2004礼拝めっせーじ

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メッセージ2004


礼拝説教 2004-01-25『知恵の法則』(箴言2章1-7節)
(イントロ)
聖書の有名な言葉の一つに「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」という言葉があります。人間は、単に肉体と心でできている存在ではありません。体は暖かい服、おいしい食べ物、住む家があれば満足します。人間の心はいろいろな知識や他の人との間の愛情によって満たされれば満足します。しかし、私たち人間はそれだけでは完全に満たされることがせきません。それはなぜかと言うと、聖書が教えているように、人間は神の姿に似せて造られているからです。人間は他の動物とはまったく異なっています。一番違っている点は、人間だけが神と交わりを持つことができることです。人の心の奥に神の口から出る一つ一つの言葉でなければどうしても満たされない部分があるのです。このことを無視して、他のもので満たそうとしても、人は決して100%満たされることはありません。箴言は、今から3000年前に生きたイスラエルの王ソロモンが書いたものですが、彼は当時最高の地位と最高の知識と最大の富を持っていました。しかし、そのようなソロモンが箴言の中で何度も繰り返して書いていることは、神からの言葉、神からの知恵以外のもので人は決して完全に満足することはできないということです。人生で最も大切なことは神を畏れ、神を知ることですが、しかし、私たちは、これを真剣に求めなければなりません。最近のテレビ番組ではおいしい食べ物に関するものが多いです。一流のすし職人は最高の魚を求めます。先日の番組ではスペインまで出かけてマグロを買い付けている人がいました。このように人はこの世のもののためには苦労を惜しまずに最高のものを求めます。しかし、永遠にほろびることもなくなることもない神からの知恵に対して、私たちは同じような情熱を持っているでしょうか。箴言の2章ではソロモンが何よりも大切なものとして神の知恵を必死になって求めるように勧めています。
(1)神の知恵を求める
 ソロモンは箴言の2章1節から4節で、神の言葉を自分のものとしてしっかりつかむために何をしなければならないかということを色々な行いを表すことばを用いて表現しています。
1−1)神の言葉を受け入れる
受け入れるとは、与えられるものをそのまま受け取ることです。神は全知全能の方です。そして私たちのためにすべてのことを働かせて益に変えてくださる方です。イエス様が言われました。「子どもがパンが欲しいと言うのに石を与える父親がいるだろうか。まして、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがあるか。」私たちを愛し、私たちのためにもっとも大切ないのちをも捨ててくださった神様は、私たちにとって一番良いものを与えようとしておられるのです。神様の口からでる知恵の言葉もすべて私たちにとって一番よいものです。私たちはその言葉を感謝して受け取ることが必要なのです。箴言の1章7節は、愚か者は神の言葉を軽蔑すると言っています。私たちは他の人が言った一つの言葉で人生が変わることがあります。その言葉を真剣に受け止めてそれにチャレンジする時に、私たちの人生が変わります。神の言葉から離れて生きる人は愚か者だと聖書は言っています。神様の言葉は時には自分にとって厳しいものです。しかし、その言葉が私たちをさらに大きな人間へと導くのです。
1−2)神の言葉を蓄える
新約聖書のヤコブの手紙の中に次のような言葉があります。「みことばを聞区だけの人は自分の顔を鏡で見る人のようだ。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」もし、私たちが神の言葉を聞いても、それを自分の心の中に蓄えなければ、み言葉は私たちに対して何の影響を与えません。ダビデは「神様に罪を犯さないように御言葉を蓄えました」と言いましたが、私たちも、神様の言葉を蓄えることが必要です。御言葉を蓄えるとは御言葉を暗記することです。今、祈祷会では、暗唱聖句をしていますが、御言葉を蓄えることは私たちに大きな助けになります。ジョン・オスバーグという人が昔朝鮮戦争の時にアメリカ軍の兵士のための牧師として戦地にいました。彼は毎晩兵士達とともに穴に隠れていましたが、敵からの爆弾や銃弾が絶えず富んできてひどい恐怖にいつも襲われていたそうです。しかし、そのような状況で、彼は御言葉が持つ力を体験しました。彼はローマ書8章28節の御言葉の約束をいつも思い出して、「神様はすべてのことを働かせて益としてくださる」という御言葉を心の中で何度も何度も繰り返すことで恐怖心と戦いました。このように、御言葉は生きて働くとき、大きな力があるのです。
1−3)神の言葉に耳を傾ける
私たちの耳は大変よく出来ています。伊東さんのように補聴器を使っている人は大変です。機械は回りの音を全部そのまま集めるからです。しかし、人間の耳は自分が聞きたい音や言葉だけを集めることができるのです。誰か他の人の話している言葉が気になると、私たちの耳はその人の言葉にレーダーを合わせることができます。他にもいろいろな音があるのに、私たちの耳にはその人の話し声だけが聞こえてくるのです。耳を傾けるとは、本当に神の言葉を聞きたいという心を持つことです。私たちは神様の知恵の言葉を本当に大切な言葉として耳を傾けているでしょうか。それとも、何となく無意識に聞いているだけでしょうか。
1−4)英知に心を傾ける
