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礼拝説教 2003-09-28『すべてを益とする神』(ローマ8章28節)
(イントロ)
「聖書を私たちの魂のごちそうだとすると、メインディッシュはローマ書の8章だ。」と言った人がいるそうですが、それほどにローマ書の8章は多くのクリスチャンにとって喜びや慰めを与える章だと言えます。8章には数多くの素晴らしいみ言葉がありますが、中でもハイライトとなるのは今日の箇所である28節の言葉です。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」短い言葉ですから、是非がんばって暗記しましょう。心の中に蓄えましょう。ただ、このみ言葉はあまりにも有名で、しかもその意味を十分に理解しないままに用いられることも多いようです。ある人は、「人生すべてOK。神様が何でも我々にとって一番いいようにしてくれるのだから。」と自分の都合のいいようにこの言葉を引用します。28節が私たちのどのような約束をしているのか注意深く見る必要があると思います。
(1) 私たちは知っています
ローマ書8章は「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」という宣言から始まっています。ここに書かれているのはパウロが個人的な自分の意見や考えを述べているのではなく、彼が聖霊の働きを通して神から受けた真理を宣言しているのです。ギリシャ語の聖書では、日本語と順番が違っていて、28節の言葉は「私たちは知っています」という言葉から始まっています。彼は神から受けた権威に基づいて、イエス・キリストを信じるクリスチャンは確信を持って生活の全ての領域が神の御手の中にしっかりと握られていること、そして、神様はどのような状況をも最終的にクリスチャンにとって祝福になるように導いてくださるということを確信できると断言しているのです。すべてのクリスチャンが、パウロと同じように、神様の言葉をそのまま額面通りに受け取るならば、「私たちは知っています」と断言できるのですが、実際には、多くのクリスチャンが、使徒信条では「我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず」と告白しているにもかかわらず、全能の父なる神様が本当に私たちの生活のすべての領域で全能の力を現してくださると信じていると言えるでしょうか。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の子どもになる特権が与えられます。全能の神様が私たちの霊的な親になるという新しい関係の中に私たちは入ります。私たちと神様の関係は、私たちが必死になって神様にすがりつくことで続いていくのではありません。神様が私たちをしっかりと握りしめて私たちの信仰を守ってくださるのです。イザヤ書41章10節では神様が次のように語っています。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め。あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」全能の神様が、自分の右の手で私たちを守ると約束しておられます。右の手は強さを現します。全能の神の力強い手が私たちを守るのならば私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。だから神様は私たちに繰り返して「恐れるな」と語っておられるのです。パウロ自身非常に厳しい迫害の中で生きていました。しかも、自分が建てた教会の中で様々な問題が起きていました。また、自分が導いた信者たちから批判を受けていました。しかし、そのような状況の中でも、彼は、クリスチャンならば「私たちは知っている」と宣言できるのだと教えています。
(2) 神がすべてのことを働かせて益としてくださる
クリスチャンは何を知っているのでしょうか。クリスチャンは28節に書かれているように「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ということを知っているのです。ここで、まず知らなければならないことは、働くのは全能の神だということです。すべてのことを益とするのはクリスチャンの働きではなく、神様の働きです。神様が私たち一人一人、小さな信仰者を心に留めてくださって、私たちのためによく配慮をしてくださるのです。しかも、この前のメッセージでお話ししたように、三位一体の神が一つになって私たちのために働いてくださいます。ヘブル書7章25節には「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」と書かれています。