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礼拝説教 2004-01-01『真実なる神の恵み』(1コリント1章1-9節)
(イントロ)
詩篇73篇24節「あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。」
私たちの信仰は、毎日毎日神の力とその知恵を信頼して生きることを意味しています。私たちは、神の言葉が真実であって、私たちの信仰が無益に終わることは決してないことを知っています。神様は私たちをさとして導いてくださると書かれています。さとしてと言うところは、英語では神様は私たちをカウンセリングしながら導いてくださるという意味で訳されています。私たちは、これから自分がどの道を進むべきか分からない時があります。また、私たちは明日何が起きるのかも知りません。しかし、迷いやすい私たちを神様はカウンセリングをしながら導いてくださるという約束が与えられています。私たちは自分の考えや、友達の意見に頼るよりも、決して間違うことのない神様に従って生きるほうが賢いのです。そしてやがて私たちの人生には終わりが来ます。この世の生活を終えて、この世を去らなければいけない時が必ずやって来ます。しかし、その時、私たちが床に伏しているときに、主は私たちのそばにいてくださいます。そして、やがて、この世を去ると、神様は私たちを栄光のうちに神様のおられる所に受け入れてくださるのです。私たちを天国の入り口で迎えてくださるのです。小沼智恵子さんは91才と11ヶ月の生涯でした。信仰を最後まで全うしてこの世を去られました。今は、これまで小沼さんをある意味で束縛していた肉体から解放されて、神様から目の涙をすっかりぬぐい去ってもらって、今は、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない状態で神のそばに移されました。この世にあるもので、私たちを永遠に守ることを保証してくれるものは何一つありません。この世のものはすべてこの世に残していかなければならないからです。しかし、主を待ち望む者は、永遠に栄光に場所に受け入れられるのです。死は確かに恐ろしく悲しいことですが、しかし、肉体の死を通過した向こう側には神の栄光があるのです。こちらから見ると死は暗い恐ろしい門のようです。しかし、神の側から見ると、それは光り輝いている黄金の門なのです。その門は神様と出会う場所に入る入り口です。2004年も何が起きるか分からない不安な年になりそうですが、私たちは何も恐れる必要はありません。人が例え私たちにどんな悪を行うとしても、誰も、私たちのいのちを神から引き離すことはできないからです。私たちは、小沼さんの信仰の生涯を模範として、これからも、一歩一歩神の知恵によって導かれながら、栄光の永遠を目指して歩み続けたいと思います。
2004年が始まりました。昨年もイラクでの戦争やSARSの感染、イランでの地震など、大きな事件や出来事がありました。街の景色も変化が早く、私たちの生活のいつも急ぎ足です。しかし、私たちの周囲がどんなに激しく変化をしても、私たちが信じている神様は、昨日も今日もいつまでも決して変わることがありません。変化の激しい時代こそ、私たちは不動のもの、決して変わることのない神を信じる信仰が必要なのではないでしょうか。今日は第1コリントの手紙の1章を読みました。これは次から次と様々な問題が生じていたギリシャのコリントという大都市に建てられた教会にパウロが書いた手紙です。パウロは多くの教会に手紙を書き送りましたが、その最初の部分にはいつもそれぞれの教会のクリスチャンたちが励ましを受ける挨拶の言葉が書かれています。今日の箇所も、パウロがコリントのクリスチャン達を励ます挨拶の言葉です。その中心の言葉は1章の9節です。「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」パウロは、コリントのクリスチャンたちに「神が真実なお方である」ということを思い出させています。聖書は、神は真実な方であることを繰り返し述べています。聖書が「真実」という言葉を神に対して用いる場合は、神が偽りの神ではなく本物の神であるという意味に加えて、神様と人間の関係において、神様はご自分が約束したことを決して変えない方であるという事を表す言葉なのです。パウロは繰り返し、神の真実について述べていますが、今日の箇所、第1コリント1章9節では、神様が3つの点で真実であることを教えています。
(1) 神は真実な性質を持った方である。
9節でパウロは「神は真実な方である」と述べています。言い換えると、神は100%信頼できる方であり、その時その時の気分で考えが変わる人間とは全く違う方です。聖書の中には、神様がいつも同じであると繰り返し語っています。詩篇の36篇には「神の真実は雲にまで及びます。」と書かれていますが、それは人間の真実は神の真実に到底及ばないことを表しています。また、詩篇の119篇には「あなたの真実は代々に至ります。」と書かれていて、神の真実が永遠に変わらないことを表しています。
