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礼拝説教 2004-01-04『あなたも同じようにしなさい』(ルカ10章25-37節)
(イントロ)
共産主義をこの世界にもたらしたカール・マルクスは自分が労働者たちの友であると宣言していましたが、よく調べてみると、彼は生涯を通じて労働者階級の友達を一人も持っていなかったそうです。彼はジプシーの出身であり、知識者として生活をしていたため貧困は経験していましたが、彼はつねに中流階級の知識者たちと交流を持っていました。彼は人類に幸福をもたらすための努力をしていましたが、彼は人間が嫌いで家族とは争いが絶えず、人をいつも言葉で攻撃をしていました。そして彼は最後の20年間は快適な家に住み、最後の10年間には、家に二人の召使いを置いていたのだそうです。私がマルクスのことで言いたいことは、人は素晴らしい思想や考えを持っていても、実際にそれを生活することが難しいということです。
私たちクリスチャンも、この点において気をつけなければなりません。主イエスが私たちに教えられたクリスチャンにとって最も大切ないましめは「全力を尽くして神を愛しなさい」と「隣人を自分自身のように愛しなさい」の二つの戒めです。私たちは、お祈りをするときに、「愛する天のお父様」と神様に呼びかけて祈ります。また、「愛するイエス様の御名によってお祈りします」と言って祈りを終わります。私たちは祈る時はいつもこの言葉を使っていますが、私たちは本当に神様を愛しているのでしょうか。また、神を愛することと隣人を自分のように愛することが結び合わされていますが、私たちは本当に隣人を自分のように愛しているのでしょうか。今年は、この二つの戒めを私たちの教会の取り組むべき課題として取り上げたいと私は考えています。
(1) 永遠のいのちを得るための律法(25-29節)
ある時、イエス様が人々に神の教えを語っておられると、一人の律法の専門家が立ち上がってイエスに質問しました。25節を見ると、それは純粋な質問ではなく、イエスを試すためのものでした。彼は律法の専門家です。律法とは旧約聖書のことですから、彼は旧約聖書のことをよく知っている知識人でした。ところがイエス様は、今日の箇所の少し前のところで次のように言っておられます。10章21節「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」聖書をいくら勉強しても、知識が人を変えるのではありません。知識が人を救うこともできません。信仰とは、神を信頼して生きる決断をすることですから、神を信じる信仰と聖書の知識とは同じではないのです。律法の専門家の質問は「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」彼は、実は、自分でこの質問の答えを知っていました。彼は、本当にその答えが知りたいのではなく、イエスを試して、変な答えをしたら訴えようと考えていたのです。もちろん、主はそんな彼の心は全部見抜いておられましたから、逆に彼に質問をされました。「あなたが専門的に学んでいる律法には何と書いてありますか。」それで、彼は、自分が尋ねた質問の答えが分かっていましたから、「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」と答えたのです。人の前で自分が尋ねた質問の答えを結局自分が答えたのですから、この専門家は他の人の前で恥をかいたように思ったでしょう。彼は面目を保つためにイエスに尋ねました。29節には「自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」と書かれています。彼は自分が神の戒めを守る正しい人間だと思いこんでいました。彼は律法の専門家の中では立派な生活をしている人で、自分の回りのユダヤ人と良い関係を築いていたことでしょう。しかし、彼はすべての人を愛することの困難を理解しておらず、愛に対する人間の限界を知らなかったのです。彼の質問対して、主イエスは答えて話されました。これが有名な「良きサマリヤ人」の話です。ここでイエスはたとえ話を話したとは書かれていないので、これは実際に起きた話で聞いていた人もその出来事を知っていたように思います。というのは、この話では祭司とレビ人が批判されて、ユダヤ人の敵のようなサマリヤ人が英雄のように言われているので、イエスの回りに集まっていた人には、この話は相当にショッキングな話です。ですから、この話を聞いたユダヤ人の中には激しく怒って、主イエスに向かって「そんな作り話でユダヤ人を馬鹿にするのか」と騒ぐはずなのですが、イエスの言葉に誰も反論をしてないところを見ると、どうやらこれは当時有名な出来事だったようです。
(2) 良きサマリヤ人の例え
ユダヤ人とサマリヤ人は長い間、互いに嫌っていました。ユダヤ人はサマリヤ人を汚れた民族だと軽蔑していました。昔、イスラエルの国は北イスラエルと南ユダの二つの国に分かれていました。サマリヤ人は北イスラエルの人々の子孫です。北イスラエルの人々はアッシリアという国に戦争で負けたときに、捕らえられてアッシリアに連れて行かれ、そこでアッシリアの人々と結婚したために、イスラエル民族の純粋な血に外国人の血が混じってしまいました。一方南ユダの人々はバビロンとの戦争に敗れた時にもバビロン人と結婚することなく、自分たちの民族の血を守りました。そのような歴史の中で、主イエスの時代には、ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、サマリヤ人はユダヤ人を憎み、お互いに交わりを持つことなく、互いに話をすることもありませんでした。たとえ話は次のように始まりました。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。」ある人というのは、特に説明がないのでユダヤ人を意味します。そのユダヤ人がエルサレムからエリコに向かう下り坂の道で強盗に襲われて意識を失って道に倒れていました。その場面に3人の人が通りかかりました。最初の人は祭司でした。
