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礼拝説教 2003-08-31『私たちが受ける栄光』(ローマ8章17-18節)
(イントロ)
古代オリエントには様々な神話があります。バビロンにも、ペルシャにも、ギリシャにもローマにも神話があって数多くの神々が登場します。今話題の火星の語源であるマルスも、ローマ神話における戦いの神でした。農業の神や、勝利の神、勇気の神など様々な神が存在します。ところが、不思議なことに「希望の神」と呼ばれる神は何処の国の神話にも存在しません。それは、古代世界においてすでに、この世に希望などというものは存在しない、希望は幻想にすぎないという考え方が広く広まっていたからだということのようです。しかし、聖書の中には、はっきりと希望があることが書かれています。パウロ自身も「いつまでも続くものは信仰と希望と愛である」と言いました。今日のメッセージの聖書箇所であるローマ人への手紙8章の17-18節には、クリスチャンには素晴らしい栄光に満ちた希望があることを教えています。
(1) 神の相続人として生きる(17節)
17節に「もし私たちが神の子どもであるなら、相続人でもあります。」と書かれています。私たちは、永遠の神様の計画の中で、神の子どもとして生きるようにと選ばれていました。クリスチャンは、神様の家庭に迎えられた養子と考えることができます。そしてもし、私たちが神の子どもであることが事実とするならば、当然の結果として、私たちは神様の遺産を受け取る権利を持つ神の相続人でもあるわけです。しかもパウロは大胆にも、「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」とも述べています。キリストとの共同相続人とは、キリストと全く同じものを相続することを意味しています。パウロが書いたこの手紙はローマにあった教会のクリスチャンたちに宛てて書かれたものですから、当然のことながら、彼はローマの習慣や法律に基づいて述べています。ユダヤ人社会の場合、家族が父親の遺産を相続する時は、長男に他の家族の2倍の遺産を受け取る権利が与えられていました。しかしながら、ローマ社会では、親の遺産はすべての子供の間で平等に分けられました。実子と養子の区別もなく、一人一人の子供はまったく同じものを受け取りました。父なる神の子はイエス・キリストです。私たちは、十字架と復活を経験された主イエス・キリストが受け取られた天にあるすべての祝福や栄光と同じ祝福と栄光を相続することが約束されているのです。ヨハネの福音書17章の中に、主イエスが父なる神に祈られた祈りが記されていますが、その祈りの中で、主イエスは次のように祈られました。「父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」主イエスは、復活の後天に昇られたときに、この栄光を受けられました。御子イエスが父なる神といっしょにこの世界が創られる前にすでに持っておられた栄光です。それがどれほど素晴らしいものか、この世のことしか、目に見える世界しか知らない私たちにとっては、想像のつかないものです。しかし、聖書は、私たちは主イエスが天で受け取られた栄光とまったく同じ栄光を受け取るのだと断言しているのです。クリスチャンはこの約束を絶対に忘れてはなりません。私たちが永遠の世界で経験するのは主イエスキリストが天で受けられたものとまったく同じものだということをしっかり心に留めておきましょう。
(2)苦難から栄光へ
しかし、私たちが栄光を完全に受け継ぐ前に、私たちはこの世界における生活があります。17節の後半に「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」という言葉があります。ここで「苦難をともにしているなら」と訳されている言葉はギリシャ語のeiという単語ですが、この言葉は「〜ならば」と訳すこともできますし「〜なので」とも訳すことができる言葉です。新改訳では「ならば」と訳してありますが「苦しみをともにしているので」とも訳すことができます。クリスチャンとは、神の家族の一員に迎え入れられた者ですから、主イエス・キリストとまったく同じ権利を与えられていると同時に、キリストがこの世界で経験されたことと同じ事を私たちも経験するのは当然のことです。世の中には多くの宗教がありますが、御利益宗教と言われるように、人が宗教に入る第一の目的は苦しみや悩みから逃れることです。クリスチャンの中にもキリストを信じればすべての苦しみや悩みから解放されて人生はすべて自分の願い通りになると思っている人がいます。しかし、聖書は決してそのような約束をしていません。