|
礼拝説教 2003-08-24『神の子として生きる』(ローマ8章14-16節)
(イントロ)
「クリスチャンとはどのような人のことですか」という質問にはいろいろな答え方ができると思いますが、一つの答えとして「神のこどもとなった人」と言うことができます。ヨハネの福音書1章12節に「イエス・キリストを信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と書かれています。私たちにとってどのような家庭の子供に生まれるかというのは非常に大きな問題です。愛情をもって子供を育ててくれる家庭に生まれた子供は幸せですが、子供を愛せない親のもとに生まれた子供は本当に不幸です。私たちは、イエス・キリストを信じる前は、罪の中に死んでいた者であり自分の欲望のままに生きていた者であって、神から遠く離れていました。神から離れて生きる人間は様々な問題を抱えて生きています。今の世の中に信じられないような事件が起こっていますが、それこそが、神から離れて生きる人間の現実なのです。ところが、神は、私たちのような自己中心で神に背を向けて生きている者を、ご自分の子供にしたいと願ってくださいました。そのため、よく、クリスチャンとは神のこどもとして神の家族に養子に迎え入れられた者と説明されます。神に背を向け、神に反抗してきた私たちを目に留めてくださった神様が、「私のこどもになりなさい」と招いてくださったのです。本当は滅ぶはずの者が神に救われて新しく生きる者に変えられたのがクリスチャンです。先日NHKで「大地の子」というドラマが再放送されていました。戦争によって中国に残された日本の孤児を描いたドラマです。旧満州にいた松本勝男という一人の孤児が中国で生き残ります。母とは死別、父親は招集を受けて日本で待機中に終戦になり日本で生き残ります。松本勝男は日本人孤児として売り飛ばされそうになるときに、陸徳志という中国人が来ていた上着と交換して引き取りました。陸徳志という人はその子供が日本人であることを知っていながら、そのために色々な犠牲を払いながらも自分の子供として懸命に育てるのです。それができたのは、陸徳志が本当にその子供を愛していたからです。聖書は、神様は、神の怒りを受けなければならないような私たちを本当に愛してくださったので私たちを神の子として生きる道を開いてくださったと教えています。
(1) 神の御霊に導かれる人(14節)
8章14節に「神の御霊に導かれる人はだれでも神のこどもです」と書かれています。神の御霊に導かれるとは、イエス・キリストを罪の裁きから私たちを救い出す救い主として信じるすべてのクリスチャンのことを意味しています。私たちが、どんなに小さな信仰であっても、本気で「イエスは私の救い主です」と告白するなら、私たちは御霊に導かれて告白しているのです。聖書の中に、誰も御霊の導きなしに「イエスは救い主です」と本気で告白することはできないと書かれているからです。神様は、私たちを導いて私たちを教会へと導き、救いに導いてくださいました。エペソ人への手紙の1章4−5節には次のような素晴らしい言葉が書かれています。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」神様は私たちが神様の祝福の中にいつも喜びと平安をもって生きるようにと、私たちを神の子とすることを愛をもって決めて下さったのです。クリスチャンは神の愛によって神の家庭に養子に迎え入れられたのです。 今日の社会では養子として引き取られた子供は本当の子供よりも低い立場にあると考えられることが多いと思いますが、イエス・キリストの時代には、そのような考え方はありませんでした。当時のローマ帝国において、父親が、自分の本当の息子を見て、自分の財産を譲るのにふさわしい人間ではないと感じた場合、自分の財産を譲るために養子を迎えることがありました。自分の財産を受け継ぐのにふさわしい人格と能力を持った人間を養子と迎えるのですから、養子が実際の子供よりも高い地位に置かれたのは当然のことでした。神様が私たちを養子に迎えてくださる場合も同じです。神様は、親がいなくて道ばたで生活している子供を哀れに思って拾い上げたような意味で、私たちを養子に迎えたのではありません。神のまえに聖く傷のない者にするために神様が永遠の愛の計画の中で計画してくださったことなのです。
