2003礼拝めっせーじ

礼拝説教08/17|メッセージ2003メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2003-08-17『御霊によって生きる』(ローマ8章12-13節)
(イントロ)
 1941年1月に当時のルーズベルトアメリカ大統領が議会でヨーロッパの戦況に関する演説を行いました。その演説のほとんどは人々の記憶から消え去りましたが、彼が演説の最後に言った言葉が人々に深い印象を残しました。彼はこう言いました。「私は4つのフリーダムに基づく世界が築かれることを強く願っています。つまり、言論の自由、信仰の自由、貧困からの自由、そして恐怖からの自由が存在する世界です。」ローマ人の手紙の8章はクリスチャンにとっての自由宣言と呼ぶことができます。パウロはこの章でクリスチャンがイエス・キリストにつながって生きる時にどんな自由を得ることができるかを語っているからです。8章の1節には、パウロは「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と断言して、キリスト・イエスを信じる者は神の裁きから解放されて自由になったと述べています。今日の箇所では、パウロは、クリスチャンが罪の力からも自由にされることを述べています。私たちは、すべて、生まれたままの状態では神の前に罪人です。それは神様が定めた律法を破って生きているからです。人間が作った律法を破れば人間によって裁かれますが、神の律法を破れば神のさばきを受けなければなりません。神の裁きは人間の裁きよりも遙かに厳しく、永遠に続く裁きです。しかし、そのような私たちが神の裁きから解放される道を神様が開いてくださいました。その道は、私たちが受けるべき裁きを神である主イエス・キリストが身代わりに受けてくださったことによって開かれました。クリスチャンとは、イエス・キリストを自分の罪から救い出してくださった救い主として信じることによって、自分の罪を赦してもらって神から神の律法に関しては無罪の人間として新しい人生を始めた人のことです。クリスチャンは、主イエスを信じる決心をしたときに、罪からの自由を神様から頂きました。しかし、それですべてが解決した訳ではありません。私たちのうちには今なお罪の性質が残っているので、神からいただいた罪からの自由を毎日の生活の中で実際に使っていかなければならないのです。クリスチャンの中には、主イエスを救い主と信じて洗礼を受けて、自分がクリスチャンであることを宣言したことで安心してしまう人がいます。しかし、それはクリスチャン生活の始まりを意味するのです。この時から実際にクリスチャン生活を実践する日々が始まるのです。ピリピ人への手紙2章12節でパウロは次のように言っています。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」パウロは『救いを達成してください』と言いました。これはどういう意味でしょうか。それはピリピのクリスチャンたちが神様から受け取った救いを毎日の生活の中で実践して行きなさいという意味だと言えます。クリスチャンの中にイエス・キリストの姿が形作られて神と人々への愛に満ちあふれるまで、救いを実践しなさいという意味です。コンピューターは現代の素晴らしい発明の一つです。小さな機械ですが、そこにソフトを入れることによって色々なことができます。素晴らしいソフトがたくさん作られています。私たちは自分のしたいことをするためにソフトをインストールします。クリスチャンの救いも、クリスチャンの中にインストールされたようなものです。どんなに正しくインストールされていても、そのソフトを開いて使わなければ、まったく意味がありません。私たちは神様から神の律法において無罪であると認められて神の裁きからの解放を受け取りました。私たちのうちにこの救いがインストールされているのですが、それで満足してはいけないのです。それを日々活用することが大切です。しかし、それは自分が自分の力で禁欲的な生活をするという意味ではありません。私たちのうちに救いがインストールされた時、救いと共に、神の御霊である聖霊が私たちのうちにやどってくださいました。ですから、救いを毎日の生活に実践するということは、言い換えれば、毎日の生活において聖霊に働いていただくということを意味するのです。
(1)わたしたちは肉に対して責任を負っていない
 パウロは今日の箇所、ローマ人への手紙8章12節で「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」と言いました。ここで肉とは、イエス・キリストによる救いを受ける前の人間がもっている罪の要素を現す言葉です。ローマ書8章10節でパウロは「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」と述べています。すべてのクリスチャンの霊は救われています。しかしからだはまだ救われていません。キリストを信じる前に私たちを支配していた悪魔は私たちのからだに働きかけて誘惑をしてきます。私たちの目、耳、手、足、など体の感覚を通して私たちに誘惑を送りつけてくるのです。クリスチャンはイエス・キリストの十字架によってもはや罪に対して、サタンに対して何の責任も負っていないのですから、悪魔の誘惑をことごとく退けなければなりません。そうでないと、私たちが神の子としての新しい生活を十分に行うことができないのです。サタンは、自分の支配から救い出されて神の支配に移されたクリスチャンたちにたいして特に激しく攻撃をしてきますので、私たちはいつも目を覚ましていつも警戒をしていなければなりません。私たちを神の愛から引き離そうと必死で攻撃をしてくるのです。先日、世界中のコンピューターがウィルスに感染しました。実は、私の家のコンピューターも、教会のコンピューターも感染しました。火曜日にインターネットに接続したとたんに、コンピューターが勝手にシャットダウンしてしまうので、ウィルスに感染したかなと思っていたら、その通りだったのです。それまで、きちんとウィルス対策をしていなかったことが原因です。