2003礼拝めっせーじ

礼拝説教09/14|メッセージ2003メッセージ2002メッセージ2001メッセージ2000


礼拝説教 2003-09-14『御霊に助けられて生きる』(ローマ8章26-27節)
(イントロ)
 7月の終わりからローマ書8章に書かれた神様からのメッセージを学んでいます。最初に言いましたように、ローマ書の8章はクリスチャンの自由宣言だと言われています。聖書は、私たち人間が神を無視して神から離れて生きるときにいろいろなものに縛られるのだと教えています。キリストの弟子の一人ヨハネは、私たちを束縛するものは肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢であると言いました。肉の欲とは、セックスやアルコールに対する欲望です。目の欲とは、よいものを持ちたいという気持ちです。人間の目の欲をあおるようにいろいろなカタログが作られています。美しい家具や、かっこいい車、広々とした家など、カタログを見ると何でも欲しくなります。暮らし向きの自慢とは、自分の仕事や肩書きを自慢する心、自分の家柄を誇る気持ち等です。人がこのようなものを求めるのは、そこに自分の価値があると考えているからです。そのような人間が集まった社会ではいつも争いがあり、ねたみや憎しみの思いが渦巻いています。ですから、私たちがこの世で生きる時に様々な苦しみや悩みを経験します。失望を味わいます。しかし、聖書は、人間の価値はこの世の人々が求めているような自分が身につけているものではなく、その人そのものにあると教えているのです。神様はどんな人に対しても「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と言ってくださいます。私たちは、イエス・キリストの十字架に表された神の愛を受け取る時、神の愛に心満たされて生きるとき、世の中のいろいろなものから解放されて本当に自由な者として生きることができると聖書は約束しています。
 ローマ書8章18節で、パウロはイエス・キリストを信じる者がこの世で経験する様々な苦しみは将来約束されている栄光と比べると本当に小さなものだと言っています。この言葉は、当時すでに迫害を受けて苦しみを味わっていたローマのクリスチャンたちに励ましを与え、彼らが失望感から解放されて生きるための言葉でした。パウロは、彼らを励ますために、今の苦しみは決して意味のない苦しみではなく、将来の栄光に入るための大切なプロセスだと言いました。それはちょうど母親が赤ちゃんを産むときの苦しみのようなものなのです。産みの苦しみがどんなに苦しくても、赤ちゃんが生まれた瞬間母親は苦しみを全部忘れて喜びに満ちあふれます。それと同じように、クリスチャンも今はいろいろと苦しいことを経験するかも知れませんが、将来、私たちは必ず神様の栄光の中に入れられて言葉で表すことのできない喜びに入れられるのです。私たちは、聖書を通して、天国の素晴らしさを知っています。また、私たちがイエス・キリストを救い主と信じるとき、キリストは肉の目には見えない、聖なる霊、聖霊として私たちの心のうちに入ってくださいます。主イエス・キリストが天に戻る最後の最後に残された言葉は「見よ。わたしは世の終わりまであなたがとともにいます。」という言葉でした。天に戻られた主イエスがどのようにして世の終わりまでわたしたちと共にいることができるのでしょうか。それは、信じる者一人一人の心の中にキリストが聖霊として入ってくださることによって、いつも私たちとともにいてくださるのです。その聖霊が働く時、私たちは自分が神に愛されていることを感じます。神の子どもとして生きることの幸せを感じます。天国の素晴らしさを、クリスチャンはこの地上の生活の中でも少し味わうことができるのです。しかし、罪によって呪われてしまった肉体をもって生きている私たちは、病気や死を経験します。肉体の弱さや肉体の欲望に縛られて生きています。だから、クリスチャンは、この体が新しい体に帰られることを真剣に願い求めてうめくのです。
パウロはコリント人への手紙3章20-21節で次のように言いました。「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」これはいつ実現するのでしょうか。それは、世の終わりの時に実現するのです。聖書が繰り返し預言していることは、世の終わりの時に主イエス・キリストがもう一度この世に来られるということです。これを主イエス・キリストの再臨と言います。それがいつ起きるか誰も知りませんが、必ず主はもう一度この世に来られます。その時、もし私たちがすでに死んでいたら、私たちはキリストと同じように復活し、キリストと同じ栄光の体が与えられます。また、その時、私たちがまだ生きていたら、私たちは栄光の体に変えられて天に引き上げられるのです。いずれにしても、主イエス・キリストを信じる者は決して滅びることはありません。栄光の姿に変えられる日を待っているのです。私たちは、誰も、まだ、人生の中で起きるもっとも素晴らしい出来事をまだ経験していないのです。これからそれが起きるのです。この希望によって私たちはどんな失望感からも救われます。ヨハネが言ったように、この世と世の欲とはいつかかならず滅びます。しかし、主イエス・キリストを信じる者はいつまでも栄光の中で生き続けるのです。
(1)御霊のうめき
 私たちは自分の肉体の弱さを感じるとき、それを嘆いてうめきます。そして、私たちが早く復活の主イエス・キリストのように新しいからだをいただいて完全な姿に変えられることを待ち望みます。私たちの心のうちにおられる聖霊は、私たちが将来の栄光を待ち望んでうめくときに一緒にうめいてくださると聖書は教えています。私たちは弱い人間です。自分でどのように祈ったらよいかも分かりません。私たちは、あまりにも大きな問題にぶつかったり、あまりにも大きなショックを受けたりするとき、どのように祈ったらよいかも分かりません。祈りの言葉が口から出てこない時があります。しかし、そのようなとき、私たちが祈りの言葉が出てこなくてただうめいているような時でも、聖霊は、私たちとともにうめき、私たちの代わりに、私たちのために祈ってくださることを通して私たちを助けてくださいます。26節で使われている「助ける」という言葉は面白い言葉です。ここで使われているギリシャ語の言葉は3つの言葉が組合わさってできた言葉です。「一緒に」と「向かい合って」と「引き受ける」という3つの言葉が一つになっているのです。それは、例えば、一つのテーブルを二人の人が運ぶような姿を表しています。二人の人が互いに向き合って一つのものを運ぶ姿です。肉体をもって生きている私たちは肉体の弱さが重荷となっています。しかし、その重荷を聖霊が一緒になって、自分の重荷としてかついで私たちを助けてくださるのです。