古代ローマ社会では、人が誰かの養子になるときに3つの結果が生まれました。
一つは、その人は以前の家族との関係を絶たれました。養子になった人は以前の家庭との関係も、またその家族の一員としての権利もすべて失いました。養子になった時から、その人は自分の本当の両親の支配下から新しい家庭の親の支配下に移されました。もはや元の親は養子に出した子供には何も言うことはできませんでした。私たちは、イエス・キリストを信じたときに、かつては自分の罪と欲望に支配されて生きていたのですが、その関係はすべて断ち切られました。第二に養子になった子供は、その家庭の子供と全く同じ権利を獲得しました。そして新しい父親の持つ財産を相続する権利を得ました。その親の実子とまったく同じ権利を与えられ、共同の相続人になりました。第三に、養子に迎えられた子供の過去はすべて忘れ去れました。その子供が以前借金をかかえていたとしても、それはすべて支払い済みになりました。その子供には新しい名前が与えられ、まるで新しく生まれ変わったように、まったく新しい人生を始めるのでした。私たちが主イエス・キリストを救い主と信じ、神の子どもに迎えいられた場合も、この状況とまったく同じです。古い関係は消滅し、神の子どもがうけつぐべきすべての財産を相続できる権利を獲得し、その人の過去の借金はすべて帳消しになりました。私たちは法的に完全な神のこどもとなり、また永遠に神のこどもであり続けるのです。
(2)御霊によって解放される(15節)
15節に「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」と書かれています。私たちが主イエス・キリストを信じる前は、私たちは罪の奴隷でした。私たちはしなければならないと分かっていることができず、逆にしてはならないと分かっていることをしてしまう者でした。自分で自分をコントロールすることができず、私たちは自分の罪と欲望に支配されていました。そのために、私たちはいつも自分の罪がさばかれることを恐れていました。私たちが死を恐れる第一の原因は、死後にさばきがあることを知っているからです。表面的には死を恐れていないように装っていても、私たちは、心の奥底で神の裁きを恐れています。そのため、いつも漠然とした不安を感じています。その不安や死の恐れを紛らわせるために、私たちはいろいろな手段を用いるのです。その恐れを隠すためにいろいろな宗教や哲学が生み出されました。しかし、そのようなことをしても、人間は完全にその恐怖から解放されることはありません。しかし、ヨハネの福音書の中で主イエスご自身が言われたように、「主イエス・キリストを信じる者は永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」私たちは、主イエス・キリストの十字架によって罪の力と神のさばきから救い出されました。クリスチャンが救われたとは、そのような救いです。人を最も深い恐怖に陥れるのは、実は罪とさばきに対する恐れです。この世でどんなに成功しても、幸せであっても、神のさばきから救われていなければまったく無意味です。たとえ、この世でいろいろな苦労をしても、自分の願い通りの人生ではなかったとしても、罪とさばきから救われているならば、私たちは永遠に神の子どもとしての特権を受け継ぎ、神の祝福の中に生き続けることができるのです。クリスチャンの信仰生活とは、将来の裁きに対する恐怖でしばる信仰生活ではなく、神の愛によって神の子どもとしての自由を与えられたことを永遠に喜び感謝しつつ生きる信仰生活なのです。
