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礼拝説教 2004-02-08『人生の法則』(箴言4章23-27節)
(イントロ)
箴言4章23節を読みましょう。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」日本語では、心臓という言葉と心という言葉がありますが、ヘブル語も、英語も、一つの言葉で心臓と心を表します。心臓は、人間の体の中で最も大切な部分であるように、心は、一人の人の人格を決定する最も大切な部分です。第1ペテロの3章には結婚式で読む夫と妻への教えが書かれていますが、その中で3章3−4節に「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」と書かれています。つまり、心の中にその人の本当の人柄が隠れているということです。ある人が言いました。「考えが言葉を生み出し、言葉が行いを生み出し、行いが習慣を生み出し、習慣が人格を生み出し、人格がその人の運命を生み出す。」このように人の人生の出発点は心にあるのです。私たちの人生がどうなるのかということは、私たちがどのような心で生きるかによって決まるのです。
(1)心の考えの大切さ
4章23節「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」後半で、「いのちの泉はこれからわく」と書かれていますが、これは、心臓から血液が流れて出て体の隅々にまで届けられるというイメージで書かれた言葉です。心臓が元気に動いている時、血液は体の隅々にまで届きます。血液が体のすべての所まで送られる時、人のいのちは保たれているのです。同じように、人の心は、私たちの人格のすべての部分に影響を与えます。心臓は本当に不思議な器官です。人が生まれた時から、規則正しく動き続けています。そして心臓からいのちの源である血液が体全体に送られているのです。ですから、この心臓の動きが止まったり、おかしくなると人のいのちは死んでしまいます。同じように人の心は、その人全体を生かすか殺すかを決めるほどの影響力を持っています。第1に人の心は、私たちがものごとを考えたり理解したりするための中心です。私たち人間は、神様の姿に似せて造られました。それはいろいろな意味がありますが、わたしたちがものごとを考え、理解する能力が与えられているのも、私たちが神に似せて造られているしるしです。
イエス様がある時、言われました。「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」このように、心の中で考えることは私たちの内面、魂を殺してしまう力を持っています。しかし一方で、心は、私たちの信仰の中心でもあります。パウロはローマ人への手紙の中でこう言っています。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」このように、私たちを救いに導くのも心であり、滅びに向かわせるのも私たちの心の考えです。心がそれほどに大きな力を持っているので、ソロモンは、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。」と言ったのです。私たちが風邪をひいた時に、完全に風邪が治すために必要なことは何でしょう。熱を下げることでしょうか。のどの痛みを取ることでしょうか。鼻水を止めることでしょうか。それらはすべて風邪をひいた時に現れる症状です。風邪を完全に癒すために必要なことは外側の症状を取ることではありません。風邪を引き起こした風邪の菌を殺すことです。同じように、私たちは自分の外側だけを変えようとしても変えることはできません。しかし、風邪の菌が完全に殺されれば自然と熱が下がり鼻水が止まるように、心の中が新しくされれば自然と私たちの行動が変えられるのです。
(2)心が変えられた時
心の中の考えが私たちの行いや性格を決定します。私たちの心が変わると私たちの口や目も変わります。ソロモンは4章24〜26節で「偽りを言う口をあなたから取り除き、曲がったことを言うくちびるをあなたから切り離せ。あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。」と言っています。主イエスが言われたように、口の中から出てくるものが人を汚すのです。もしも、あなたの心がきれいにされているならば、心の中から出てくるものもきれいなものであるはずです。私たちは他の人の言葉を通して、その人がどんな人であるか知ることができます。あなたが他の人の口から出る言葉を聞いた時に、その人の心の中に何があるかを知ることができるのです。
また、私たちの目も見るもの変わります。主イエスは言われました。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」私たちの目はどんな時も主イエスに向いていなければなりません。自分の回りの状況や自分の回りの人間ばかりを見ていれば、私たちの心は暗くなります。しかし、主イエスを見上げるならば、私たちの回りがたとえ嵐のような状態であっても、私たちは何も恐れる必要はありません。ヘブル書12章2節には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と命じられています。ペテロが主イエスの言葉を信頼し、主イエスをじっと見つめていたとき、彼は嵐のまっただ中でボートから一歩足を踏み出し、主イエスと同じように水の上を歩くことができました。それはペテロ自身の力ではなく、彼が主イエスだけを見つめていたときに、主イエスの力が働いて、彼は自分の限界を超える働きをしました。しかし、彼が主イエスから目を離して、自分の回りの激しい風や波を見たときに、彼は恐くなって沈んでしまいました。主イエスに目を注ぐ限り、私たちのうちに主イエスの力が働くのです。
