2003礼拝めっせーじ

礼拝説教09/07|メッセージ2003メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2003-09-07『信仰による望み』(ローマ8章19-25節)
(イントロ)
 先週は、クリスチャンに約束されている栄光がテーマでした。パウロが18節で「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と言っています。このパウロの言葉には重みがあります。なぜかと言うと、パウロの生涯は苦しみの連続だったからです。2コリント11章23節から27節で彼は自分の人生で経験したさまざまな苦しみについて語っています。使徒の働きはパウロが世界で最初の宣教師として働いた十数年の出来事を描いていますが、ここに述べられていることの中で使徒の働きに出てくるのはほんの一部しかありません。そのような苦しみの人生を通ったパウロでしたが、それでも、今の時のいろいろの苦しみは、将来受ける栄光に比べれば小さなことだと彼は言うのです。それでは、その栄光とはどのようなものでしょうか。聖書は、神様がお決めになった時が来ると、最初の天地は消え去って新しい天と地が創られると言っています。また、その時、私たちの卑しい肉体は復活のキリストの栄光ある体と同じ体に変えられると約束されています。CSルイスというイギリスの神学者は、聖書がクリスチャンに与えている約束は次の五つに集約されると言っています。1)私たちはキリストとともになること。2)私たちはキリストのようになること。3)私たちは栄光を受けること。4)私たちは天の祝宴に加えられること。5)私たちは天において何か使命を与えられること。そしてルイスはそのことを証言する言葉としてマタイの福音書13章43節の言葉を引用しています。それは「そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。」パウロは自分に与えられている神の栄光の約束を真剣に信じ、心から待ち望んでいました。彼は自分がクリスチャンの宣教師になったことによって、多くのものを失いましたが、彼にとって失ったものは塵芥にすぎないと思っていました。私たちは、クリスチャンに約束されている栄光をどれほど喜び、また、どれほど真剣に待ち望んでいるでしょうか。CSルイスは、現代のクリスチャンは、将来啓示される栄光の意味、その素晴らしさを理解していないと言っています。そして、現代のクリスチャンは、無知な子供のようだ。つまり、例えて言うと、ハワイのバカンスに行こうと言われても、その意味が分からずに、ハワイに行くよりも家の近くの水たまりで泥遊びがしたいと言う子供のようだと言っています。そのような無知な子供のように、私たちの多くは、神様から無限の喜びと栄光が与えられると約束されているのに、その意味が分からず、この世のつかの間の楽しみにふけっているのです。私たちは、聖書の約束を本気で信じるかどうかによって、生き方がまったく変わって来ます。クリスチャンとは、神のこどもとしてキリストの結ばれたのですから、地上のものに心惹かれないで上にあるものに心を留めて歩みたいものです。
(1)被造物のうめき
 パウロは、私たちがこの世で経験する苦しみや痛みは、将来私たちに約束されている栄光に比べれば本当に小さなものだと述べています。パウロはこの世の苦しみと将来の栄光を比べるのに、今、私たちが生きているこの世界、この時代に3つのうめきがあると言う事実を通して、将来の栄光の素晴らしさを述べています。3つのうめきとは、(1)被造物のうめき(2)私たちクリスチャンのうめき、そして(3)聖霊ご自身のうめきです。今日はその中で被造物のうめきと私たちクリスチャンのうめきについて考えましょう。
 19-20節に「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。」と書かれています。ここで言われている被造物とは何でしょうか。この言葉の意味は「創られたもの」ということですが、聖書は、私たち自身も、また、私たちが住むこの世界も、偶然存在するのではなく、神様が目的をもってお造りになったと教えています。ここでは動物や植物、山や海などの自然を現しています。今、創世記を見ると、神様が天地創造の業を終えて、ご自分が創った世界をご覧になったとき、すべてのものが非常に良かったと書かれています。自然界にあるすべてのものが調和していたのです。しかし、いまでは被造物はうめいています。自然の世界の中に苦しみがあり死があり痛みがあります。これらはすべて最初の人間アダムとエバが罪を犯した結果です。ですから、20節でパウロは「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方による」と言ったのでした。アダムとエバが罪を犯す前、神様は2人に次のように言われました。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。」この地は非常に豊かでした。エデンの園が非常に美しかったように、地上全体が実り豊かで、人間は豊かな収穫を楽しんでいたのです。しかし、2人が罪を犯した時に神様はアダムにはっきり言われました。「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。」自然が呪われてしまったために、非常に実り豊かだった土地であったのが、人が苦労しなければ食物を得られない土地になってしまいました。植物も豊かさを失い枯れてしまうものになりました。自然界全体が人間に恐れを与えるものになってしまったのです。台風や、干ばつ、竜巻のような激しい自然現象が人間を襲います。また、最初は調和して暮らしていた動物たちが攻撃し合ったり、人間を襲ったりするようになりました。これらはすべて最初の人間が犯した罪の結果なのです。人間が犯す罪の結果は本当に恐ろしいものなのです。