私たちは、神の子として恐怖から解放され自由を得ました。そして、今は、神の子として大胆に神様に近づくことができるのです。私たちは御霊の働きによって「アバ、父よ」と神に呼びかけることができると15節に書かれています。新改訳では「『アバ、父』と呼びます」と訳されていますが、「呼ぶ」と訳されている「クラゾー」という言葉は「強い感情をこめて叫ぶ」という意味の言葉です。「アバ」というのは非常に親しみが込められた言葉で、自分の父親だけに使う言葉で、他人の父親には使わない言葉です。アバという言葉には自分の父親に対する信頼、親しみ、愛が込められているのです。主イエスは、十字架にかかる直前、ゲッセマネの園で父なる神に祈り叫ばれましたが、その時に「アバ」という言葉を用いておられます。(マルコ14:36)私たちは、御霊によって神の裁きの恐怖から自由にされ、同時に、御霊によって私たちいつでも、どこにいても、どんな状況の中でも父なる神に向かって「アバ父よ」と叫ぶことができるのです。「大地の子」で陸徳志の子供となった松本勝男は陸一心と言う新しい名前をもらって成長します。やがて、中国では国民党の軍と共産党の軍が戦争状態になって陸一家も逃げ出さなければならなくなりました。ある町で彼らは検問所を通らなければならないのですが、一心は言葉が変だ「日本人の子供だろう」と疑われて親から引き離されそうになります。その時、父親の陸徳志が必死になって「あれは私の子供だ。子供を殺すなら、代わりに私を殺してくれ」と言います。その姿を見て、検問所の兵士は一心を父親に返すのですが、その時、一心は初めて養子に迎えてくれた中国人の父親に「お父さん」と叫びました。その言葉を聞いて陸徳志は自分を初めて父と呼んでくれたとひじょうに喜びます。私たちの神様も、私たちがどんなときも「アバ、父」「お父さん」と叫ぶことを待っておられ、また私たちが神様に向かって「父なる神様」と叫び祈る時に神様は喜んで下さるのです。私たちは自分一人だけで生きているのではありません。たとえ、この世で、私たちが一人であっても、天には私たちの天の父がいつもおられるのです。私たちはいつでも叫ぶことができるのです。
(3)御霊があかししてくださる
ローマの法律では、養子を迎えるときは、7人の証人の前で、養子を迎えたという事実を確認することが必要でした。養子を迎えることはそれほどに重要な出来事だったのです。なぜ7人もの証人が必要だったかというと、家族の中の、両親から生まれた他の子どもたちが、養子に迎えられた子供の権利、特に遺産相続の権利をうばわないためでした。父親が死んだ時は、それらの証人がその養子に迎えられた人の権利を守りました。それと同じように、御霊は、私たちが確かに神の子であることをいつも保証して下さいます。私たちが救われていることの確かさは、私たちの確信から来るのではありません。もしも、私たちの救いが私たちの感情や想いに基づくものであれば、私たちの救いは非常に不確かなものになってしまいます。私たちの感情や気持ちは簡単に変わるからです。私たちが主イエス・キリストを信じるとき、私たちのうちに主イエスが御霊としてやどって下さいます。その御霊が御ことばを通して私たちが神の子どもであることを保証してくださるのです。パウロは8章の34節で「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」と宣言しています。
逆に、いくら私たちが自分はクリスチャンだと言っても、聖霊の保証がなければ、神のこどもではありません。聖霊に導かれて、主イエス・キリストを救い主として受け入れることをしなければ、私たちは神の子どもにはなれないのです。私たちは、このように聖霊の働きによって神の子とされました。そして、いつも私たちを見守り、私たちを助けてくださる方が、私たちとともにいてくださいます。どんなときも、私たちはすぐに「アバ父」と叫び求めることができるとは、何と素晴らしいことでしょうか。しかも、聖霊が私たちが神の子どもとなったことを永遠に保証し続けてくださいます。こんな特権を私たちは受け継いだのです。ですから、私たちは、神の子どもとしてこれからも聖霊の導きに従い続けて生きる者でありたいものです。クリスチャンが神様が嫌うことを平気で行い続けることができるでしょうか。自分のいのちの恩人である神に対して、神が憎む生き方をすることができるでしょうか。神の子という立場がどれほど特権に満ちた立場であるかを深く味わいましょう。そしてそのような立場に導き入れてくださった神の愛に感謝して、神様がよろこぶような子供の生き方をするために、神の導きに従順に従って行きたいと思います。
ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。)
|