この祭司はたまたま強盗に襲われた人と同じ道を通っていました。祭司とは、今日の牧師と考えれば良いと思います。エリコには大勢の祭司が住んでいたと言われているので、おそらくこの祭司はエルサレムの神殿の奉仕を終わって家に戻る途中だったと思われます。祭司は神殿の務めをするためには宗教的な意味で汚れていてはいけません。旧約聖書の教えの中に「祭司は死んだ人のために自分の身を汚してはいけない」と書かれています。しかし、この祭司はエルサレムの神殿での務めを終わって家に帰るところですから、別に倒れている人が死んでいたとしても、別に困ることではなかったはずです。しかし倒れている人を見て祭司は考えました。「長い仕事を終えて俺は疲れているんだ。それに、まだ強盗が近くに隠れているかも知れない。この死体をおとりにして俺をも襲うかも知れない。危険を冒す必要はない。それに、この道は人通りが多いから、誰か別の人が、レビ人か、一般の人が助ければ良いのだ。」そこで、彼は道の反対側を通って通り過ぎて行きました。
2番目にやってきたのはレビ人でした。レビ人は祭司の下で働く人で、神殿での奉仕や人々を教える役割を持っていました。彼も祭司と同じようにエルサレムの神殿での働きを終えて家に帰る途中だったと思われます。32節にレビ人は「その場所に来て彼を見ると」と書かれていますので、彼は倒れている人に近づいてその人を見たのだと思います。そして、彼も祭司と全く同じことを考えて、倒れている人から離れて、その場所から立ち去りました。
3番目にやってきたのはサマリヤ人でした。ユダヤ人が自分たちよりも低い民族だと軽蔑していたサマリヤ人がやってきて、その人を見たときに、彼を見てかわいそうに思いました。当時のユダヤ教の教師は「サマリヤ人のパンを食べたものは汚れた動物である豚を食べたのと同じだ。」と言うほどにサマリヤ人を嫌っていたのです。ところが、そのサマリヤ人が、ユダヤ人が倒れているのを見て哀れに思ったのです。あなたは、いつも自分を軽蔑し憎んでいる人が倒れている野を見てどう感じるでしょうか。「いい気味だ」と感じるのが普通ではないでしょうか。ところが、彼はけが人に応急手当をして、まず自分が乗っていたロバを彼のために譲りました。自分はロバを降りて歩き、変わりにけが人をロバに乗せました。そして宿屋に連れて行き、宿屋の主人に銀貨2枚渡しました。銀貨2枚あれば一ヶ月近く食べる物が買えます。さらに、彼は自分の用事が終わったら戻って来て、その時、けが人の世話にもっとお金がかかったら、自分が全額払うと言ったのです。
(3)主イエスが教えたかったこと
サマリヤ人は助けを必要としているユダヤ人のために、時間を犠牲にし、またお金を犠牲にしました。主イエスは、このサマリヤ人の態度を隣人に対する模範として選ばれたのです。律法の専門家たちはサマリヤ人を軽蔑しひどく嫌っていました。サマリヤ人もまたユダヤ人、特に宗教家たちを嫌っていました。本当の憐れみは、助けを必要としている人々が自分と敵対する人であっても、愛を実践することです。一方、相手との関わりを避けるのは自己中心の心を表しています。
律法の専門家がイエスに答えた「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』という聖書の言葉は当時のユダヤ人は誰でも知っている言葉でした。特に、イエスに質問をしたのは律法の専門家でしたから、彼は、毎日朝と夕方に2回この言葉を暗唱していたはずです。イエスは彼に尋ねました。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は「私の隣人とは誰ですか。」と尋ねたのですが、主イエスの質問は「誰がその人の隣人になりましたか。」という質問でした。その質問に律法の専門家は「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えています。彼は「3人目のサマリヤ人」とは言いませんでした。彼には、いまだに、サマリヤ人という言葉を口にすることに抵抗があったのでしょう。そんな彼に対して、主イエスは命令を与えました。「あなたも行って同じようにしなさい。」
主イエスの質問が「誰がこの人の隣人になりましたか。」であることに注目しましょう。「誰が隣人であるか」を考えるのではなく、「私は誰の隣人になれるのか」を考えることが大切です。私たちは他の人と関わりを持ちたくないと思えば、関わらなくてもすみます。隣人を自分自身のように愛するという命令は、私は誰の隣人になれるか」という問いを考えなければなりません。しかし、隣人を自分自身のように愛すると言う命令は、力の限りを尽くして神を愛するという命令と結びついています。私たちは自分のうちに他者の隣人になる愛を持っていません。したがって、第2の戒めを守るためにはどうしても第1の戒めを守れなければならないのです。誰かの隣人になるためには、まず、神から徹底的に愛されている自分を発見することが必要です。神の愛を知ってはじめて私たちは、神様の愛の力を受けて他の人にその愛を伝える人生に入れられるのです。私たちは愛されています。私たちがどんなに神に敵対していたとしても、愛されています。神の愛に背を向けていた者も皆愛されているのです。私たちはその愛を受けた印として、どんな小さなことでもいいですから、回りにいる人々の隣人になりましょう。神様からの愛をもっともっと知り、体験することによって、回りの人々の隣人になりましょう。また、この教会が回りの人々の隣人になる教会であるように目指して行きましょう。
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