 しかしながら、これらのうめきは決して意味のないものではありません。パウロは被造物のうめき、苦しみを女性が子供を産むときの苦しみに例えているからです。赤ちゃんを産むときに苦しみは経験した者にしか分からない痛みです。しかし、その痛みは赤ちゃんが生まれた瞬間消え去り、痛みは大きな喜びに変えられます。さっきまで痛みに苦しんでいたのが、生まれてきた赤ちゃんを見ると、その痛みをすっかり忘れて、母親は大きな喜びに満たされます。聖書は、被造物、私たちが住む自然界も新しく生み出される時が来ると預言しています。その時まで、被造物もうめいているのですが、新しい天、新しい地が生み出される時を待ち望んでいるのであって、希望に満ちた苦しみです。イザヤ書65章に自然界が新しく生まれ変わる姿が描かれています。17~21節「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。」25節「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」
(2)クリスチャンのうめきと希望(23〜25節)
 被造物全体が、罪によって引き起こされた呪いから解放されることを待ち望んでうめいています。しかし、聖書は、その日が必ず来ることを預言しています。それは、キリストが預言の通りに再びこの世に来られ、そしてこの世が終わりを迎える時に実現します。その時に、クリスチャンが受ける栄光が誰の目にも明らかな姿で現されるのです。23節に「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」と書かれています。ここに私たちクリスチャンが子にしていただくことを待ち望んでいると書かれているのは少し不思議な気がします。というのは、パウロは神の御霊に導かれてクリスチャンになった人は皆神の子どもだと言っているからです。私たちが主イエス・キリストが救い主だと信じたとき、私たちは確かに神の子どもになりました。神の御霊が与えられました。私たちの内側に新しい性質が与えられました。神の怒りを受けなければならない私たちが神の子どもというまったく新しい立場に入れてもらったことは絶対に変わらない事実です。しかし、私たちの内側は新しくされましたが、私たちの新しいいのちは古い体のなかにあるので、その古い体の弱さに縛られているのです。ですから、私たちが肉体をもってこの世に生きている限りは、私たちの神の子としての生活が100%実現していません。だからこそ、私たちは自分の体が贖われることを待ち望んでいます。私たちがなぜ待ち望むのかというと、私たちが御霊の初穂を神から頂いているからです。御霊の初穂とは何でしょうか。私たちの内側に聖霊が働く時に、私たちはいろいろなことを経験します。聖霊が働くとき自分の力では絶対に絶えられないような試練に耐える力が与えられたり、大胆に人々にキリストを証しすることができたり、あるいは、心から神様を賛美してこの世のものでは得られないような深い喜びを経験したりします。それらは御霊の初穂です。初穂とは最初に現れる実です。聖霊が働くときに、私たちは天国で受け取る栄光や祝福の前味を味わっているのです。私たちが、聖霊の働きによって経験するすべてのことは、私たちが将来天国で経験するもののほんの予告編のようなものです。今も、御霊の初穂を頂いて、私たちは新しい平安、喜び、寛容な心を経験します。しかし、それが将来100%花開くのですから、私たちには大きな希望があるのです。
御子イエス・キリストも神の御子でありながら、人の肉体を取って地上の生活をされたときには、肉体の弱さを味わい、私たちと同じ苦しみを味わわれました。しかし、主イエス・キリストが十字架の苦しみを受けられた後、三日後に復活しそして天に戻られて神の子としての栄光を受けられました。私たちも、同じようにこの肉体から解放される時に、私たちの体は新しい姿に変えられます。栄光の体に変えられることから、このできごとは栄化と呼ばれます。いつかは朽ちていく体が永遠に朽ちることのない姿に変えられるのです。私たちの地上の肉体が壊れても、そこで私たちは滅んでしまうことはありません。キリストの栄光の体と同じ姿に変えられる時、私たちは、永遠に、病気や弱さから完全に解放されて、もはや罪も悩みも悲しみもない霊的にも肉体的にも完全な者になると聖書ははっきり断言しています。だからこそ、クリスチャンは死を恐れる必要が全然ないのです。クリスチャンにとって肉体の死は栄光の姿に変えられることを意味するからです。
 24節でパウロは「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」と語っています。私たちは目で見えるものを希望とは言いません。誰も、自分の手の中に持っているものをさして「これが私の希望」とは言いません。私たちは主イエス・キリストを信じる信仰によってすべての罪が赦され、神の子どもとされました。しかしながら、まだ私たちの肉体は昔のままなので、私たちは体が贖われること、主と同じ栄光の姿に変えられる日を待ち望んでいるのです。クリスチャンは将来を悲観して生きることはありません。神様がお決めになった将来のある時、私たちが受けとる栄光が完全に現れることを知っているからです。今は、ほんの一部を味わっているだけですが、将来はその栄光のまっただなかに入れられるのです。だからこそ、被造物がうめいているように、私たちクリスチャンも、赤ちゃんを産む苦しみの中にいる女の人と同じように、希望が現れる時を待ち望んでうめくのです。


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