また、神の真実の性質は神の行いにも現れています。前にも言いましたが、聖書が教える神は「契約を守る神」です。神様はアブラハムを選び出して、彼からイスラエル民族が生まれました。旧約聖書を見るとイスラエルの民は何度も神様の教えを守らずに反抗しました。しかし、神様は、頑固なまでに、イスラエルの民との契約を守り続けられたのです。神様はイスラエルの民の態度にかかわらず、彼らに恵みをいつくしみを与え続けられました。旧約聖書を読むと不思議なまでに神様はイスラエルの民との契約を守られます。新約聖書の時代の今、イエス・キリストを救い主と信じる人々は霊的なイスラエルと呼ばれます。ですから、旧約時代に、イスラエルの民との契約を守り通された神様は、新約聖書の時代の真のイスラエルの民であるクリスチャン一人一人に対してもまったく同じ態度を持ってくださるのです。私たちができる最善のこと、それは、100%神様を信頼して生きることです。
(2) 真実な神の招き
9節に「神は真実であり、その方のお召しによって」と書かれています。真実な神様が、私たちに恵みといつくしみを与えて、私たちを新しい生き方へと召してくださった、招いてくださいました。第1ヨハネ1章9節に次のような言葉があります。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」私たちは生まれた時に、最初の人間から延々と受け継がれてきた自己中心という罪の性質をもって生まれました。私たちは、生まれたままの状態では、聖なる神との交わりに加わることができません。しかし、真実な神様は私たちを招いてくださいました。私たちが誰かを家に招くとき、自分が好きな人を招きます。自分が嫌いな人を家に招くことは少ないでしょう。真実な神様は、私たちがどんなに罪深く、心や行いが汚れていても、私たちを愛しておられるのです。そして、ともに交わりを持てるように、その方法を造ってくださいました。それが救い主イエス・キリストの十字架です。私たちの罪を帳消しにするために、神はご自身の子、イエス・キリストを身代わりにして、主に私たちの罪の罰を全部負わせたのです。真実な神様は私たちを招くたねに必要なものをご自分で準備して下さいました。だから、私たちは何もしなくても、ただイエスを救い主と信じるだけですべての罪が赦されるのです。神様が大変な犠牲を払ってすべての準備をしてくださったのです。
そして神様は私たちを新しい生活に招き入れてくださっただけでなく、私たちを守ってくださいます。私たちは主イエス・キリストを信じたときに神の子どもとなる特権を与えられました。私たちは古い罪人として生きる生活から、新しく神の子として生きる生活へと招き入れられました。しかし、地上に生まれてずっと罪の性質に従って生きてきた私たちにとって新しい生活はいつも簡単ではありません。クリスチャン生活にはいろいろな誘惑や試練があります。しかし、第1コリント10章13節には「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」と書かれています。神様は、私たちのことをいつも見ておられます。それは私たちを裁くためと言うよりも、私たちのために祈り、私たちに助けを与えるためです。ですから、神様は私たちが今どのような状況の中にいるか、すべてのことを知っておられるのです。そして神様は私たちが倒れてしまうことを願っていません。親が子供をしつけるように、あるいは運動コーチが選手を鍛えるときのように、神様が私たちを厳しい状況の中に置かれることがあります。しかし、親が子供の限界を知っているように、また、コーチが選手の限界を知っているように、神様も私たちの限界を知っておられます。ですから、真実な神様は私たちに絶えられないような試練を与えることはないのです。それどころか、ここに書かれているように、神様はつねに脱出の道を備えてくださる方です。私たちがどんな状況に陥ったとしても、神様は私たちのためにいつも逃げ道を造って下さるのです。神にとって不可能なことは一つもないのです。真実な神様はつねに私たちのために道を開くことのdきるお方です。
(3) 真実な神の交わり
9節に「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」と書かれています。真実な神様は、私たちを主イエス・キリストとの交わりの中に入れてくださいました。それはどんな交わりなのでしょうか。9節に、「神の御子との交わり」と書かれています。父なる神と御子イエス・キリストとはまったく一つの交わりを持っておられました。コリントの教会の一番大きな問題は、教会員の間に分裂があったことでした。いろいろな派閥ができてお互いに争っていたのです。しかし、私たちが、イエスキリストを信じる信仰によって招き入れられたのは、父と御子が一つであるように、私たちは神の家族の一員となったのです。イエス様は十字架にかかる前に祈りました。「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるように。」私たちは、皆、罪の世界から救い出されて、神の家族に加えられました。皆、同じ神様の招きを受けて、この家族に入ったのです。だから、真実な神が願っておられるのは、神の家族が一つとなることです。私たちが主からの招きを受けたのは、私たち一人一人が何か神の働きをするためです。教会はこの世から逃げてきた人が集まる避難所ではありません。神から選ばれた人々がこの世界に神様の使命を実行していくための仲間が教会です。この罪に満ちた世界に、神様の愛を届ける大切な使命を私たちは受けているのです。しかし、これは決して簡単な働きではありません。この世は神を受け入れないからです。大変な闘いがあります。一つの闘いに勝利するためには、まず、自分たちがしっかりと一つになっていなければなりません。神様が私たちをこのような交わりに入れてくださったのです。
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