満たされなさい」訳されていますが、ギリシャ語を正確に訳すならば「いつも満たされ続けていなさい」となります。満たされ続けるということは、クリスチャンは毎日、一瞬一瞬、聖霊の支配に従う決断をしていくことを意味します。しかもこの命令は受身形の命令です。つまり、自分が何かをして聖霊に満たされるのではなく、聖霊に満たしてもらいなさいというのです。聖霊に満たされることはあくまでも聖霊の働きです。しかしながら、私たちが聖霊の働きに従う決心をしなければ聖霊は働くことができません。夫婦の関係が良い状態であるには、夫と妻が今互いを愛する心を持っていなければなりません。昔持っていた愛ではなく、また将来いつか持つだろう愛でもありません。聖霊に満たされるクリスチャンは野球のグローブのようなものです。グローブはそれだけは何の働きもしません。グローブは、実際には、何の働きもしません。グローブがボールをキャッチするのはグローブの働きではなく、その中に入っている手の働きなのです。
 聖霊に満たされるために必要なことは、罪の告白です。自分の意志や願いを主張するのではなく、神の支配に従うことが必要です。その具体的な方法は何でしょうか。パウロはコロサイの教会に送った手紙の中で次のように言っています。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい。」聖霊に満たされるとは、何か特別な体験と言うよりも、キリストの言葉を自分の心に蓄えて行き、それを生活の中に表して行くことです。いつもキリストの心を自分の心とすることです。ペテロが12弟子の中で力があったのは、彼がいつもキリストを見つめ、キリストの近くにいることを願ったからです。主イエスが山に登る時も、道を歩くときも、船に乗るときも彼はいつもできるだけ主イエスの近くにいようとしました。ペテロが失敗をするのは、いつも、彼が主イエスから目を離す時です。ですから、いつも御霊に満たされ続ける生活とは、いつも自分のそばにキリストがおられることを意識している生活と言えるでしょう。道を歩いている時、電車に乗っている時、家の中で何かをしている時、ちょっと思いをイエスに向けて見ましょう。「今、この場所に、目には見えないけれども、主がともにおられる。」意識的に主の臨在を感じることです。主が共におられると分かると、不思議な平安を感じます。何か不思議な喜びを感じます。パウロはクリスチャンとして生活することをクリスチャンとして歩みなさいと言っていますが、私たちが歩く時、いつも一歩一歩足を前に出して歩きます。生活の中で一歩足を前に出すときに、主の臨在を意識しましょう。また一歩前に進む時に主が共におられることを意識しましょう。一つの決断、一つの選択をするときに主がおられることを意識するのです。
 聖霊に満たされている人の特徴は何でしょうか。第一に、それは喜びに満ちて神を賛美する姿です。主に向かって賛美をささげ、お互いに語り合うときも詩と賛美と霊の歌で語り合いなさいと言われています。霊に満たされた人々の心はいつも賛美であふれていました。宗教改革を行ったルターは礼拝に賛美をもたらしました。18世紀にイギリスでリバイバルが起きた時、チャールズ・ウェスレーは6000曲もの讃美歌を書きました。第二にしるしは神様への感謝に満ちあふれる心です。私たちは神様から深い愛を注がれています。たくさんの祝福を受け、導きを受けました。信仰の根本は神様にありがとうと言う気持ちをいつも持つことです。第三の印は従順に従う心です。21節に「キリストを恐れ尊んで互いに従いなさい」と勧められています。私たちの模範は主イエス・キリストです。主イエスは、神の栄光を全部棄てて、父なる神の御心に従いました。主は、プライドに満ちた弟子たちの足を洗いました。私たちが主イエスに心から従うとき、互いに他の人を尊重することができるようになります。主が仕える者となられたのです。本当のクリスチャンは他の人に仕えて生きる人です。


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