私たちの生活にはいろいろなプレッシャーがあり心の中には悩みや不安がいっぱいあります。しかし、私たちの心の中にまず蓄える必要があるのは神の知恵の言葉ではないでしょうか。主イエスも言われました。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」私たちの人生には将来に向けて計画を立てることが大切です。しかし、神を無視して計画を立てても、私たちはいろいろ先走って心を思い煩いでいっぱいにするだけです。心配して寿命を延ばす人はいないでしょう。むしろ、思い煩いは人のいのちを縮めます。主イエスは、いろいろ心配しないで、神を信頼しなさいと言われました。私たちも神様の知恵に心を向けるなら、不必要な心配をすることはありません。神様にとって不可能なことは一つもありませんし、また、神様は私たちの必要を全部ご存じだからです。
1−5)神の知恵を呼び求める、英知を求めて声をあげる
 神からの知恵や英知は私たちの人生の中で最も大切なものであり、また、神様が喜んで与えてくださるものです。しかし、まず必要なのは、私たちがそれらを求めることです。求めるならば与えられます。神様は豊かな知恵を持っておられるのですが、求める人が少ないのです。コリントにあった教会もそうでした。パウロはコリント教会に送った手紙の中で次のように書いています。「兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」(1コリント3:1-2)コリントの教会のクリスチャンたちは、神の知恵を求めなかったために、いつまでたっても信仰は赤ちゃんのような信仰でした。健康な体は食べ物を必要としますから、人は空腹を感じて食事をします。食べるものが必要だと分かっている体は健康です。同じように神の言葉、神の知恵が必要だと分かっていてそれを求める信仰が健康な信仰なのです。私たちは、自分の霊的な成長にどうしても必要な神の言葉、知恵をどれほど真剣に求めているでしょうか。
1−6)神の知恵を銀のように探し、隠された宝のように探り出す
神の知恵は隠された宝のようです。私たちはそれを探さなければなりません。昔の人は、自分の財産を安全に預けられる場所がなかったので、よく宝を地面の中に隠したそうです。そして、宝を埋めた場所が分かるように地図を造ったり印をつけたりしていました。しかし、時々、その地図や印が間違っていたために、宝を埋めた場所が分からなくなることがありました。そうなると大変です。埋めた場所の近くを探さなければなりません。忍耐強く、あきらめずに、ひたすら探し続けなければなりません。神様の素晴らしい知恵が聖書の中に表されています。「探す」と訳されている言葉は、イエスの時代の税関の報告書の中に使われている言葉だそうです。税関の職員は、旅行者の鞄の中に何か隠されていないか鋭い目で探します。そのように私たちは神の知恵を探し続けることが必要なのです。
(2)神の知恵が私たちにあたえるもの
 私たちが神の知恵を求めるために行う努力は決してむだに終わることはありません。箴言の2章は、神の知恵を求めなさいという強い訴えから始まっていますが、後半には、その結果、神様が豊かな祝福を与えて下さる約束が記されています。まず神様が私たちの教師となって必要な知恵を与えて下さいます。(6節)イエス様は言われました。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」私たちがキリストのくびきを負うとはキリストとともに生きるということです。くびきは2頭の動物をひとつにつなぐものです。ですから、2頭の動物が心を合わせて行動しないと動けなくなります。しかし、2頭の動物が心を一つにして働く時、1+1以上の仕事をすることができるそうです。私たちも主イエスと心を一つにして生きるなら、自分が持っている限界を遙かに超える生き方ができるのです。その時、私たちは必要な知恵をキリストから学び取ることになります。また、その時、神が正しく歩む者の盾となると約束されています。聖書の中に神様が私たちの盾となってくださるという約束が何度も繰り返して書かれています。私たちが、神様の知恵の言葉に従って生きる時、神様は日ごとに私たちの盾となって守ってくださるのです。12節を見ると私たちを悪の道から守ります。17節を見ると神様の知恵が私たちを様々な誘惑から守ります。神の知恵は、私たちを教える教師あり、また私たちを守る方でもあるのです。
 アメリカの第24第大統領クリーブランドは若い頃、悪い友人に誘われて毎晩酒を飲みに出かけていました。彼は悪いとは分かっていても断る勇気がありませんでした。ところがある晩、いつものようにバーに行く途中、教会の前を通った時、彼は教会の看板に書かれていた言葉に心を指されました。「罪の支払う報酬は死である」彼は勇気を出して友達に「今日はバーに行くのを止めて教会に行こう」と言ったのですが、友達は怒って一人でバーに行ってしまいました。彼はその晩教会の集会に出て自分の罪を悔い改めてクリスチャンになりました。それから30年後、彼は苦労して、町の市長になり、州知事になり、とうとうアメリカ大統領になりました。そのニュースが流れた時に、一人の死刑囚が刑務所で泣いていました。その死刑囚は、あの夜、教会の前で怒ってクリーブランドと別れてバーに行った友達だったのです。神の知恵を求める者のために神は正しい道を保ち、その道を守って下さるのです。私たちは、神の知恵を毎日求め、それを自分のものとして、信仰の面で立派に成長できるように励んで行きましょう。



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