2003礼拝めっせーじ

礼拝説教07/06|メッセージ2003メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2003-07-06『聖書が教える主従関係』(エペソ6章5-9節)
(イントロ)
 パウロはエペソの町でクリスチャンになった人々に向かってこの手紙を書いています。エペソは当時、道徳的に退廃した町で、多くの人がひどい生活を送っていました。そのような町でクリスチャンになった人には、クリスチャンとして具体的にどのような生活をするべきなのかということを教えなければなりませんでした。そのような教えの一つが「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」つまり、キリストを尊敬する気持ちを持って、お互いに相手の人を立てなさいと勧めました。お互いに相手を立てるという具体的な例として、パウロは家庭の仲での3つの人間関係について語りました。それは夫婦の場合、親子の場合、そして主人と奴隷の場合です。当時ローマ帝国には約6000万人もの奴隷がいたと言われています。当時のローマ市民は非常に怠惰な生活を送っていました。ローマ市民は、ローマが世界の女王なのだから、働くことは恥ずかしいことだと考えて家庭の中の仕事のほとんどは奴隷がしていました。ローマだけでなく、コリントやエペソのような大都市では、人口の3分の1が奴隷だったほどです。エペソ教会の中には主人もいたでしょうが、それ以上に奴隷や以前奴隷として働いていた人々がいました。当時のローマ社会では、奴隷は主人の道具のように考えられていて、一人の人格を持った人間とは考えられていませんでした。奴隷だけでなく、パウロがこの手紙の中で取り上げた3つの人間関係において、夫婦の場合は妻、親子の場合は子供、そして主人と奴隷の関係では奴隷という弱い、或いは当時の考えでは低い立場にある者たちには自分で考えて決断する権利が与えられておらず、ただ無条件に妻は夫に従い、子供は親に従い、奴隷は主人に従うことが義務づけられていました。つまり一人の人間としては認められていなかったのです。しかし、パウロはガラテヤ人への手紙の中で「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と言っています。神様の目には、この世での仕事や地位は重要ではありません。神様にとっては、
私たち一人一人の人間そのものが大切なのです。その人が給料の良い仕事をしていること、その人が有名な大学に入ったこと、その人が会社で部長をしていること、そのようなことに神様はまったく関心がありません。この社会が一人の人の外側に付け足したものを全部取り除いて、その人のいのちそのものを大切に考えておられます。ですから、たまたま、当時の社会の情勢で、奴隷になって生きている人も、主人として生きている人も、神様の目には、まったく同じ価値を持った一人の人間なのです。パウロは、そこで妻には妻の立場での教え、夫には夫への立場での教えを語っています。しかし、当時は、夫に対する教えなどありませんでした。妻はどんな夫であっても、また夫からどんな仕打ちを受けても従うのが当然で、夫は妻を自分の気分次第で離婚することさえできました。今日の箇所は、奴隷と主人の関係ですが、主人が奴隷をどのように扱うべきかなどということは、当時考えられることはまったくありませんでした。奴隷は一人の人間と見なされていなかったからです。パウロは奴隷に対しても主人に対しても命令を与えています。それぞれの立場にふさわしい振る舞いがあったからです。
(1)
 パウロは夫婦に対する教えや親子に対する教えの時と同じように、低いと思われている側の人への教えから始めています。5節で、パウロは「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。」と言っています。パウロは奴隷に対して、「奴隷をやめて自由になりなさい」と言っていません。奴隷という立場でどう生きるべきかを教えています。私たちは、今自分が置かれている状況に対して不満を持つことが多いのではないでしょうか。そして、今の状況が変わらない限り幸せにはなれないと考えている人が多いのです。「あの学校に行けなかったから」「あの仕事につけなかったから」とか「あんな人と結婚したから」自分は不幸なんだと考えているのです。そのような人は、いつも自分の人生に不平・不満を感じています。中には、それを神のせいにして神に対して怒りを持つ人さえいます。