しかも、ヘブル人への手紙の7章25節には「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」と書かれています。私たちのために、天の栄光の場所では御子イエス・キリストがわたしたちのために祈り続けておられます。そして、私たちの心の内では、私たちが祈れない時、どう祈ったら良いのか分からないでいるときに、私たちの代わりに祈ってくださる聖霊がおられるのです。これは何を意味するのでしょうか。それは、神様ご自身が本当に私たちのことを心配しておられるということです。私たちも自分の家族や友達など自分にとって大切な人が病気になったり大きな困難にぶつかったりする時、自然にその人のために祈ります。その人のことが心配だからです。神様は、私たちがどんな状況に置かれている時でも、決して私たちのことを忘れる方ではありません。いつも私たちを心に留めて、天においても地においても私たちのために祈ってくださるのです。信仰生活とは、私たちが自分一人で生きる生活ではありません。私たちを愛し、私たちのことを心配してくださる神様の祈りに守られて生きるのですから、私たちの救いが途中で崩れ去ることはないのです。
(2)聖霊のとりなしの祈りを聞かれる神
 27節に「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。」と書かれています。人間の心を探り窮める方とは神ご自身を指しています。聖書の中で神様は「人はうわべを見るが主は心を見る」と言われました。神様は私たちの心を探られる方です。その神が御霊の思いを知っておられるというのは、神が聖霊のとりなしの祈りを聞いておられることを意味すると思われます。そして聖霊は、神の御心にかなった祈りをささげるのです。私たちは、自分が祈っていることが神の御心にかなっていることなのか、それとも自分の思いなのか分からない時があります。この手紙を書いたパウロ自身もそうでした。彼は重い病気を患っていました。その病気は彼の宣教の働きにとってマイナスだと彼は思いました。それで彼は自分の病がいやされるように祈りましたが、パウロの場合は、病がいやされることは神のご計画ではありませんでした。パウロが自分の病気のために弱さを感じる時に彼に特別な恵みを注ぐことが神様の計画だったからです。私たちが祈る時も、神の御心にかなっているかどうか分からない時があります。しかし、そのような時に、私たちが祈り続ける時、聖霊もともに祈りを捧げてくださいます。そして聖霊は私たちに代わって御心にかなった祈りを捧げてくださり、それを通して、私たちに神の御心を知らせてくださるのです。イエス様が十字架にかかる直前にゲッセマネの園で緊張した思いで祈りを捧げられました。その時、主はまず「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られました。しかしすぐに、「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」と祈りを続けられました。主は最初ご自分の願いを祈りました。しかし、すぐに、父なる神の御心を求められたのは主イエスのうちにおられた聖霊が働いたからです。私たちは弱さを持っています。ですから祈りにおいて聖霊の助けが必要です。主イエスの祈りを導いた聖霊は私たちのいのりをも神のみこころにかなった祈りへと導いてくださいます。聖霊は、私たちが今の時の苦しみから解放されて約束されている栄光に入ることを、私たちとともに願っておられます。そして、その栄光に入るまで私たちのいのりを助け、導いてくださいます。ですから、私たちは聖霊の助けを求めつつ祈り続けましょう。
今日、私たちは天において主イエスが私たちのためにとりなしの祈りを捧げておられ、また、私たちの心の中で聖霊が私たちとともにうめきをもって祈っておられることを知りました。それほどまでに神様は私たちのことを心配してくださるのです。私たちも、主が私たちのために祈り続けてくださるように、お互いにために祈り続けることがたいせつではないでしょうか。誰か一人のために、これから1,2週間祈り続けましょう。また、私たちが自分のことを祈る時に、その祈りが御心にかなったものかどうかを考えながら祈りましょう。最近、自分が祈った祈りのリストを造って見るのも一つの方法です。私たちが祈ったいのりを聖霊も同じように祈ってくださるかどうか考えてみましょう。そのようにして、少しずつ、御心にかなった祈りをすることをみつけて行きましょう。アメリカの教会でこんなことがありました。ある父親が、礼拝が終わっていろいろな人と立ち話をしていました。そして立ち話を終えて会堂の外に出たときに、自分の4才になる娘メロディーがいっしょにいないことに気がつきました。アメリカの教会は普通、礼拝が終わるとすぐに会堂の扉が閉められて鍵がかけられます。ドアに鍵がかけられてしまいました。彼は教会の大きな扉についていた郵便受けの細長い穴から叫びました。「おい、メロディー、中にいるのか。」「うん。」という娘の弱々しい声が聞こえました。そして娘が郵便受けの細い穴から手を差し出しました。父親は娘の手をしっかり握って、誰かがドアの鍵を持ってくるのを待ちました。娘のメロディーは父親の顔が見えません。しかし、娘はそこに父親がいるのを知っていました。それで彼女は安心していました。
私たちの祈りは、この女の子にとっての父親の手のようなものです。父親が底にいて娘の話を聞いていました。女の子には父親の顔が見えませんでしたが、心は平安でした。私たちは弱い者です。どう祈ったらよいかさえ分からない時があります。しかし、私たちのうちに働く聖霊が私たちの祈りを導き、ともにうめいて下さいます。その祈りを神が聞いておられるのです。


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