また、心が変えられるなら、私たちの歩みも変わります。私たちが、主イエスを信じ、主イエスの言葉に従って生きることを決心するとき、私たちの前に進むべき道が示されます。ダビデは詩篇37篇23~24節で「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」と述べています。心が変われば、人が語る言葉が変わり、見る視点が変わり、そしてその歩みが変わるのです。かつてイギリスがスコットランドを征服した後、スコットランドで反乱が起きました。時のイギリス王はスコットランドで反乱を起こしていた有力者達に命令を出しました。12月31日までにイギリスへの忠誠を誓うならば赦される。一人のスコットランドの領主が他の反乱者たちと共にイングランドに戻ることを決心するのですが、彼の心にはプライドがあって、すべての反乱者の中で最後にイングランド王に忠誠を誓おうと計画しました。彼は決められた期限の二日前の12月29日にイングランド王のいる場所に向かって出発しました。ところが途中で激しい吹雪に出くわして、彼は計画通りに進むことができず、結局、期限前にイングランド王に出会うことができませんでした。他の反乱者たちは全員赦されたのですが、彼はみじめにも処刑されてしまいました。私たちの心にある考えが私たちの行動を妨げるのです。
(3)私たちの心をどのように守るのか
人の心の大切さを知っていたソロモンは「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。」と言いました。私たちが心を見張り、心を見守るにはどのようにすれば良いのでしょうか。パウロはローマ人への手紙12章1〜2で次のように述べています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」パウロは、神に対して自分自身を捧げるようにと命じています。旧約の時代にユダヤ人たちはいけにえを捧げていましたが最も重要なものは「全焼のいけにえ」と呼ばれるものでした。これは罪を赦してもらうためのいけにえではなく、罪を赦された人が感謝を込めて、自分自身を捧げる変わりに動物を捧げました。捧げる人は動物の頭の上に手を置きました。それは自分と生けにえの動物が同じであることを表しています。そしてそれらは完全に焼かれました。それで全焼の生けにえと呼ぶのですが、生けにえを薬のは神に香ばしい香りを届けるためでした。そして神様はその生けにえを喜んで受け入れてくださるのです。これは私たちの献身を表しています。主イエス・キリストを信じた人は、すでに神の子どもであり、神のものになっています。しかし、私たちは、自分が神のものになったことを確認し、自分の自由な意志で、自分自身を神様にささげることが大切です。十字架によって表された神様の愛を知り、神様のあわれみを思いながら、喜びをもって行う献身です。そして、私たちが自分自身を捧げるときに、神様は喜んで私たちを受け入れてくださるのです。献身とは、自分の決意です。自分の口も、目も、足も、能力や才能をすべて、神様のために用いていただくために捧げるのです。
私たちが自分自身を捧げるとき、ふたつの事が起こります。一つはわたしたちを分離することです。この分離には二つの面があります。一つは「この世と調子を合わせてはいけません。」と言われているように、この世の流れに流されないように、自分をこの世から分離することです。しかしもう一つの面は「心の一新によって自分を変える」ことによる分離です。それは、この世から私たちが分離するのではなく、私たちの心の中からこの世を取り出すことによる分離です。心の中に主イエスの愛がいっぱいになれば、この世のものは自然と心の外に流れ出てしまいます。
もう一つのことは、私たちが神の御心をわきまえ知ることができるということです。何が神の御心であり、何が良いことであり、何が完全なことであるかを知るようになるのです。私たちの行いが、いつも神の御心は何であるかを求める行いになります。また、さらに良いことを求める生き方に変わり、さらには、完全なクリスチャンとはどのような生き方をするのかを求めるようになるのです。その時、私たちの人生は神の御心にかなう生き方となり、かみにとって良い生き方となり、さらには完全に神に受け入れられる人生へと変わるのです。そのために、まず、私たちの心を見張って力の限り、自分の自我、プライドなどに支配されることなく、心のすべてを主に支配してもらいましょう。御言葉にどこまでも従い続ける者でありましょう。その時、私たちは、あらゆる束縛から解放され、本当に自由に、生きることができるのです。
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