そのような人の心は怒りや悲しみに満ちていて、口から出てくるのはいつもつぶやきです。私たちに与えられている人生は一回限りです。私たちは一生ずっとつぶやいて生きることもできます。しかし、そんな人生は楽しいでしょうか。また、私たちは、一生、ずっと誰かに感謝をし、喜びつつ生きることもできます。それは私たちが自分で選ぶ道なのです。一生つぶやいて生きるか一生感謝しつつ生きるかです。本当に人は今の状況が変わらないと幸せになれないのでしょうか。私たちの目から見ると本当に厳しい人生を生きている人でも喜びに満ちて生きている人がいます。スウェーデンのゴスペルシンガーにレーナ・マリアさんという方がいますが、彼女は生まれたときから両腕がなく、左脚は右脚の半分の長さしかありません。彼女は自分の体について次にように言っています。「神様はわたしを障害者として造られたわけではなく、別の原因でこういう体になったのだと思います。それに神様は全能ですから、私の手や足を造り変えることもおできになるはずです。でもそうなさらず、私に障害を残しておかれるのは、人間にとって第一に大切なのは、体の健康よりも、たましいの健康であることを明らかにするためだと思っています。私はコンサートでよく詩篇23篇の歌を歌います。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」人は両手がない私が「私は乏しいことがありません」と歌うことに驚きます。でも私は心からこの歌を歌うことができます。神様は私に手の代わりに心の豊かさを与え、私が自分自身を愛せるようにしてくださいました。だから私には、このような体で生きることの意味を、いつも見つけるゆとりがあるのです。私たちは奴隷ではなくても、今の自分の状況を見て、神様を恨んだり腹を立てたりしていないでしょうか。どんな状況の中でも神様は私たちに必要な生きる力や喜びを与えて下さる方です。つぶやく人生よりも喜びの人生のほうが楽しい人生です。
(2)
奴隷は主人に従うようにと教えられていますが、パウロは、ただ主人に従うのではなく、クリスチャンの奴隷としてどのように主人に従うのかということを教えています。当時の奴隷に対する教えは、奴隷だけではなく、人に雇われている人、労働者にも適用される教えではないでしょうか。しかしながら、そんな彼らに向かって、パウロは5節から8節までの間で「恐れおののいて」「真心から」「心から」そして「善意をもって」という4つの言葉を使って、どのように主人に従うかを教えています。
まず「恐れおののいて」従うようにと命じられています。これは他の翻訳では「尊敬する心で」と訳されています。当時は、奴隷は主人の家族と一緒に生活をしていましたので、奴隷は主人の良いところも悪いところも何でも知っていました。主人の欠点などを見ると、奴隷は表面では主人に従っていても心の中で軽蔑しているということが良くありました。ローマ帝国には捕虜として外国から連れて来られて奴隷になった人がたくさんいました。ギリシア人奴隷の多くは知識人でしたから、彼らの中には心の中で軽蔑している奴隷も多かったでしょう。またパウロは奴隷に対して「真心から主人に従いなさい」と命じています。「真心から」と訳されている言葉は、ギリシア語では「一つの心を持って」という意味です。つまり表裏のない表面と心の中が同じ状態で主人に従うようにという命令です。それはどのように実現するかというと、パウロは「キリストに従うのと同じ気持ちで」と表現しています。エペソの教会には奴隷や元奴隷が数多くいましたが、彼らの主人は多くはノンクリスチャンだったと思います。ですから、主人の中には横暴な主人もいたことでしょう。私たちは、ワンマンな上役、横暴な上司、主人に対して従うのは難しいものです。何か抵抗を感じます。だからパウロはキリストに従うようにと言ったのです。人を見て仕えていると、その人の欠点が見えたりすると従うことに抵抗を感じるのです。しかし、主人に仕えることをとおしてキリストに従っているのだと考えると、その主人に仕えることができるのではないでしょうか。