主イエス・キリストは、私たちのために十字架の死を味わってくださっただけでなく、今も、絶えず、私たちのことを覚えておられ、私たちのために祈っておられるのです。私たちは、一瞬たりとも、主イエス・キリストの愛から引き離されることはありません。また、聖霊なる神も、8章27節を見ると、「御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」とあります。三位一体の神様が、たった一人のクリスチャンのことを心にとめて、全力を挙げて働いておられるのです。そこにも、私たちに対する神様の深い愛が示されています。また、ここで「働かせる」と訳されている言葉は「一緒に」という意味のsunという言葉と働きや力を表す「エネルゲオー」という言葉が組み合わさって創られたsuneregeoという言葉です。この言葉から英語の言葉「synergy」が創られました。英語のsynergyという単語は、いくつかの要素が共に働いて一つ一つの力の合計よりも大きな力を生み出したり、あるいはまったく異なった力を生み出したりすることを意味する言葉です。例えば、化学の世界では、二つの物質が、それぞれ単独では害になるのに混ざり合うと良いものに変わることがあります。例えば、私たちが毎日食べている塩がそうです。塩はナトリウムと塩素が合成してできたものです。ナトリウムも塩素もそれぞれ単独では体に有害な物質ですが、不思議なことに二つが混ざると素晴らしいものに変わります。私たちの神様は決して小さな神様ではありません。たとえ私たちにとってマイナスなものも、神様が組み合わされると、祝福に満ちた素晴らしいものに作り変えられるのです。その神様が働かれるのですから、私たちは大きな期待と確信を持つことができるのです。今、私たちに分からないことや分からない状況があるとしても、私たちは結果を神様にゆだねて、神様の時を待つことが必要です。
また、パウロは「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と言っています。文字通り「すべてのこと」です。私たちが信じている神様は、それ自体が私たちに益となることがらも、あるいは、それ自体では私たちにとっては好ましくないことがらも、すべての状況の中から、私たちに最終的な勝利、最終的な祝福を作り出すことができるお方なのです。神様は私たちに良いものをたくさん与えて下さいます。神様の性質そのものが私たちにとって益になるものです。詩篇の145篇17-18節には「主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」と書かれています。神様は正しい方であり、同時に憐れみ深い神です。そして、神を呼び求める者の近くにいてくださる。神様は、私たちが神に叫ぶ時にそばにいて私たちを励まし、必要な助けを与えてくださるのです。詩篇145篇14節には「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます。」という言葉があります。全能の力を持っておられる神様の約束の言葉だからこそ、神の言葉は生きていて、力があります。私たちが苦しい状況に置かれた時、私たちを支えるものは何でしょうか。人間の知恵ではありません。人間の言葉ではありません。人間は、どんなに強そうに見えても、誰もが弱い者です。神の前には弱い者です。人間は皆、今日は咲いていても明日には枯れてしまう草のようで、今日は成功していても明日はどうなるか分かりません。しかし、神様は、昨日も今日もとこしえまでも決して変わることのない方です。ですから、神の言葉も約束も性質も永遠に変わることがないのです。
しかし、神様は、私たちによいものを与えてくださるだけではありません。私たちにとって害となるようなもの、好ましくないものをも、造りかえて、私たちにとって最終的に祝福となり、喜びとなるものを与えて下さるお方です。神様は私たちの苦しみも、私たちの痛みも、私たちの信仰の弱さも、罪深い性質も、どのようなものをも、神様は勝利と祝福に変える力を持っておられるのです。聖書の中にも様々苦しみや痛みを経験した人がたくさんいます。この手紙を書いたパウロ自身は大きな病気に悩まされていました。彼は病気が癒されればもっと神様のために大きな働きができると信じて、病気の癒しを求めて祈り続けましたが、彼の病気は癒されませんでした。しかし、パウロは、体の弱さを通して初めて神様の恵みの素晴らしさを知りました。星野富弘さんも同じです。彼は体育の教師になった一年目に事故で手足を動かすことができない人になりました。しかし、若くして体の機能を取り去られた深い悲しみの中で神様の愛を知って彼はクリスチャンになりました。