急いでウィルスバスターズというソフトを入れました。それで分かったことは、コンピューターには絶えずいろいろなものが侵入しようとしていることでした。その現実を知って本当に恐くなりました。私たちの生活にも悪魔は様々な方法で侵入しようとしています。私たちは、まず、その現実をしっかり受け止めて、立ち向かわなければなりません。なぜなら、聖書は、はっきり断言しているからです。罪の行き着くところは永遠の死、永遠の滅びであるからです。かつてのローマの英雄ジュリアス・シーザーが暗殺された時、ローマ市民は激怒し、シーザーの暗殺者たちに復讐しました。彼らの家や財産を燃やしました。暗殺に手を貸した多くの人間が殺されました。自分たちの英雄を殺した人間を許すことができなかったからです。主イエス・キリストを十字架で殺したのは罪です。わたしたちは絶えず、そのことを思い出さなければなりません。私たちに最大の愛を示してくださった救い主イエスの最大の敵は罪です。ローマ市民がシーザーの敵に対して抱いた激しい憎しみを、私たちもイエスを殺した罪に対して持つことが必要です。私たちは、誘惑を感じた時には、すぐにそれに気がついて、それを取り除いてしまわなければなりません。私たちは罪の現実の恐ろしさをよく知り、罪を憎み、罪を徹底的に取り除く努力が必要です。
 13節でパウロはクリスチャンたちに「御霊によってからだの行いをころしなさい」と命じています。先ほども述べたように、私たちは救いを受けましたが、からだは死んだ状態です。ですから、しっかりと目をさましていなければ、私たちはすぐに誘惑に負けて堕落してしまいます。しかし、わたしたちはどのようにしてからだの行いを殺すことができるのでしょうか。パウロが言っているように、私たちは自分の力でできることではなく、御霊の力によってはじめてできることなのです。私たちが御霊に従って生きるときに、からだの行いを殺すことができるのです。
(2)御霊に従って生きる
 12節の言葉は、日本語では「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」と訳されていますが、原文は違います。「私たちは借りがあります。しかし、それは肉に対して負っているのではない。」と書かれているのです。「私たちには借りがある、責任がある」のですが、それは肉に対してではありません。それでは何に対して責任があるかと言うと、それは肉の反対である「御霊」に対してです。12節の言葉は「ですから」という言葉で始まっています。パウロはよくこの言葉を使って、クリスチャンたちにしっかり生きるように励ましていますが、彼がこの言葉を使う時は、クリスチャンは神様から素晴らしい約束と特権をもらったのだから、ですから、それに応えて生きて行こうと言っています。12節の「ですから」も11節に書かれている神様の素晴らしい約束に基づいています。11節にはこう書かれています。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」主イエス・キリストを信じる時、私たちの霊は自由にされました。しかし、私たちの肉体はやがて衰えて死ななければなりません。しかし、聖書の約束は、クリスチャンの死ぬべき体も、必ずキリストの復活のからだ、栄光のからだに変えられてまったく自由になるという約束です。クリスチャンにはこのような約束が与えられているので、クリスチャンにとって肉体の死は決して終わりでも敗北でもないのです。そのような約束をもらっているクリスチャンは御霊に対して責任を負っています。御霊に従って生きることが求められているのです。エペソ人への手紙の中でパウロは「御霊に満たされなさい」と言いましたが、満たされるというギリシャ語の言葉は「プレロオー」という言葉です。この言葉は私たちが何かの感情や態度に満たされて、それに支配されるときに使われる言葉です。例えば、憎しみに満たされるとか、怒りに満たされるという場合に使われます。私たちが誰かに対して憎しみを抱くと、私たちの心はいつもその憎しみに支配されてしまいます。どんなに楽しいことをしていても、その人のことを思い出すとすぐに楽しい気分はふっとんで心がはげしく揺さぶられます。冷静な判断ができずに、その憎しみに縛られてしまいます。憎しみが私たちに「あの人に悪を行え」と命じると私たちはそれに従って行動してしまいます。クリスチャンは、善において愛において、御霊に満たされ、御霊が命じることを行うようになれと言われているのです。パウロは御霊に満たされることを別の箇所では「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせること」だと述べています。私たちが御霊によってからだの行いを殺すためには、御霊に満たされなければなりません。御霊に満たされるとは、何か感情的に激しい経験をすることではありません。わたしたちのうちにキリストの言葉を豊かに住まわせることです。そのためには、私たちは自分の心をいつもキリストに向けていなければなりません。そしてキリストの言葉をしっかり自分のものにしなければなりません。詩篇の記者も「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」ただキリストの言葉を聞くだけでなく、それをしっかり心に刻みつけ、実行するとき、私たちのうちにキリストの言葉が豊かに宿るのです。また、私たちには祈りという武器が与えられています。私たちは自分の力でからだの行いをころすことはできませんが、私たちはキリストのことばを豊かに住まわせ、そして、たえず、目を覚まして神に祈り続けることによって、からだの行いを殺すことができるのです。つまり、キリストとの交わりを絶えず持つことが罪に対する勝利の秘訣なのです。私たちには栄光の未来が約束されています。いのちの道は天国に続く道です。罪の道は、どんなに楽しそうに見えるものであっても行き着くところは永遠の死、永遠の滅びです。そのことをしっかり心にとめて、キリストとともに、いのちの道をしっかり歩み続けましょう。


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