また「真心から」「善意をもって」従うようにと教えられています。当時、多くの主人が奴隷に対して不満を持っていました。それは多くの奴隷が、主人が見ているときは勤勉に働くのに、主人がいない時は仕事をさぼって怠けていたからです。ある時主イエスは忠実なしもべに関するたとえ話を話されました。ある主人が3人のしもべに対して一人には500万、一には200万、もう一人には100万円を渡して「これを用いて商売をしなさい」と言いました。500万預かった人は500万もうけました。200万もらった人は200万もうけました。しかし、100万しかもらわなかった人は「自分は少ししか預からなかったのだから何もしないでおこう」と決めて何もしませんでした。主人は商売をしてもうけた2人のしもべには同じ言葉でほめていますが、何もしなかったしもべには「悪い怠け者のしもべだ」と厳しく叱りました。この世の中にはいろいろな働き、仕事があります。かっこ良い仕事もあれば、かっこよくない仕事もあります。しかし、どんな仕事をしているかは問題ではありません。私たちがどんな態度で仕事をしているかが大事なことです。私たちは、どんな仕事をしているにせよ、またどんな地位にいるにせよ、私たちは人やものの奴隷ではなくキリストの奴隷です。仕事はどんな仕事であっても、神から与えられた仕事として、私たちは神様に対して責任を負っています。クリスチャンには、神様のために働いているという、高い動機があるのです。こんな話があります。昔ヨーロッパで、立派な教会堂が建設されていました。ある人が3人の労働者に何をしているのか尋ねたそうです。一人の人は「私はのみで石を削っている」と答えました。別の人は「私はカネを稼いでいる」と答えました。3人目の人は「私は教会堂を建てている」と答えたというのです。パウロは8節で「良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」と言っています。神の前には自由人も奴隷も区別はないのです。だれでも、忠実に働く者として神に仕える者には神様が永遠に消えることのない報酬を与えてくださると約束されています。
(3)主人に対する教え
 9節ではパウロは主人に対する教えを述べています。まず「奴隷に対して同じようにふるまいなさい。」とパウロは言いました。「同じようにする」とはどういうことでしょうか。それは、最初に言ったクリスチャンがどう生きるかという教えの結論的な言葉、5章21節の言葉を意味します。つまり「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」という教えです。クリスチャンとして生きるとき、主人であっても、奴隷であっても、キリストに対しては同じ責任を負っています。夫も妻も、親も子供も、主人も奴隷も、それぞれこの世での立場は違いますが、すべての人はキリストを恐れ、互いに従うことを求められています。主イエスは説教の中で、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」と言われました。これは黄金律と言われるものです。権威を持っている立場の主人に向かって、パウロは、自分がしてもらいたいと思うように奴隷にしてあげなさいと教えています。この教えは、奴隷は主人の道具のように考えられていた当時にしては、まさに革命的な教えでした。人間は上に立つと、すぐに自分の権威を振りかざして、横柄な態度を取りがちです。奴隷をおどかす主人も多かったのでしょう。しかしパウロは主人たちに対して「彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」と述べています。つまり、神様の目には、奴隷も主人も、人間の価値に違いはないことを言っています。
 パウロは奴隷制度を廃止する運動をしませんでした。社会を運動や革命で変えても人の心が変わっていなければ何にもならないことを知っていたからです。パウロは主人にも奴隷にも、同じことを命じているのです。キリストを恐れて互いに仕え合う生き方を命じています。当時の教会は、クリスチャンになった主人は奴隷を解放しなければならないといった規則を作りませんでした。しかし、実際には、クリスチャンになった主人の多くは奴隷を解放したそうです。それは、彼らにとって、日曜日に教会で兄弟姉妹と呼んでいる人を月曜日から土曜日まで奴隷として扱うことが難しいと感じたからです。教会で神の愛や兄弟愛を経験するうちに、主人たちの心に自然と奴隷を解放しようという思いが生まれたのです。聖書の教えはこのように当時の社会に大きな影響を与えました。協賛革命は70年しか続きませんでした。しかし、キリストの教えによって心の中に革命を経験した人は、社会に大きな影響を与えるのです。パウロの時代からずっと下って奴隷解放運動が起きますが、その中心になったのはクリスチャンたちでした。キリストに従う信仰、キリストに従う生活こそが、一人の人を新しく作り替え、そして社会を変えるのです。


ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。)