むしろ、主イエスは弟子たちにも「あなたがたは、この世にあっては患難があります。」と預言されました。主イエス・キリストを信じて従って行く道は決して楽な道ではありません。この世は罪に支配されており、神に敵対しているのですから、クリスチャンがこの世で苦しみを経験することは仕方のないことなのです。クリスチャンは、自分が神に造られた者であること、神の前に清い者となるために神に選ばれ神の家族に入れられたことを知っています。17節でパウロが言っている言葉をもう一度見てみましょう。「栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら」と彼は述べています。パウロは、クリスチャンがこの世で受ける苦難は将来の栄光につながるものだと言っています。私たちは主キリストが受けられた苦難の結果、永遠の平安と祝福に入れていただきました。私たちは主キリストとともにキリストの導く道を歩む決心をしたからです。私たちは自分がもらえる特権や祝福を喜んで受け取っていますが、もし、私たちが自分の人生をキリストの人生に結びつけると決めたのであれば、主が苦しみを経験されたように、私たちも苦難の道を歩むことは当然のことと言えるでしょう。私たちが、普通の人間関係においても、相手からもらえるものは喜んでもらっていながら、相手が苦しむ時には知らん顔するようでは、本当の人格的な交わりを持っているとは言えないのではないでしょうか。
しかし、誰にとっても、苦難を経験することは辛いことです。私たちは「どうして自分だけが苦しまなければならないのだろうか」と考え、神の愛をすぐに疑ってしまいます。しかし、私たちが苦難を経験する時、神様は私たちを放ったらかしにしておられるのではありません。神様は私たちの生活のすべてを知っておられるのです。時には私たちに訓練を与えるために苦難を与えることもあります。人間は苦しい経験を通して成長するからです。運動選手が大会でメダルを取るために非常に厳しいトレーニングをつんでいます。私たちが霊的に成長するためには、霊的な訓練がむしろ必要なのです。私たちにとって苦しいことは、実は私たちが将来栄光を受けるための準備なのです。誰にとっても苦しいことは経験したくありません。いつも自分の願い通りになるような楽な人生を求めます。しかし、そのような生き方をしている人は非常に人格的に弱い自己中心の人間になってしまいます。独裁者フセインの息子も、金正日の息子も甘やかされて育ったために人格的にゆがんだ人間になってしまいました。キリストのために苦難を経験することは決して無駄にはならず、私たちにより深い平安を与えるのです。
また、パウロは第1コリント10章13節で次のように述べています。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」パウロはどんな試練・苦難であっても、必ず私たちよりも前に同じような苦しみを経験した人がいると言っています。何よりも主イエスご自身がもっとも大きな苦しみを受けてくださり、それを堪え忍ばれました。だからこそ、主イエスは苦しんでいる人を助けることができるのです。さらに、この言葉は、神様は私たちに絶えられないような試練を与えることはないと言っています。そして、私たちがその苦難や試練に耐えられるように神ご自身が私たちに逃れる道を備えてくださると約束されています。私たちは、この世で、正しい生き方をしていても苦難を経験することがあります。しかし、神様は、私たちにその苦難から脱出する道を備えてくださることを忘れてはなりません。神様は私たちを栄光の将来へと導くために苦難を与えられるのです。苦難を乗り越える力を与えてくださるのです。私たちは決して一人で戦って生きているのではありません。神様がいつもともにおられて必要な時には必ず助けを与えてくださることを覚えておきましょう。
(3)一時的なものと永遠のもの
18節に「将来私たちに啓示されようとしている栄光」という言葉がありますが、これは何を意味するものでしょうか。イエスの弟子ペテロは第一の手紙1章3-5節で次のように書いています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」彼は当時激しい迫害を受けていたクリスチャンたちに向けてこの言葉を書きました。特に、4章12節でペテロは「あなたがたの間に燃えさかる火の試練」書いていますが、これは当時ローマに住むクリスチャンたちが受けていた皇帝ネロの迫害を意味していると思われます。AD64年にローマで大きな火事が起こりました。火事は一週間続いてローマのほとんどが焼け落ちました。皇帝ネロは丘の上にあった宮殿から燃えさかるローマの町を見て竪琴をひきながら歌を歌ったそうですが、ローマ市民の間にこの火事は新しい宮殿を建てたいと願うネロが放火したものだという噂が流れます。