今、彼が描く絵や彼が創る詩が多くの人を感動させています。それは星野さんにしかできない働きです。ペテロは大失敗の経験を持っています。イエスの12弟子のリーダーでありながら、彼は主イエスを3回否認するという失敗をして失意のどん底に陥りました。しかし、そんなペテロに主イエスは、誕生したばかりのキリスト教会で大切な働きを任せました。失敗前のペテロは傲慢で、自分の力を過信していたので、教会の働き人として神様は用いることができなかったのでしょう。しかし、自信を失った時に、ペテロは初めて神様に用いられる働き人になりました。キリスト教会が誕生したばかりの頃、サマリヤという地方でピリポという名前にクリスチャンが素晴らしい働きをしていました。しかし、彼の働きがサマリヤ地方で最高潮に達した時に、神様はピリポに「荒野に行きなさい」と命じました。ピリポには納得しがたい命令でした。今、自分の働きによってサマリヤでは続々とクリスチャンになる人が起こされているのに、そんな時に、人のいない荒野に行く理由が分かりませんでした。しかし、彼は、すぐに神の命令に従って荒野へ行きました。彼が荒野に向かっていた時、彼はアフリカに向かっている馬車の行列に出会いました。その行列には一人のエチオピアの高官がいました。彼は真理を求めてエルサレムまで来ていたのですが、そこでは真理を見つけられず失望してエチオピアに帰るところでした。ピリポは聖霊の導きを感じてすぐに馬車に乗り込み、短い間に、そのエチオピアの高官に主イエスの福音を語り、彼をイエス・キリストを信じる信仰に導きました。その高官はすぐに洗礼を受けました。彼は政府の高官でしたが、エチオピアに福音を伝えるという新しい任務を受けて国帰りました。そして彼がエチオピアに帰ってから、彼の働きによって大勢の人がクリスチャンになりました。イスラム教の国が多き北アフリカで、エチオピアは今でもキリスト教国です。
このような例を挙げるときりがありません。神様は、私たちの苦しみも、失敗も祝福に変える力があります。私たちが理解出来ないような状況の中でも、神様はご自分の計画を着々と進めておられるのです。私たちは、生活や状況がいつも自分の思い通りに進み、すべてが自分にとって都合のよいものであると、神に信頼することを忘れ、自分を過信します。自分の本当の姿が見えなくなります。しかし、自分にとって都合のわるい状況の中に置かれる時、人は初めて心から神を呼び求め、神に依り頼む者となります。パウロが「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と言ったのは、人は自分の弱さを知って、神に依り頼んで生きる時に、自分の限界から解放されて、神の力に支えられて生きて行くことが出来ることをパウロ自身が経験したからです。
(3) 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々
神様がすべてのことを働かせて益としてくださるのは、無差別に誰にでも約束されていることではありません。パウロは、ここではっきりと「神を愛する人々、神のご計画に従って召された人々」と限定しています。戦争映画では大きな戦闘の場面がありますが、ふたつの軍隊が敵と味方に別れてぶつかります。実際の戦闘の場面で、そこにいる兵士にとっていのちに関わる問題は、自分がどっちの軍の側についているかということです。自分が勝つ方の軍隊にいるのか、負ける方の軍隊にいるかで、その人の運命は決まります。ヨハネの福音書3章36節には「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」と書かれています。「神を愛する人々」というのも「神のご計画に従って召された人々」というのもクリスチャンを意味します。「神を愛する人々」とは人間の側から見たクリスチャンの姿です。クリスチャンとは主イエスの十字架によって自分の罪をすべて赦してもらい神のこどもとなった人々です。ですから、本当のクリスチャンは神様を心から愛します。一方、クリスチャンとは、神様のご計画によって神様から召された人々です。今、この場所に集まっている全ての人々は神様のご計画によって神様から召されているのです。神様の召し、神様の呼びかけに答えて、自分の罪を悔い改め主イエス・キリストを信じた者がクリスチャンです。神様は、神を呼び求めるすべての人々に、あらゆる良いものを備えてくださるだけでなく、どんなに悪いものも好ましくないものも、私たちにとって最終的な勝利と祝福に変えてくださいます。その神様が私たちを招いておられます。あなたをも召しておられるのです。神の招きに答えて、神様がすべてを働かせて益としてくださる人生をともに歩んで行きましょう。
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