皇帝ネロは、その噂を消すためにクリスチャンが放火したというデマを流して、大勢のクリスチャンを処刑しました。大勢のクリスチャンが野獣に殺されたり火で焼かれたりしました。そのような危険に直面していたクリスチャンたちに向かってペテロは断言しています。地上にあるものはすべて朽ちて、汚れて、消え去っていくものです。しかしクリスチャンが受け継ぐものは朽ちることも汚れることも消えることもないものです。そして私たちが受け継ぐものは天に蓄えられているのです。私たちが住んでいる世界も、これからどのような時代になるか予想がつきません。多くの国がいろいろな話し合いをして世界平和を守ろうとしていますが、いつ大戦争が勃発しても不思議ではないような情勢です。そのような状況の中で、私たちが今大切にしているもの、自分が頼りにしているものが全く役に立たないものになることもありうるのです。また、私たち一人一人の人生も永遠と比べると本当に短いものです。ペテロは「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
私たちは今、一時的な世界に生きています。そして、私たちの世界は神を信じない世界、神に反抗している世界です。神を信じ神の導きに従って生きようとするとき、私たちは様々な困難や試練を経験します。しかし、それらは決していつまでも続くものではありません。やがて必ず終わりが来ます。主イエスキリストが復活の後天に昇っていかれましたが、その様子を見ていた弟子たちに御使いが現れて彼らに言いました。「このイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」この世の終わりの時、主イエスがもう一度栄光の姿でこの世に来られると聖書は繰り返して預言しています。この世の情勢がどうなろうとも、最後に栄光の姿で主イエスがもう一度現れてくださいます。そしてクリスチャンはキリストとともに永遠の世界に入れられるのです。主が再び来られる前に私たちがこの世を去る場合でも、クリスチャンの人生はそれで終わるのではありません。私たちは、いずれの場合も栄光に満ちた永遠の世界に移されるのです。それは、今、私たちは肉眼で見ることはできません。しかし、かならず現れる時が来ます。その栄光は私たちのために天にすでに備えられています。私たち、クリスチャンの人生はその永遠に向かって進んで歩んでいるのです。あなたはそのことを心から信じますか。しかも、1ペテロの1章5節では「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」と書かれています。私たちは、永遠に至るまでこの世界に生きるときに、私たちは全能である神の力によって守られていることも忘れてはなりません。
最後に一つのお話をします。20世紀最大の伝道者と呼ばれたビリー・グラハム師が2000年1月にある昼食会に招かれました。グラハム師はパーキンソン病を患っていて体の弱さを味わっていました。昼食会の参加者が一人一人グラハム師をたたえる言葉を述べた後、彼は立ち上がって短い話をしました。「今日、皆さんのご挨拶を聞きながら、アインシュタインのエピソードを思い出しました。彼がある日列車で旅行をしていました。車掌が検札に回って来たので、彼がポケットや鞄の中を必死になって探しましたが切符が見つかりません。すると車掌が彼に言いました。『ああいいですよ。あなたはアインシュタインさんでしょ。みんな知ってますよ。切符を買われたに違いないから、見つからなくてもご心配なく。』車掌がその車両の検札を終えて次の車両に移る前に振り返ると、アインシュタイン氏はまだ切符を探していました。車掌はもう一度『あなたが誰だかみんな知ってますから、切符のことは心配しなくてもいいですよ。』するとアインシュタイン氏が車掌に答えました。『私だって自分が誰かぐらい知ってますよ。ただ、私は自分が今どこに行ってるのか分からないんだよ。』
そしてグラハム師は話を続けました。「みなさん。今日私が着ているスーツ、いつもより少し良いスーツなんです。家族から最近私の服装が地味すぎると言われたので、今日のためと、あともう一回着るためにこのスーツを買いました。次、いつ私がこのスーツを着るか分かりますか。私が死んで棺に入れてもらうときにこのスーツを着るつもりです。私が死んだ知らせを聞いた時に、皆さんにこのスーツのことを覚えてもらわなくてもいいのですが、このことだけは覚えて置いてください。私は自分が誰であるかということも知っているし、また自分がこれからどこに行くのかもしっている男だということを覚えて置いてください。
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